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東都探偵物語 ~三つの探偵ストーリー~

リーインカネーション

作者: 如月いさみ

唇が…最期の言葉を紡ぐ。


『またな』と言ったのか『まだだ』と言ったのか。

腕の中で虚を見たまま動かなくなった身体は最期の音すら届けることなく逝ってしまった。


神宮寺静祢はアハッ、アハハハと笑うとその身体を抱き締めた。

「あと何回だ?」

なぁ

「秋月…あと何回で良いんだ?」


…あと何回お前をこの手で終わらせたら良いんだ?…


頬を色のない雫が落ちていく。

一粒。

二粒。

それは虚を見つめたまま永遠に何も写さなくなったガラス玉のような瞳の上に落ちて涙のように流れていった。


なあ、泣いているのか?

俺を憐れんで泣いているのか?


ゆるさない。

ゆるさない。


お前を。

俺を。


…この世のあらゆる全てを。


静祢は背後の扉から聞こえてくる足音にもう動くことすらせず、笑いながら目の前の窓から射し込む光を見つめ続けた。


一色卓史は扉を開けると一面に広がる朱の中で笑い続ける静祢を見つめ視線を伏せた。


全てが遅かったのだ。

自分は間に合わなかったのだ。


「神宮寺…秋月…俺は…」


瞼を伏せ、背後に立った男達に唇を開いた。

「全てを消し去る」

ここであった全てを


男達は無表情のまま静祢の横に立つと笑い続ける彼を連れて行った。

全てを揉み消すために。

跡形もなく消し去る為に。


友情も。

親愛も。


非情な運命すらも。


卓史は静祢を見つめ

「静祢」

と友の名を呼んだ。


しかし声は無機質に響くだけで、静祢は笑いながら卓史を瞳に写すことなく横を過ぎ去った。


■■■


「初めまして、秋月直樹です」

にこりと笑って挨拶されて驚いた。


ドキリとするほど整った容貌に影のない真っ直ぐモノを見つめる瞳。


神宮寺静祢は飛び跳ねた心臓を押さえるように慌てて隣に立って彼を紹介した島津春樹と見比べ

「お前らクリソじゃないか」

その…島津…の隠し子かぁ?

と冗談ぽく言ってドキドキと踊る心臓の鼓動を誤魔化した。


伊藤朋巳と特別な家系ではないが同年代で仲の良かった一色卓史に誘われて訪れた伊藤家の庭でのことであった。


そう…全員がまだ10代になったばかりの頃の話である。


伊藤朋巳は静祢に

「秋月家と島津家の当主は元々が兄弟なんだから似ていて当り前だよ」

隠し子じゃないよ

と説明し

「なぁ島津」

と呼びかけた。


島津春樹は頷き

「直樹のお父さんが事故で亡くなったから一緒に暮らそうってお父さんが連れてきてくれたんだ」

だから

「俺の兄弟になったんだ!」

と両手を上げて告げた。


「同じ年の兄弟が出来てすっごく嬉しい」

家に帰っても一緒に勉強できるし遊べるしな

「春珂も二人で面倒みてるんだ」


直樹も笑顔で頷いて

「俺も春樹と一緒に色々できて凄く楽しい!」

二人も兄弟出来て寂しくない!

「な、春樹」

とじゃれ合う子猫のように抱きついて緑の庭で転がりながら騒いだ。


静祢はそんな二人の姿を見て

「…兄弟って普通はドンパチだろ」

何仲良くしてんだ

とぼやいた。


神宮寺家にはもう一人男系の子供がいる。

長男の静一だ。


静祢や春樹、朋巳に卓史、そして、今日初めて会った直樹よりも4歳年上なのでこの集まりには参加しない。

そういう意味ではもう一つの特別な家系である陸奥家の長男である初男も4歳上なので参加していないのである。


彼らからしたら既に

「ガキの集まり」

という位置づけなのだ。


ただ、その長男の静一も陸奥家の初男もこの集まりに参加する唯一人の存在に関しては気にかけているところがあった。


「春樹さんも直樹さんも仲が良くて良いなぁ」

私の家はダメなの

「女の子の私だけしか生まれなかったし…それに…私、夢みちゃうし」

と、少し寂しそうに椅子に座って磐井栞が呟いた。


この集まりの唯一の女の子である。


彼女は磐井家直系だけが持つ不思議な瞳の色をした綺麗な少女で少なからず春樹と朋巳と卓史は彼女に対して仄かな恋心を抱いていた。


そう、静祢の兄である静一も陸奥家の初男もまた彼女を気にかけていたのである。


政略結婚に4歳の年齢差というのは全く問題がなく磐井の力と彼女の特別な夢の力を各家の当主は欲しており、実のところ神宮寺家でもその話題はそこはかとなく浮上してはいた。


もちろん、そこにあるのは恋だとか愛だとかいう感情はない。

完全なる政略であった。


直樹は栞の前に立つと

「どうして?女子だけだとダメなの?」

別にいいじゃん

「俺、別に良いと思うよ」

それに未来を夢で見るのだって悪いことならそうならないように動けば良いだけだし

「良いことならそうなるように頑張ればいいことだろ?」

とにっこり笑って栞の顔を見つめた。

「だたそれだけのことじゃん」


栞も春樹も、卓史も朋巳も目を見開いて驚いた。


磐井家の導夢は神聖なもので誰もが一歩あいだを開けた状態になるほどのモノで、つまり、磐井家でも彼女はある意味家族という位置づけよりは神聖なる存在であった。


ただ栞がまだ子供なのでこのように特別な家の子供たちの集まりに来ることが今はまだ可能なのだが、恐らく彼女は早々に何処か今一番勢力のある家系へと嫁ぐ形になるだろうと誰もが思っていた。


それが神宮寺家であった。

つまり静祢の兄・静一のところである。

なので、恋心は恋心で彼らの誰もが一歩踏み込むことができない状態であった。


春樹は直樹と驚いている周囲の三人を見て困ったように笑うと

「直樹は東京育ちだし…そういうの分からないから」

とフォローを入れた。


直樹は不思議そうに

「そうなのか?」

と言い

「でも、栞ちゃんも夢夢夢―ってみんなと違う態度されると寂しいよな?」

と告げた。


栞は目を見開いて戸惑いつつも素直に小さく頷いた。

「うん、寂しい」


直樹は笑顔で

「だったら、気にしなくていいじゃん」

一緒に遊ぼー!

と手を掴んで春樹を見ると

「何して遊ぶ?」

栞ちゃんも遊べるやつな

と告げた。


春樹は戸惑いつつ静祢や卓史や朋巳を見て

「な、にする?」

と聞いた。

朋巳は思わずプッと笑って

「じゃあ、だるまさんが転んだは?」

これなら大丈夫だろ?

