第113話:門出の為の精算
「……………へ?」
ガシャァンッ!!
ある日の昼下がりの事。気の抜けた様な声と共に、ソファーに座っているリアの手から滑り落ちたティーカップが割れた。
別に高級品という訳ではない、昔まとめて買った安物のティーカップである。とは言え、普段から物を大切に扱うリアが、そんな風にティーカップを取り落としてしまうのは初めてのことだ。そして、
「あれ……夢……?」
「……やっぱり疲れてるのかな……私。」
次いで、傍に控えていた二人の侍女も、目や頭を抑えながらそう呟いた。その二人、ファムとアリサは、リアがティーカップを取り落とした事すらも意識の外の様で、呆然と、目の前の景色を瞳に写していた。その瞳は、まるで見てはいけない物を見てしまったかのように濁っている。
そして、その三人の視線の先では……。
「本当に、申し訳なかった。」
リアの屋敷の客間、リアが座るソファーの隣の床に膝をついて、土下座をしている司羽の姿があった。
十分くらい前の事だ。
一連の事件にもケリが着き、星読祭の喧騒も落ち着き、そろそろまた学園にも行く時期かと、リアが物思いに耽っていた時だった。
バタバタと廊下を走る慌ただしい音が聞こえて、リアは珍しいなとボンヤリ思っていたのだが、次の瞬間聞こえたノックの音に、ますます首をかしげた。
取り敢えず返事をして、入るように促すと、いつも冷静な表情に、明らかな緊張を滲ませたアリサがドアを開けて入って来て、司羽教官がいらっしゃいました、と告げてきたのだ。
リアは最初、あれだけの事があった以上、アリサを含めた家族達が、司羽に対し緊張するくらいは仕方がないと思っていた。しかし、それ以上に感謝を述べるべきであり、自分はその代表として、一番に声を挙げなくてはならないとも思っていた。
だからこそ、アリサの態度にも疑問を持たず、客間で応対していたファムの顔色も気にはしなかった。
その結果、取り敢えず一杯飲んで落ち着こうとしたリアは、不意討ち同然にティーカップを駄目にしてしまったのだが。
「…………。」
「あ、あの……司羽……さん?」
走馬灯の様な回想が終わり、やっとの事でそれだけ絞り出したリアは、今の自分の表情がひきつってしまっている事を確信していた。その土下座が余りにも唐突だったとか、何についての謝罪なのかとか、分からないことは色々あったが、司羽が目の前で自分に対して土下座をしていると言う事実に、何故か震えすら沸き起こってくる。喉元にナイフを当てられても、きっとここまで震えは起こるまい。
しかし、当の司羽はそんな事を気にも留めた様子はなく、頭を下げたままでいる。
「この度は、私、萩野司羽の不徳の致す処に寄り、皆様に多大なる心痛を与えてしまった事を、心より御詫びしたいと思う次第で御座います。」
「え……えぇっ……?」
「取り敢えず、これを。つまらない物では御座いますが。」
「は、はいっ!! こ、これは御丁寧にどうも……って、違いますよ!!」
司羽にそのままの体勢で差し出された包みを、思わず受け取ってしまったリアだったが、その瞬間にハッと正気に戻って司羽に詰め寄った。ノリツッコミみたいになってしまったが、リアの方は到って真面目だ。
「司羽さんいきなりどうしたんですか!? 頭を上げてください!!」
「……いや、どうしたと言われると……まあ、俺自身納得のいかない部分も……。」
「もう、司羽?」
リアは、とにかくその状況を何とかしようと司羽に問いかけたのだが、何やら返事をしようとした司羽の言葉は、別の少女の言葉に遮られた。
「イエ、ナンデモアリマセン。」
「……ミ、ミシュナさん。こ、これは一体。」
司羽の言葉を遮ったのは、リアの対面のソファーに座っていたミシュナだった。あまりの出来事に忘却していたが、司羽は今日、一人で此処に来た訳ではなかった。そして、リアの視線がミシュナに向くと同時に、そのソファーに座るもう一人の人物もリアの視界に入った……いや、入ってしまった。
「ひっ……ル、ルーン……。」
「…………。」
「ルーンもそんなに睨まないの。あんたの親友でしょうが……。」
「……司羽は何も悪くないのに。」
「あ、あははっ……。」