と提案した。


卓史も「だよな、みんなで遊ぼ!」と笑顔で告げた。

春樹もほっとしつつ

「わーい!」

と両手を上げて喜んだ。


彼らは全員10歳。

基本的に素直に嬉しいことは受け入れる年ごろでもあった。


しかも、春樹にしても朋巳にしても卓史にしてもそれぞれの家系の長男で上に誰かがいるという圧迫がない状態だったのである。


まだ無邪気さが多く残っていたのである。

つまり、生まれた時から次男の静祢とはまた違った立場であった。


静祢は直樹を見るとむっと口を尖らせた。

自分が。

そう、自分が。

思っていても言えないことを何の抵抗もなく言う彼が静祢には面白くなかった。


所謂、やっかみである。

羨ましかったのだ。


静祢は直樹の横に立つと

「お前は自由で良いよな」

と言い、ぷいっと前を見ると

「俺が最初に鬼する」

と伊藤家の庭の大きな木の下へと駆けた。


直樹は不思議そうに静祢を見て

「?」

と疑問符を飛ばすだけで彼の気持ちがわからなかったのである。


まだ、この時は…ただ、それだけの関係であった。


■■■


西海道学院大学付属小学校に秋月直樹が編入してきたのは静祢が紹介されてから程ない頃であった。


同じ小学4年生でクラスはA組であった。

それは彼が島津家の身内ということで島津春樹が在籍するクラスになるように配慮されたのである。


西海道学院とはそういうところなのである。

金や地位によるカーストが支配している学校だったからである。


直樹は春樹の隣の席に座り

「春樹の横で良かった」

と笑顔で告げた。

春樹も笑顔で

「俺も、凄く嬉しい」

と返した。


同じ教室で直樹の後ろの席に座っていた静祢は

「やっぱり、子猫がじゃれている感じだな」

とぼやいた。


教室には他にも伊藤朋巳が静祢の隣の中央席に座っており、一色卓史が窓際の前の席に座っていた。


西海道学院はいわゆる財界や政界の子息が集まる学校なのでセキュリティーが厳しい。

校舎の窓は全てビルや建物がない海側にあり建物がある陸側には無い。


しかも、窓側の席の生徒は比較的地位の低い生徒や次男という立場の生徒が座っており、万が一の時に内側の生徒を優先に助けようとする学校側の思惑が透けて見える席の配置となっていたのである。


静祢も本来ならば窓際の席候補だったのだが、神宮寺家は特別な家の中でも今勢力のある家であったので辛うじて中央の席になっていた。


そんな全てが静祢には面白くなかった。

そういう事を何も考えずに無邪気に授業を受けている秋月直樹や島津春樹が目の前にいて余計に鬱陶しかったのである。


だから。

それは一寸した嫌がらせのつもりだった。


例え神宮寺家であっても流石に島津家の長男に鬱積したものをぶつけることはできない。

だが、秋月家は特別と言われているが静祢からすれば財産も権力もない島津家の厄介になっているだけの子供に過ぎなかった。


静祢は百道浜の一角にあるこんもりと木々が茂る場所へと直樹を連れて行った。


一緒に行くと言っていた春樹には

「後で島津の家に送り届けるから先に帰ってろよ」

と言い

「あの湖を見せてやるだけだ」

と告げた。


湖というのは学院から歩いて10分程度の場所にある。


木々に隠れるように大きな穴がありその中央に海と繋がった深い湖があった。

汽水湖で水は透き通って綺麗だが生き物は住んでいなかった。


代わりに水底には綺麗な山形の丘が静かに佇んでいたのである。

不思議な光景の場所であった。


静祢はそこへ直樹を連れて行き小さく口の端を上げた。

「どうだ、すげぇだろ」


言われ直樹は両手を広げると

「すごーい!」

と喜んだ。


木々の間を抜けると穴の手前に1mほどの段があり、一か所からその段のところへ降りれるようになっていた。

そして段のところに柵があり、海側に中へと降りる用の階段があったのだ。


穴の底まで降りることは出来るがかなりの高さがあり、見学だけなら1mの段のところで柵の周囲をゆっくりと見て回る、それで十分であった。


静祢は段へ降りる階段を指差し

「あそこから降りて見れるんだ」

と言い

「こいよ」

と縁を歩いた。


直樹は笑顔で

「うん、ありがとう」

と静祢の後ろについて歩いた。


静祢は自分のうしろを中の光景を見ながら歩く直樹にほくそ笑んだ。


そう、ちょっとした悪戯だったのだ。

静祢は草と葉っぱで覆い隠した穴の前に来るとそこだけ少し大股で飛びこえた。


その後ろで何も知らなかった直樹は草と葉に隠された穴へと足を滑らせた。

「!!」

直樹は態勢を崩して前を行っていた静祢へと手を伸ばした。


静祢は振り返り

「びっくりしただろ」

とニヤッと笑った。


直樹の身体は1m下の段へと滑るように転がった。

クッションになるように枯葉や草を敷き詰めていたのでそれほどのショックはなかったはずである

別に怪我をさせる気はなかったのだ。


背中を打って咳込みながら

「神宮寺…くん」

と静祢を見上げた。


静祢は鼻で息をして

「無邪気でお幸せそうなお前らに少しムカついただけだ」

迎えに行ってやるから待ってろ

と階段方へ足を踏み出した時であった。


ふらつきながら立ち上がりかけた直樹が手に掛けた柵の木が折れたのである。

「あ」と直樹の声が聞こえたかと思った瞬間にその場から底へと落ちたのである。


静祢はまるでコマ送りの映像を見ているように直樹の身体が落ちていくのを見つめた。

暫く身体がピクリとも動かなかった。


いや、腰が抜けてその場に座り込んだのである。


ただ少し癪に障ったので嫌がらせを考えただけなのだ。

まさか柵の木が腐っているとは思いもしていなかったのだ。


「あ、あ…秋月!!」

嘘だろぉ

静祢は慌てて駆け出すと階段を下りて更に海側の階段を下りて底で倒れている直樹の元へと近づいた。


ピクリとも動かない肢体。

血が土に広がり、そうなのだろうと直感的に静祢は理解した。


「まさか、折れるなんて思ってなかったんだ」

俺は

「少し嫌がらせをするつもりで」


だってそうだろ?