そこでようやく、リアは先程からの体の震えに納得がいった。あのルーンの眼だ。リアは知っている。ルーンのあの眼は、最高に不機嫌な時の眼なのだ。大切な恋人に土下座をさせている現状を変える為なら、ルーンは手段を問わないかもしれない。
どうやら、平和な午後の一時は、遥か彼方に消え去ってしまったらしい。ここから先の選択は、一つ間違えれば破滅が待っているだろう。……本当に、いきなり命の危機である。
「……えっと……司羽さん。」
「ああ、なんだ。」
リアが冷静に考えると、司羽が謝ってくる内容に思いあたる節がないでもない。ルーンが不満そうで、ミシュナが引っ張って来ている事からして大体絞り込める。
「えっと……もしかして、この前の事ですか?」
「ああ。効果的な方法だった事は間違いない。必要な事だったのも。……だが、独善的なやり方だったのかもしれない。それについてミシュナに大分……その……怒られてな。」
「……独善的……ですか。」
「ええ、結果良ければ全て良しではいけないわ。貴方達があの時どれだけ辛い思いをしたのか。司羽にもちゃんと分かって欲しいの。」
そう言ったミシュナの瞳には、思わず吸い込まれてしまいそうな強い意思の輝きがあった。
「勿論必要な事だったのかも知れない。けど、必要だからと言って貴方達の気持ちを蔑ろにする様な事を、司羽には平気でして欲しくないの。騙したり、傷付けたり、陥れたり、必要な事だから何も思わなくても良いって、司羽に割り切って欲しくないわ。貴方達がどうこうって話だけじゃないの。私は、謝る事に意味があるって思ってる。」
「傷付けたり、ですか。なるほど……。」
そこまで言われて、リアは大体察した。そして同時に、ミシュナがどれほど司羽を大切に思っているのかも、感じ取ることが出来た。……それこそ、この謝罪に、司羽が謝る事以上の価値は感じていないのだろう。リア達が何と返そうが、きっとミシュナは気にしない。
「…………。」
そして、そんなミシュナ相手だからこそ、ルーンも司羽の謝罪に対して直接口出しをしていないのだろう。ルーンもまた、ミシュナの事を認めているのだ。あの蒼き鷹との戦いの際にも感じていた、ルーンからミシュナに寄せる信頼の理由がリアにも分かった気がした。
「なるほど……分かりました。それって、蒼き鷹の襲撃を私達に伝えなかった件、もしくは私達を売り、試した件、でいいんですよね?」
「ええ、そうよ。それ以外に何かあるの?」
「い、いえ、何も。ただの確認です。」
一瞬頭を過った、訓練でお尻を叩かれた件ではないと確信した。いや、ミシュナの真面目な顔からして違うとは思ったし、もしその事ならルーンの不機嫌はこんなレベルではないだろうが。
「………?」
「こほんっ、す、すみません。……えっと、そうですね。」
そう言って、リアはちょっと考える。今まで、司羽に対して感謝こそすれ、謝罪して貰うことなど考えても居なかった。勿論、あの時の絶望感は筆舌にしがたいものがあったし、心から信じていた人に裏切られる恐怖は、もう二度と味わいたくはない。あの時の全てを失うような感覚は、思い出す度に全身が寒くなる。
「確かに、私にも今回の件で思うことはあります。……きっと私だけではなく、皆そうなのでしょう。そして、私だけではないからこそ、簡単に全て気にしていないなんて言えません。」
「……そうだな。」
自分の事だけなら、まだいい。しかし、自分が感じたあの恐怖を、大なり小なり自分の家族達も感じたはずだ。まだ自分より幼いリン達も含めて、様々な傷を心に負うことになった。戦い……そして戦争なんて物は、彼女達に無縁のままで居て欲しかった。
「ですが、私の家族達は……我が家臣は、それ程柔ではありません。私達を助けてくれた恩人に、恨み言を吐くような者はおりません。最後まで私について来てくれた、誇りある私の家臣は、きっと今回の件を乗り越えて、更に強くなるでしょう。だから、顔を上げてください。恩人に頭を下げさせたまま平気で居られるような恩知らずは、我が家臣にはおりません。」
「………………そうか。」
「はい。司羽さんの気持ちは、私が受け取りました。良いですね、アリサ、ファム。」
「はい。」
「フィリア様の御心のままに。」
「……分かった。それなら、この話はここまでにしよう。」
リアの言葉に従者の二人が頷くと、司羽も頭を上げて立ち上がった。ケジメとしては、こんな所だろうと。ミシュナの方を見れば、嬉しそうに、いとおしそうに司羽を見上げている。どうやら、ミシュナもこれで満足している様だ。
……さて、そうしてこの騒動にも決着がついた訳だけれども……どうしてか、リアはまだ身体中に寒気を感じたままだった。
「…………。」
「えっと……る、ルーン?」
「………何?」
「………あ、あははっ……こ、こほんっ。」
寒気の原因は分かりきっている。……どうしよう。やっぱりと言うか、分かっては居たけど……ルーンの機嫌はさっきにも増して最悪である。
正直な話、リアとしてもルーンの気持ちは分かる。ミシュナの考えがあって、司羽が謝罪してくれたとは言え、本来であればこちら側からも問題解決のお礼があって然るべきなのだ。ルーンからしてみれば、自分の恋人が目の前で、何の罪もないのに謝罪させられたに等しい。
しかし、今終わったばかりの話を蒸し返すのもタイミング的にやりづらいものが……。もう無表情のままこちらを見ているのが怖すぎる。どうしよう、長い付き合いのリアでも、今のルーンの機嫌を直す方法なんて思い付かない。そう焦りながらも、何とかリアは考えを巡らしていた。
「あ、え、えっと……あの……。」
「ルーン、俺の方を向け。」
「司羽……? んむっ!?」
ちゅっ
「……へっ。」
「はえっ!?」
「ほえぇぇっ!?」
しかし、困りきったリアが何とか言葉を絞り出そうとした次の瞬間、リアは目の前の光景に頭が真っ白になった。そして、同時に後ろから二人の従者の普段聞きなれない抜けた声が響く。そして、頭が真っ白になりながらも、リアは目の前の光景から眼が離せなかった。
それは司羽が、ミシュナとルーンの間の席に戻った次の瞬間だった。ルーンが司羽の声に振り向くと同時に、ルーンの小柄な体が司羽に抱き締められ、ルーンの小さな唇が塞がれる。
ルーンと司羽の関係はリアも良く知っていたが、目の前のその光景は、恋愛とか恋人とかに縁のなかったリアには余りにも刺激的なものだった。そしてそれは、側に控えた侍女達も同じだったようだ。
「る、ルーンっ、司羽さんっ!? は、はわわっ、えっと、ええええっ!?」
「んっ………ちゅっ………ふぁ。」
「……ほら、あんまり怖い顔するな。リア達も困ってるぞ?」
「むぅ……狡い。司羽にちゅーされたら、もう怒れなくなっちゃうよ。」
そう言ったルーンの表情は、急激に綻び、赤みが指し、司羽の瞳の奥に見惚れた様に、トロンとしたまま抱き締められて身を預けていた。そしてそんな二人を、ミシュナだけが呆れた様子で見つめている。
「はぁっ、ちょっと二人とも人前よ? 司羽まで、ちょっとルーンに毒され過ぎじゃない? ……ほら、リア達も顔が真っ赤じゃない。」
「まあ、ほら、少しくらいはな。ルーンも限界だったみたいだし……ありがとな、俺の為に。」
「………うん。」
「………もう、本当にルーンに甘いんだから。」
そう言ったミシュナの表情は呆れ半分で、もう慣れたけどねと言外に伝わってきた。リア達と違い、もう完全に見慣れた光景ゆえの反応だった。
そんなミシュナの言葉と態度に、リア達も段々と目の前で起こった光景に心が追い付き始める。
「……ハッ、あっ、え、えーっと……その……。」
「御免なさいね、ルーンの事は気にしないで良いわ。今ので機嫌なんて直ぐに元通りだから。……それにしても、人前でキスなんて……こっちまで恥ずかしいわ。」
「あ、あははっ……それなら安心しました。……その、ちょっと噂には聞いてましたけど……凄い、甘い……ですね。」
「………はぁっ、私なんかもう慣れっこよ。」
「……な、なるほど。」
そんなミシュナの溜め息に、リアはから笑いでしか返すことが出来なかった。トワとユーリアから聞いた話では、家では物凄い甘々カップルだと言う話だが、その片鱗を見てしまった気がする。自分達には刺激が強すぎるが……あれに慣れてしまったと言う三人には、尊敬と同情の念が沸いてきてしまった。
そして、リアがそんな事を考えている間に、どうやらルーンの機嫌は改善したようである。先程まで張り詰めていた空気は完全に緩和されていた。リアはそれを見てホッと胸を撫で下ろす。まだ顔が暑い気がするが、それ以上にルーンがニコニコしながら司羽に抱き付いている姿にホッとしていた。
それが、新たなる火種の始まりだとも知らずに。
「えへへーっ。」