「先のない俺に比べてお前らは長男だってだけで…恵まれてるじゃねぇか」

お前だって

「何もないくせに自由で…楽しそうで…だから」


静祢は震えながら立ち上がると慌ててその場を駆け出した。

取り敢えず人を呼んでこなければならない。


泣きながら学院へと向かい帰ろうとしていた一色卓史を見つけると

「助けてくれ、卓史…俺、俺…」

秋月を…助けてくれ

と泣きじゃくりながら、戸惑う卓史の手を引いて直樹が落ちた場所まで連れて行ったのである。


太陽は傾き、空は緩やかに朱を帯び始めていた。

海風は湖を抱く穴の周囲の木々を揺らしてザワザワと騒めかせていた。


錯乱状態で泣きじゃくる静祢に連れられて卓史は林を抜けて穴の下まで降りると折れた柵の木が散らばる場所を見つめた。


土は朱に染まっているが…そこに静祢が言うような直樹の姿はなかったのである。


唯、朱に染まった土の上を風が流れ、彼らの遥か上の木々がざわざわと音を立てているだけであった。


■■■


「…静祢、俺を担いだ?」

呆然と一色卓史が言い、神宮寺静祢を見た。


静祢はガクガク震えながら

「ちげーよ!」

ほ、本当に

本当に

「ここに秋月が落ちて」

と指を差して泣き叫んだ。


だが、何もない。


卓史は陽も翳り夕刻が近付くと

「もしかしたら動ける程度だったのかもしれないから、島津に連絡して確認しよ」

と告げた。

「ここにいたって秋月くんいないし」

俺が確認してやるから


静祢は震えながら何度も頷いた。


卓史は一色家の長男である。

と言っても一色家自体が島津、伊藤、神宮寺、陸奥、磐井と一線画して下の家系だったので静祢の屈折した理由を理解できないわけではなかった。


ただ、島津春樹にしても伊藤朋巳にしても磐井栞にしても、この静祢にしても自分を下に見たことはない。

だから、大切な友達だと思っていた。


同じようにもう一つ一線を画して下の家系にある羽田野家の長男である厚長の方が『伸し上がってやる』という陰鬱とした気合いがあり過ぎて近寄り難かった。


西海道学院の門前に戻り卓史は興奮が少し収まりかけていた静祢を見ると

「俺が家に帰ってから島津の家に連絡を入れる」

連絡付いたら秋月君に静祢が反省しているっていうから

「明日ちゃんと謝れよ」

と告げた。


静祢は頷いた。

「ごめんな、俺、俺」


卓史はにこりと笑うと

「もうしないこと」

分かったな

「こんなことになったらお前だって寝れないだろ?」

元々そんなに強くないんだからな

と告げた。


静祢は「俺は…」と反論しかけたが

「けどもうしない」

と答えた。


小学校の区域の駐車スペースで止まっていた送迎の車に二人は分かれて乗り、卓史は家に帰ると早々に島津家に電話を入れた。


そして、秋月直樹を呼んでもらったのだ。


電話口には本人が出て

「一色君、どうしたの?」

と明るい口調で返事があった。


卓史は大きく深く安堵の息を吐き出すと

「あの、今日…静祢がさぁ、秋月君があの湖の崖から落ちたって泣きながら言ってきて」

凄く心配してたんだ

「身体は大丈夫だった?」

本当に落ちたの?

と聞いた。


直樹は電話口で

「うん、大丈夫だよ」

ピンピンしてる

と答え

「今、春樹と春珂君とゲーテンドのゲームでテニスしているんだ」

と明るい声で告げた。


卓史は「そっか、じゃあ静祢に伝えておく」と言い

「静祢、凄く反省してるし…謝るって言ってたから許してやって」

と付け加えた。


直樹は「うんうん」と答えて受話器を降ろした。

そして、笑顔を収めると背後に立った島津家の当主であり春樹と春珂の父である春美を肩越しに見て

「…俺のことを心配した?」

それともお前の家族の事を心配した?

と振り返った。

「家庭を築いて…それを守るためにお前が何をしたか」

俺は忘れない


春美は小さく

「……すまない」

だが俺には

と呟くと、背後から聞こえる春樹と春珂の声に視線を逸らした。


「直樹―、電話終わった?続きしよー」

「ぼ、僕も負けない。お兄ちゃんにも直樹お兄ちゃんにも負けないからね」


直樹はひょこっと春美の影から顔を覗かせて笑顔で

「わかった!今行く!」

と答え、春美を見ると

「…春樹と春珂を傷つけたりしない」

俺の身内であることに違いはないからな

と言うと駆けだした。


卓史から連絡を受けた静祢は

「ごめんな、卓史」

ありがとうな

と泣きながら答えた。


卓史は笑いながら

「良いよ、気にしなくたって」

と答え

「明日、ちゃんと謝れよ」

と念を押して告げた。


静祢は頷いて

「わかった、謝る」

と答え、受話器を降ろすと安堵の息を吐き出した。


少し離れたリビングからは長男の静一と両親の笑い声が響いている。

出来の良い静一は両親の期待も大きく何時も家の中心で輝いていた。

廊下でポツンと立った静祢はその笑い声を聞きながら足元をひやりと過ぎていく空っ風に身体を震わせると自分の部屋へと駆け戻った。


長男は天国。

次男は地獄。


先に生まれただけなのに全てを長男は無償で与えられるのだ。

次男は少し遅く生まれただけなのに異なる家の子供のように執事や家政婦など以外は自分に見向きもしない。


そして、大きくなって長男が家を継げばいつの間にか戸籍から抹消されている可能性が高いのだ。

つまり先が無いという事だ。


神宮寺や陸奥は特にその傾向が強かった。

後の後継者争いにならないようにするためである。


磐井や伊藤もその傾向はあるが…双方が一人っ子なのでそういう問題はなかった。


静祢は息を吐き出すと

「島津は何であんなにお気楽な兄弟なんだ」

とぼやき

「俺も、島津に生まれれば良かった」

とぽつりとつぶやいた。


翌日、静祢が学院に行くと秋月直樹の姿があった。

ピンピンとしたまるで昨日の事がなかったような姿であった。


卓史は静祢を見ると

「静祢」

と名前を呼んだ。


静祢は頷いて直樹の前に立った。

隣に座っていた春樹や伊藤朋巳のみならず教室中の視線が二人に注がれた。


直樹は口を開きかけた静祢を見ると

「屋上に行こう」

とにっこり笑って言い、春樹に

「春樹、神宮寺君と少し話してくる」

と告げると卓史を見て

「ありがとうね、一色君」

行ってくる

と笑顔を見せた。


静祢は直樹が誘うままに屋上へと上がった。


普段は鍵が閉められているのだが内から開けられるようになっているので生徒なら誰もが屋上へ登ることが出来るのだ。


頭上には青い空が広がり太陽が眩しく世界を浮かび上がらせている。

横手に見える海の青も。

身体を取り巻くように流れる風も。

全てがごくごく普通のモノであった。


静祢は屋上に着くと振り返る直樹を見て

「あ」

と言い

「ごめん、俺…俺…」

ごめん

ごめん

と頭を下げた。

「羨ましかったんだ」

俺さぁ、先が無いんだ

「あいつが成人したらきっと俺は消される」


…わかるか?少し遅れて生まれただけで家でも居場所が無くて未来もないって気持ちが…


直樹は凪を宿したような瞳で静祢を見つめ

「終わったんだ」

と告げた。


静祢は一瞬何を言っているか分からず

「は?」

と直樹を見た。


直樹は静祢を見つめ

「あの直樹はあの時に終わったんだ」

見てわかったんだろ?

と冷静に告げた。


「俺は…その直後に始まったんだ」

あの場所だったから

「春美以外は誰にも気付かれずにすんだ」


静祢には何を言っているか分からなかった。

直樹は屋上の柵に凭れその場に座った。

「秋月家は存続しなければならない家系なんだ」

島津はまだマシだった

「ただ弟は…子供を作って血を繋ぐことが出来た」


…俺は怖くて子供を作れなかった…

「俺達、正反対だよな」


家系存続のために死ななければならない静祢と。

家系存続のために生き続けなければならない直樹と。


直樹は膝を抱いて顔を伏せると

「何で話したんだろうな」

絶対に話してはいけない秘密だったのに

「…きっと同じ目をしてたからだ」

鏡を見た時の俺と同じ目をしてたからだな

と静祢を見てふわりと笑った。


それは幼い子供の顔に似合わない大人の笑みだった。


静祢は立ち尽くし声を出すことができなかった。

いや、直樹が言ったことの一割も理解することが出来なかった。


ただこの重苦しい自分と同じものを抱いているのだと頭の片隅で理解したのである。


直樹は俯いたまま小さくぼやいた。

「俺はあと何回終わったら…死ぬんだろう」

俺には子供をつくる勇気がない

「こんな終わりのない再生だけの人生を子供に押し付ける勇気なんか出るわけがない」


静祢は直樹の前に行くと抱きしめた。

そして胸に溜まった何かを吐き出すように、ただただ泣き続けた。


この時から静祢にとって直樹は特別な存在になったのだ。

単に同病相憐れむの感情だったのかもしれないが…それでも特別な存在になったのである。


■■■


伊藤家での集まりは定期的なもので毎週土曜日か日曜日に集まる。

と言っても集まって遊ぶだけなのだが同年代の友達と遊ぶことは楽しく自然と仲間内の結束も固くなっていた。


秋月直樹もすっかり全員と仲良くなり静祢もあの日から口は相変わらずだが直樹に向けていた妬みはなくなっていた。


紅一点の磐井栞も気づけば直樹や春樹、朋巳や静祢、卓史と走り回ったりするようになっていた。


直樹が島津家へ引き取られてから6年。

全員が高校生になっていた。


伊藤家の庭には幾つかの桜の花があり春にもなると綺麗な桜の園になる。

磐井栞はこの日、綺麗な古典柄の着物を着て姿を見せていた。


長く柔らかい波打つ黒い髪に独特の藍とも紫ともつかない瞳。

白い肌に唇には紅が差していた。


日頃は洋服で特別な時だけ着物を纏うのだが、花見という席で今日は着物姿であった。

春樹も朋巳も卓史も全員がゴクリと固唾を飲みこんだ。


春樹は隣に立っていた直樹を見ると

「凄く、綺麗だ」

と小さくつぶやいた。

直樹は不思議そうに春樹を見ると

「俺が?」

と指を差した。


それには静祢が手でビシッと

「そんなわけねぇだろ」

と突っ込んだ。


朋巳も思わず

「秋月…突っ込みにくいからそのジョーク」

と笑った。


春樹は真っ赤になりながら

「磐井さんだよ」

凄く着物似合ってる

とポソポソと告げた。


直樹はアハッと笑うと

「そのままいえばいいじゃん」

というと

「栞ちゃん、その和服似合ってるって」

と栞を見てさっぱりと告げた。


栞は頬を染めながら

「直樹さんは…どう思う?」

と視線を横に逸らしながら問いかけた。


普通そうにしているが僅かに震えている指先で彼女がこの問いかけに緊張していることが全員に伝わった。


そう、春樹も朋巳も卓史も彼女の事が好きなのだが…彼女が直樹を好きだという事が分っているのである。


直樹はにっこり笑うと

「うん、似合ってると思う」

というか、栞ちゃんって洋服でも和服でも可愛いよな

と屈託なく応えた。


静祢は横目で直樹を見ると

「その言い方は適当に聞こえるからよくないぜ」

とぽそっと囁いた。


直樹は静祢を見ると

「適当じゃないよ」

静祢は相変わらず皮肉な口が治らないな

と静祢の頬をペコペコ押さえた。


静祢は顔をしかめると

「やめろ」

とプッと頬を膨らませて横を向いた。


朋巳はそれを笑って

「しかし、神宮寺と秋月は仲良くなったよな」

初め会った頃は神宮寺がつんけんしてて

「嫌がらせとかしたらどうしようと思ったけど」

とぼやいた。

「今じゃ、べったりだからな」

名前呼び許してる卓史と二人だけだもんな


静祢は慌てて

「な、か、勝手なこと言うなよ」

と反論を上げた。

直樹は笑って

「静祢は特別なんだ」

と言い、僅かに視線を下げて

「…同じ病にかかってるから…」

と小さな声で呟いた。


春樹はそれに視線を向けると

「な、おき?」

と不思議そうに見た。


直樹はにっこり笑うと

「春樹も特別だからな」

俺の大切な兄弟だから

と抱きついた。

春樹は仕方ないなぁと笑って抱きしめ返した。

「俺もー」


卓史は笑って

「そう言うところ昔のままだ」

と告げた。


栞はパッと立ち上がるとキッと直樹を見て

「私も…直樹さんの特別になりたいです」

と告げた。


…。

…。


栞はハッと我に返り顔を真っ赤にすると

「その、楽しそうだから」

と俯いた。


直樹は栞の前に行くと

「栞ちゃんは特別だよ」

と手を伸ばすとギュっと抱きしめた。

「みんな特別でいいじゃん」


それに卓史が

「本当にてきとーすぎー」

と笑った。


栞は俯きながら頬を染めそっと直樹の袖を掴んだ。

彼女にとっては小学生からのたった一度の真剣な恋だったのである。


しかし、恐らく年を越えない内に違う男性のところへ自分が嫁がなくてはならないことを百も承知だったのである。


■■■


神宮寺の長男である静一か。

陸奥の長男である初男か。

栞の行き先はこの二人のどちらかであった。


磐井家としては出来るだけ有利な方と縁談を進めたかったのである。

栞は土曜日に伊藤家から帰ってくると小さな溜息を一つ零した。


母親である千尋は栞を見ると

「どうなさったの?何かあったの?」

と聞いた。


栞は玄関で草履を脱いで揃えて上がると

「明日は陸奥家の初男さんが起こしになられるのね」

と呟いた。


千尋は微笑んで

「ええ、初男さんは静かで思慮深く」

絵を嗜む良いご趣味をお持ちだわ

と告げた。

「先日、頂いた貴女の絵もとても美しかったわ」


栞は視線を下に向けたまま

「ええ」

絵はお上手だわ

と言い

「でも私じゃなくてあの方が愛しているのは磐井の宝物と導夢だけだわ」

と母親の前を通り抜けて廊下を真っ直ぐに進んだ。


確かに母親の言う通り、陸奥初男は物静かで穏やかな性格で絵を嗜むという高尚な趣味も持っている。

しかも、優しい言葉を紡ぎ栞の好きな茶菓子を考えて毎回持ってきてくれるのだが、それもこれも磐井の宝物と未来を見通す導夢を手に入れたいための交渉術なのだ。