「……もう、二人とも、あんまり外でベタベタしちゃ駄目よ? 最近の司羽ったら、ルーンに甘々過ぎるんだもの。」
「ん、そうか? 俺は特に意識してないんだけど……。」
「意識してなくてそうなってるから問題なのよ……ルーンも、もうちょっと自重しなさい? 外ではあからさまに抱き付かないようにするとか……。」
「えー……。」
ミシュナの指摘に、ルーンは明らかに不満そうにしながら、司羽の体にぎゅっと抱き付いていた。ルーンの腰に回った司羽の腕に、所謂恋人繋ぎで手まで繋いでいる状態だ。
司羽との事に関して、ルーンにこんな風に言えるのは世界中探してもミシュナだけだろうが、そんな状態のルーンが素直にお説教を聞く筈がなかった。
「別に良いじゃん。リアだって迷惑してないでしょ?」
「えっ!? あ、あー、まあ、そうですね……。」
「ちょっとリアさん……? 貴女もルーンに言う事はちゃんと言わないと……。」
「もー、ミシュナうるさい。自分が恥ずかしがって我慢して、司羽と思う存分イチャイチャ出来ないからってさー。私には分かるんだから。」
「なっ……そ、そんなんじゃないわよ!! わ、私は我慢とか、イチャイチャとか……別に。」
ルーンのその不満に、ミシュナはちょっと声を荒げて反論し、プイッと視線を逸らした。しかし、ルーンはその一瞬の動揺を見逃さなかった。
「……ふーん?」
「……な、何よ。」
ルーンの勿体振った様な雰囲気に、ミシュナはちょっとたじろいだ。あのルーンの眼。何だか悪戯をする子供の様な光を放っている気がして、ミシュナは嫌な予感がしていた。そしてルーンは、ニヤリと笑った。
「『王子様にキスして貰わないと、寂しくて起きられないにゃん♪』」
「………へっ?」
ルーンの突然の発言に、ミシュナはつい裏返った声をあげてしまった。そして、一瞬思考を停止して真っ白になった頭が、徐々にその言葉の意味を理解し始める。段々と、ミシュナの顔色が青くなっていく。
「っ………あ、貴女まさかっ……。」
「『ルーンが起きる前に、素直になれない美羽の事、沢山躾て欲しいにゃん♪』」
「い、いやあああああああっ!!!! はあっ!? な、なんでその事………ね、寝たフリしてたわねぇ!?」
「ふふっ、ミシュにゃんは司羽だけの従順な仔猫だもんねー?
毎朝、司羽がちゅーしてくれないと寂しくて泣いちゃうんだもんねー?」
「っぅ~!?」
ミシュナはルーンの発言にいきなり大声を上げたかと思うと、涙眼になりながら顔を青くしたり赤くしたりして、遂には絶句してしまった。そして。
「………る、る、ルウううううううううンッ!!! 今すぐっ、今すぐその記憶を消しなさいっ!!」
「ふふーん、やーだ♪」
「ううううっ……!!」
「……ほら、もうそろそろ終わりにしろ。」
司羽の両側で司羽越しに睨み合う二人に、もう完全に傍観者に回っていたリアはハラハラしながら見ていたのだが、司羽がそれを察して二人の間に入ってくれたみたいだ。睨み合っていた二人は、その一言で取り敢えず矛先を収めてくれた様である。
「取り敢えず用は済んだんだから、今日はもう帰るぞ。」
「はーい。」
「………覚えてなさいよ、ルーン。」
………本当に取り敢えずは、である様だが。そして、そんな二人はさておいて、司羽はリアに向き直った。
「……リア、今後の事はまた後日にしよう。ユーリアやトワも居る時にな。今日はさっきの謝罪だけを先に済ませたかった。実はこれから予定があるんだ。ちょっと、役所にな。」
「はい、分かりました。……でも、役所、ですか。」
「まあそれについても、今後改めてな。俺からの報告じゃあないだろうが。」
「っ……!! 成る程、分かりました。全てはまた後日に。ルーンとミシュナさんも、また。よき一日に成りますように。」
「うん、ありがとう、リア。」
「ええ、ありがとう………あ、でも、さっきのルーンの妄言は忘れなさい……良いわね?」
「………は、はい!!」
ギラリッと射るような眼光に貫かれ、リアは瞬間震えた声で反射的に返事をしていた。ノーと言う答えはあり得ない。折角拾った命を捨てるなんてとんでもない。
そして三人は、来た時と同じく、ピッタリとくっついたままリアの屋敷を後にした。その三人の後ろ姿を眺めながら、リアはクスリと笑って呟く。
「どうか、その道に幸あれ。」