そうに違いないと栞は思っていた。


反対に神宮寺の静一は意外と明け透けで

「親が決めた結婚だ。仲良くしていければいいと思っている」

とやはり兄弟なのだろう静祢を彷彿とさせる言葉を吐くことがあるが内面を見せない初男よりはマシだと思っていた。


平日の夜はあちらこちらの企業の重役や社長がやってきて会社の未来を見てほしいと言ってくる。


導夢は見ようと思ってみるものと全く予期せずにみるものとがある。

平日の夜に頼まれてみるものは意志を持ってみるのである。


その内容を教える代わりに磐井家には金品が差し出されるのである。


栞は四季折々の美しい木々が植わる庭に向かって縁側がある自室に入り視線を伏せると

「私も…直樹さんの特別になりたいです」

と呟いた。


『だたそれだけのことじゃん』

『夢夢夢―ってみんなと違う態度されると寂しいよな?』

あんなことを言ってくれたのは直樹だけであった。


あの日から。

あの時から。

心はずっと彼に向いていた。


栞は涙を落とすと

「私は、直樹さんのお嫁さんになりたい」

と呟き、両手で顔を覆ったのである。


しかし、もう栞も初男も静一も結婚できる年になっている。

来年の今頃は二人の内のどちらかの妻として生きていることになるだろう。


栞は顔を上げて左手の窓から庭を見つめると

「どうして自分の未来だけは見れないのかしら?」

と呟いた。


導夢は未来を夢で見る力だが自らの未来だけは見ることができないのだと導夢を初めて見た日に祖母から言われた。


祖母は栞と同じ夢を見る人だったのだ。

磐井家直系の娘だけが受け継ぐ力。


祖母は栞の髪を優しく撫でながら

『何故なのかは私にもわからない…けれど、私も自分の未来は望んでも見ることができなかったんだよ』

…まあ、それで良いのかもしれないね…


「栞、本当は未来なんてものは決まっているモノではなくて自らが決めていくものなのかもしれないね」


栞は庭先から空へ視線を上げてぽっかりと浮かぶ月を見つめ

「…自らが決めていくもの」

そう小さく呟いた。


もしも。

もしも。

そうならば…。

「私も直樹さんのお嫁さんになることを望んでも良いのかしら」


だが、それは磐井の家が許さないだろう。

秋月家は特殊だが…財産も地位もないのだ。


つまり磐井家に何のメリットもない結婚になる。

それを家族が、一族が許さない事だけは分かっていたのである。


■■■


導夢というモノは未来に何が起きるかを見る夢である。

磐井家の女子に限りその夢を見る子供が生まれる。


それは本人が望むと望まざるとに関わらず…その力を得てしまうのである。


栞は身体を横にすると

「もし、私に導夢の力が無かったら」

そう小さく呟いた。


特別でなくていい普通でいいのだ。

裕福でなくても良い…好きな人と未来を歩むことが出来たらどれほど幸せだろうか。


そう…何時かの未来。


栞は目を開けると夢だと気が付いた。

導夢だ。


酷くリアルな感覚があり、はっきり他の夢とは違っている。

だからわかるのだ。


戸惑う栞の横をスッと人影が通った。

凛とした表情の綺麗な顔立ちをした青年。


見覚えがあった。

「春樹、さん?」

似ているけど…でも…何か違う

「何かが違うのに…何が違うのか分からないわ」


春樹らしい人物が彼女の横を抜けて前へと歩いていく。

その直ぐあとにもう一つ人影が進んでいく。


直ぐにわかった。

「なお、きさん?」


ただし直樹は今よりもずっと大人っぽかった。


栞は二人の後を追うように足を進めた。

その先に…。


栞は目を開けると身体を起こした。

「…まさか、春樹さんと直樹さんが…」

そんなことが本当になったら

「いえ、私が夢で見たと知られたら」


二人とも殺されてしまうかもしれない。


栞が見た夢は春樹と直樹…と思われる二人が磐井を含めた特別な家系の根源であるそれを止めようとする夢であった。


島津と秋月だけが各地のそれを自由にできる。

存続も。

追加も。

消滅も。

削除も。


しかし、そうなれば他の家系は全ての特権を失ってしまう事になるのだ。

その事によって暗殺や監禁されてしまう事があるのだ。


栞は誰に相談すればよいかを迷った。

信用できる人でないと…ダメなのだ。


「…卓史さんなら」


一色卓史である。

特別な家系でない唯一の人物であり誠実で仲間を大切にする青年であった。


栞は自身の震えを止めるように両手を組み合わせて

「…大丈夫…直樹さんは…大人だった」

きっとまだ時間があるわ

と小さく呟いた。


それが未来において大きな事件を引き起こしてしまうとは彼女自身も想像できない事であった。


■■■


翌日、陸奥初男が磐井家へと訪れた。


磐井栞とは結婚を前提として小学生に上がる頃からこうやって定期的に会っている。

可愛らしい妹のように見ていた彼女が何時頃か美しい一人の女性と自分の目に映るようになっていた。


愛おしいと思うようになっていたのである。


ただ自分の欲望だけをぶつけて彼女を不幸にするのは本意ではなかった。

出来るならば彼女が自分を望んでくれればと、彼女の好きなモノを、好きなコトを、出来るだけ叶えたいと思っていたのである。


磐井家の財産や彼女の導夢ではなく…彼女が幸せを感じれる形で結婚したいと思っていたのである。


初男が磐井家の玄関に入ると栞と母親の千尋が立っていた。

栞はにこりと笑って

「お待ちしておりました」

と頭を下げた。


初男は手土産として持ってきていた小夏堂のプリンを千尋に渡した。

「良ければこれを」


千尋は笑顔で

「まあ、これは栞の好きな小夏堂のプリン」

良かったわね、栞

と告げた。


栞は「はい」と頷いて、初男を見ると

「いつも、お気遣いいただきありがとうございます」

と告げた。


初男は頷いて草履を脱ぐと

「今日は京友禅の着物なんだね」

と微笑んだ。


栞は頷いて

「桜が…とても綺麗に咲いているので」

と告げた。


そして、フッと昨日のことを思い出したのだ。

「昨日、伊藤家で花見をしたんです」

凄く綺麗でした

そう言って綺麗に微笑んだ。


楽しかったのだ。


初男は目を見開くとくすくす笑って

「そうか、それは良かったね」

と言い

「栞さんがそんな風に笑うのを始めてみたよ」

余程楽しかったんだね

と告げた。

「今日は私と花見をしてくれるかな?」


栞は驚いて

「は、はい」

と答えた。


反対に栞の方が初男がそんな風に笑って自分たちの集まりを『余程楽しかった』と言うとは思わなかったのである。


その日の初男は何処か穏やかで饒舌であった。

「伊藤家で集まっているんだったね」

「私の同年で言うと神宮寺の静一さんしかいなかったからね」

「年齢は離れているが、君がそれほど楽しんでいるなら私も参加してみたくなるね」


栞は彼が持ってきた小夏堂のプリンを食べながら日頃に無く色々な話をする初男に驚きつつも

「いつもは走り回ったりしているんです。私も負けていないんですよ」

「そうなんですね、神宮寺家は静祢さんが何時も来られていて…秋月、直樹さんと仲が良いんですよ」

「そうですね、機会があれば参加されてはいかがですか?」

と答えた。


初男は秋月直樹と言う名前を告げた時に栞の頬に赤みが差したことに気が付いた。

彼女のことを見てきた。

だから、気付いたのだ。


『もしかして、彼が好きなのかい?』

そう聞きたかったがその言葉を飲み込んだ。


初男は夕食を相伴し

「良ければ次は陸奥の方へ来てください」

それまでに絵を描いておきます

と告げて磐井家を後にした。


栞は「あ、はい。ありがとうございます」と頭を下げた。


翌日、栞は西海道大学付属高校へ行くと意を決して一色卓史に夢のことを話したのである。

春樹と直樹が特別な家系を支えるメインデータバンクを破壊する夢を見たことを相談したのである。


晴れ渡った青い空の下で栞に呼び出された卓史は屋上に二人だけで立ち、息を飲み込んでいた。


しかし、その話を羽田野家の長女である玲奈が聞いていたのである。

彼女は卓史に好意を持っており、栞に呼び出されたと知りいてもたってもおられずにこっそりつけていたのである。


■■■


「春樹さんと直樹さんが…特別な家系のシステムを破壊する夢をみて…私、どうしたらいいか」

このことが公になったら直樹さんも春樹さんもどんなことになるか分からなくて


栞は一色卓史を見つめ震える両手を組み合わせた。

卓史は蒼褪めながら

「…本当に、春樹と直樹だったのか?」

と聞いた。


二人からそんな話を聞いたこともそう言う様子があるようにも見えなかったのだ。


卓史は栞に

「落ち着いて、栞ちゃん」

と呼びかけ

「本当に、春樹と直樹だったのか?」

と聞いた。


栞はそれに

「それが、凄く二人に似ているんだけど…何か違う感じもするんだけど」

でもでも

「春樹さんと直樹さんにそっくりなの」

と告げた。


卓史は息を吸い込み

「わかった」

この事は誰にも言わないでくれ

「俺が二人に確かめる」

だから

と告げた。


栞は頷いて

「お願い、卓史さん」

二人を止めて

「守って」

と告げた。


卓史は頷き

「春樹も直樹も俺の親友だから安心して」

栞ちゃんは誰に何かを聞かれても

「言わない事」

とシーと唇に指を立てた。


栞は頷いた。


玲奈はそれを入口で聞き

「そんな夢を…」

と卓史が向かってくるのに気付くと慌てて屋上へ続く階段を駆け下りた。


父親の厚森も兄の厚長も特別な家系になることを望んでいる。

いや、それが唯一の幸せの道だと言っている。


だが。

だが。


彼女は階段から降りて慌てて廊下を歩きながら

「もし、島津君と秋月君がその特別な家系の何かを壊してしまったらどうなるの?」

と呟いて、席に戻って午後からの授業の教科書を机の上に置いた。


卓史は屋上から戻り教室で集まっていた伊藤朋巳と神宮寺静祢と島津春樹と秋月直樹を見ると

「もうすぐ午後の授業始まるぞ」

と声をかけてさり気無く仲間に混じった。


その日の放課後。

彼は先に島津春樹に声を掛けると

「あ、春樹」

今から湖見に行かないか?

と告げた。

「予定あるか?」


春樹は「んー」と声を零すと

「いいよ」

と言い、静祢と教室の出口で待っている直樹に

「悪い、先に帰っててくれ」

ちょっと卓史とデートして帰る


それに静祢と直樹は顔を見合わせると何か重要な話なのだと理解して手をあげて応えると帰宅の途についた。


春樹は卓史の前に進むと

「行こうか」

とにっこり笑った。


卓史は頷いて

「悪いな」

と言い歩き出した。


湖とは百道浜の西海道大学付属高校の近くにあるクレーターのような広い穴の中央にある湖で小学校の頃から人に知られたくない話をしたりするのに利用する場所である。


数年前に静祢と直樹が事件を起こした場所でもあった。


卓史はその穴を隠すように茂る木々の間を春樹と歩きながら

「あのさ、これは誰にも話したらダメな話なんだ」

と告げた。


春樹は静かに頷いた。

こういう時の卓史の話は本当に誰にも言ってはならない話なのだ。


日頃は冗談や軽口を話したりするが、真剣な時は本当に真剣な話をする。

卓史はその辺りは真面目できっちりしていた。


二人が林を抜けて穴の手前の柵の前に来ると卓史は春樹に向いて

「春樹、お前」

特別な家系のシステムについてどう思っている?

と聞いた。


一瞬、質問が春樹の想像の斜め上を行き過ぎていて

「え?」

と声を漏らすしかできなかった。


そもそも特別な家系のシステムと言っても今は父親の春美だけが利用していて春樹は行く行く春美から受け継ぐだろうが、それほど深く携わっている訳ではなかった。


春樹は困ったように

「俺は…まだよく考えたこともない」

その一色で何かあったの?

と聞いた。


一色は特別な家系ではない。

ただ島津家と秋月家にはその特別でない家系をシステムに変更を加えて特別にする力がある。


それが島津と秋月とが特殊だと言われる理由なのだ。

その程度のことは春樹にも分かっていた。


だから、一色が特別になる為に何か言われたのか?と聞いたのである。


卓史は首を振ると

「違う」

と答え、周囲を見回して誰の影もないことを確認すると

「実は栞ちゃんがお前と直樹がシステムを破壊する童夢を見たと言っていた」

と告げた。

「その気持ちが…その可能性が…春樹の中にあるのかどうか確かめようと思って」


春樹は驚いて

「ま、さかぁ!」

俺はないよ?

「だって、そんなことをしたらお父さんも困るし…朋巳だって静祢だってみんな困るだろ?」

と告げた。

「そんなこと考えたこともない」


卓史は大きく息を吐き出すとその場に座り

「良かった…もしそんなことになったら春樹と直樹の命が危ないだろ?」

一つでも壊したら他もと思われて特別な家系から命を狙われる

と告げた。


春樹は頷いて

「うん、わかってる」

だから大丈夫

とにっこり笑った。


卓史も笑顔になると

「この話は今のところ栞ちゃんと俺だけが知ってる」

今春樹に話した以外は話してないから

「誰にも言わないでくれ」

と告げた。

「次は直樹に確かめるから」

返事はお前にも知らせる


春樹は大きく頷いた。

「ありがとう、卓史」


しかし、同じ時。

玲奈は家に帰ると兄の厚長に

「厚長兄さま…実は今日、屋上で磐井家の栞さんと卓史さんが話しているのを偶然聞いてしまって」

と告げた。


厚長は鞄を置いて制服を着替えながら

「ああ、そうか」

それで何だ?

と聞いた。


玲奈は俯きながら

「その、特別な家系のシステムを島津家の春樹さんと秋月家の直樹さんが壊す夢を見たって」

と告げた。


厚長は目を見開くと振り返り

「玲奈、それは本当か!?」

と聞いた。


玲奈は頷いて

「え、ええ」

と頷いた。


厚長は息を大きく吸い込み吐き出すと

「良いか、その話は誰にもするな?」

分かったな

と言い

「…これは、上手くすると羽田野家が特別な家系になる…チャンスかもしれない」

と笑みを浮かべた。


玲奈は目を見開くと

「え?羽田野家が?」

と聞いた。


厚長は笑みを深め

「そうだ」

と言うと、手早く服を着替え終えて玲奈を連れて父親の厚森の部屋へと向かったのである。


磐井家の導夢。

それは未来で必ず起きることである。


二人が向かって行く姿を丁度帰宅したばかりの次女の更紗が

「何かしら?」

玲奈姉さまと厚長兄さまが急いで

と見送っていたのである。


厚森はそれを聞くと静かに笑みを浮かべて二人に他言しないように言い、その夜に陸奥家と島津家へと出かけたのである。


そして、翌朝。。

朝食の席で厚森は玲奈と更紗に唇を開いたのである。


「玲奈、お前は陸奥家の長男である初男と結婚しろ」

それから

「更紗は島津家の春樹と結婚するんだ」


玲奈は蒼褪めると

「お父さま、初男さんは磐井家の栞さんと結婚をするんじゃないのですか?」

と慌てて告げた。


彼女は一色卓史のことが好きだったのだ。

家柄も同じで将来きっと結婚できるだろうと思っていたのである。


厚森はそれに

「黙れ、お前が陸奥家に嫁ぐということは特別な家系になるということだ」

羽田野家が特別な家系になった時の後ろ盾になるんだ

と告げた。

「更紗、お前は春樹が成人して名実ともに当主になった暁には羽田野家の登録させるんだ」


更紗はそれに

「…お父さま…」

と呟いて言葉を飲み込んだ。


島津家には二人息子がいる。

一人は春樹。

もう一人が春珂。


春珂とは同年なのですれ違ったりしたことはある。

一応面識はあるのだ。

だが、春樹とは出会ったことがないのだ。


そう考えて不安を覚えた更紗であったが、西海道大学付属中学へ登校した時に春珂の方から彼女に声を掛けてきたのである。

「羽田野、更紗さんだよね?」

2年生の教室は3階にあり、その廊下でのことであった。


特別な家系の中でも特殊な家系の島津家の次男が行き成り女子生徒に声をかけたのだ。

休憩時間で遊びに行こうとしていた学生たちや教室で話をしていた学生たちが驚いて二人を見た。


更紗は今朝言われたことを思い出し

「はい、あの…もしかして…お兄さまとの話ですか?」

と聞いた。


春珂は大きく頷いて

「そうそう」

と言い、周囲を見回して

「んー、いいかな?」

と手を掴んだ。

「ついてきて」


更紗は驚いたものの

「私も、お聞きしたかったので」

と共に足を進めた。


この出来事がこれまでお互いにそれほど意識していなかった二人を出会わせたのである。


春珂は屋上へ上がると周囲に誰もいないことを確認して

「今朝、お父さんから兄さんに貴女と結婚するように言われて驚いていたんだけど」

その…どうしてそう言う話になったのか教えてもらえるかなと思って

と告げた。

「春樹兄さんは貴女とあった事が無いって…なのに結婚って…」


更紗は頬を染めて言い難そうに言う春珂を見て小さく笑い

「春珂さんはお兄さまのこと好きなのね?」

と言った。


春珂は照れたように笑って

「ん、俺、春樹兄さんのことも直樹さんのことも凄く好きなんだ」

小さな頃から一緒に遊んでくれてさ

と告げた。


更紗はその笑顔を見て目を見開くと胸を高鳴らせた。

自分の兄にしても父にしても…いや、知っている男子はどこか高圧的で薄い膜がいつも間にあったのだ。


こんなにストンと胸に落ちてくるような真っ直ぐな存在にあったことが無かったのだ。

まして特別な家系の中でも特殊な家系の人間がだ。


春珂は驚いたように自分を見ている更紗を見て

「あ?ごめん、もしかして俺…嫌なこと聞いた?」

と告げた。


更紗は笑顔で首を振り

「私も、今日…お父さまから言われて…」

と視線を伏せて

「驚いていたから」

と答えた。


春珂は驚いて

「そうだったんだ」

ごめんね

と言うと

「だったら、羽田野さんもびっくりだよな」

あー、ごめん

「凄い失礼なこと言った」

と両手を合わせて

「俺、あった事もない人と行き成り結婚って言われた兄さんが気の毒だって思って」

でも羽田野さんも同じだよな

と告げた。


更紗は首を振り

「うん、私も…不安だったから会ったことない人だから」

でも島津さんと話し出来て良かった

と笑顔で答えた。


春珂は優しく笑むと

「そうか」

と言い

「俺も羽田野さんと話しできて良かった」

羽田野さんは良い人だね

「俺、一方的に失礼なこと言ったのにちゃんと答えてくれて」

と告げた。

「春樹兄さんは凄く良い人だよ」

明るくてさ

「優しくて、本当に本当に凄く良い人」

安心して


更紗は笑顔になると

「ありがとう、島津さんの方が良い人ね」

安心させてくれようとして

「…ありがとう」

と返した。


春珂は照れるように笑むと

「春樹兄さんと結婚したら姉弟になるから、仲良くしようね」

呼び出してごめん

「教室へ戻ろう」

と手を差し出した。


更紗は高鳴る胸を抑えつつ春珂の手をそっと握りしめた。

しかし、反対に玲奈の方は辛い立場に立つことになったのである。


この日の夜。

玲奈は陸奥家へ挨拶に行き、更紗は島津家へと挨拶に行くことになったのである。


初男は玲奈を前に

「これから君と私は夫婦になる」

陸奥家の跡取りを誕生させることだけに専念しよう

「その役目は果たしていくつもりだ」

と告げた。


一色卓史が好きだった。

家柄から考えて彼と結婚できると思っていた。


その夢は破れ、そして、夫となる相手には遠回しな拒絶が感じられたのだ。


初男が玲奈と結婚を承諾したのは磐井栞を守るためであった。

厚森から『磐井栞が島津春樹と秋月直樹がシステムを破壊する童夢を見たと言っていたんですよ、その意味がわかりますよね?これは公にするべきことだと考えているのですが…』と言われたのだ。


そんなことになれば彼女が唯一幸せそうに語るあの場所が無くなってしまうだろう。

それに…彼女が好きだと思う秋月直樹がどうなるか。


彼女が不幸になるのは目に見えていた。

ならば。

「その事を伏せておいてもらうために…どうすれば」


その交換条件が玲奈との結婚だったのである。

同じことを島津家にも持ちかけたのである。


春樹はその事を父親の春美から聞き

「…それは卓史から聞いたけど…」

でも二人とも絶対に誰かに言ったりしないはず

「だとすれば何故羽田野家がそのことを」

と考えたものの、直樹や彼女を守るためには結婚をするしかなかったのである。


羽田野家の厚長と共に挨拶にきた更紗を春美と春樹と春珂は出迎えた。

更紗は春珂を見るとにこっと笑みを浮かべた。


春樹はそれに春珂を見ると

「春珂は彼女を知っているのか?」

と聞いた。

春珂は頷いて

「実は学校で彼女にどうしてこうなったのか聞いた」

と答えた。


それに春樹は目を見開いた。

「春珂」


階段の影で見ていた直樹も驚いて思わず苦笑した。

春樹は困ったように

「ごめんね、羽田野さん」

と言い

「どうぞ」

とダイニングへと誘った。


更紗は厚長を見ると

「お兄さま、私は大丈夫なので…連絡を入れたら迎えを寄こしてください」

と告げた。


厚長はあまり話をしない妹がはっきり言うのに驚いたものの島津家と険悪な雰囲気がないことに安心しつつ

「…解った」

と答えると

「では、私はここで」

と立ち去った。


春樹も父の春美を見ると

「お父さんも、俺は大丈夫だから」

と笑顔を見せて三人だけで部屋の中へと入った。


更紗は春樹と春珂の二人と向かい合うように座り

「あの」

と言うと

「島津さんのお兄さんはこの結婚がどうして成立したかご存じなのですか?」

と聞いた。


春樹は目を瞬かせて更紗を見て

「君は、知らないのかな?」

と聞き返した。


更紗は少し考えて

「昨日、姉の玲奈と兄の厚長が慌てて父の元へ行くのを見て…今朝、急に言われたので」

内容までは

と告げた。


春樹は少し考えて

「俺が知っているのは羽田野玲奈…だけだからな」

と呟き

「君を信用できるかどうかだけど」

と告げた。

瞬間に春珂が笑顔で

「春樹兄さん、羽田野さんは信用できるよ」

今日、俺が兄さんとの婚約のこと色々聞いたけどちゃんと答えてくれたから

「俺は信じる」

と告げた。


更紗は笑顔になって

「私、言いません」

それに…信用していただいたらお二人の力になろうと思います

と答えた。

「島津さんがお兄さんは良い人だって言ってくれたので…島津にとっての良い嫁になろうと思います」


春樹はちらりと春珂を見て更紗を見ると小さく笑って

「わかった」

と答え

「その代わり他言はしないで欲しい」

と告げた。


更紗は頷いた。


春樹は「実は」と言葉を続けた。

「栞ちゃん…磐井栞さんが俺と直樹が特別な家系のシステムを破壊する童夢を見たって」

それが公になったら恐らく俺は監禁されるし下手をすれば島津家全体の危機になる

「春珂も直樹も同じように監禁されるか殺される」

ただ君のお父さんは君と結婚すれば黙っておくと言ってくれた


更紗は驚いて顔をしかめた。

「父がそんなことを」


つまり、弱みを盾に自分を特別な家系に嫁がせたのだ。

恐らく陸奥家にも同じようなことを言って姉の玲奈を嫁がせようとしているのだ。


更紗は頭を下げると

「本当にすみません」

そんなことを

と居た堪れなさで身体が震えた。


春珂は慌てて

「別に羽田野さんが無理強いしたわけじゃないだろ?」

と告げた。


春樹は笑むと

「そうだよ」

と言い

「うん、仲良くやって行こう」

と告げた。

「あ、直樹も紹介しておく」

俺達兄弟みたいなものだから


春珂は立ち上がると

「俺が呼んでくる」

と駆け出した。


更紗はそれを笑顔で見送った。

春樹はそれを見て

「春珂が好き?」

とこそっと聞いた。


更紗は顔を真っ赤にすると

「あ、その…私は」

と俯いた。


春樹は笑顔で

「いいよ、春珂は俺の大切な弟だから」

君が素敵な人で良かった

と告げた。


更紗は春樹を見つめ微笑むと

「島津さんの言う通り素敵なお兄さんですね」

と告げた。


春樹は笑むと

「君はまだ13歳だ結婚まで時間がある」

その間に3人にとって一番いい形にしよう

「その時は春珂をよろしくな」

と告げた。


更紗は頬を染めて笑むと頷いた。


そこに直樹と春珂が入ってきて更紗は立ち上がると

「初めまして、羽田野更紗です」

と頭を下げた。


直樹は彼女を見て

「…なるほど、君は羽田野厚森や厚長とは違うな」

と呟いた。

そして頭を下げると

「春樹と春珂をお願いする」

と言うと顔をあげて笑顔を見せると

「二人とも俺の大切な兄弟だからな」

と春樹と春珂を見た。


更紗は笑顔で

「はい、島津を守っていきます」

と頷いた。


正に同じ姉妹でありながら雲泥の運命を歩むことになったのである。


■■■


陸奥家の初男が羽田野家の玲奈と結婚することになった連絡は磐井家に直ぐに入った。


栞は母親から聞き驚いたものの自室に戻ると

「…やはり、そう言う人だったってことね」

と机に向かって呟いた。


きっと、磐井家と結婚するよりも羽田野家と結婚する方が都合良いと判断したのだ。


初男が自分を守るために結婚することを決めたとは知らなかったのである。

ただ一つ決定したことは栞の結婚相手が神宮寺静一ということであった。


栞は立ち上がると縁側に出て庭の向こうに見える月を見つめた。

「私は…このまま運命に流されるだけで良いの?」

私は

「私は…この恋を大切にしたい」


ただ一度の恋。


栞は自分に言い聞かせるように

「自分で…動かないと」

このままじゃダメ

「きっと何もしないで結婚したら私…後悔するわ」

と呟いた。


羽田野玲奈と陸奥初男の結婚話は余り公にはならなかった。

陸奥にしても磐井にしてもそれぞれ対面の問題があったからである。

ただ玲奈はもう結婚が出来る年齢で早々に結納し結婚式が行われることが決まったのである。


同じように栞と静一の結婚話も家同士で決まるのが早かった。

17歳の誕生日が終わると直ぐに結納し結婚式をするということであった。


栞は全てを掛けるつもりで17歳の誕生日の前日に終礼後に直樹を呼び止めた。

「直樹さん、少し話があるんだけど」


直樹は春樹とわちゃわちゃしながら帰宅しようとしていたのだが、足を止めて振り返ると

「どうしたの?栞ちゃん」

と彼女の方に向いた。


栞は震える手を握りしめながら

「あの、あの、二人で話をしたいのです…けど」

と震える声で告げた。


春樹も静祢も卓史も朋巳も彼女と直樹を見た。

少し離れた場所で玲奈も見ていたのである。


直樹は少し考えたものの栞が明日の誕生日が終わると直ぐに結婚することを知っていたので

「わかった」

何処で話す?

と聞き返した。


栞は震える手で直樹の手を握り

「あの、い、いつもの湖のところで」

と告げた。


直樹は笑顔で

「いいよ」

と言い、春樹たちを見ると

「じゃあ、栞ちゃんと行ってくる」

と手を振って教室を後にしたのである。


春樹も3年後には羽田野更紗との結婚が決まっている。

それぞれが違う未来を歩いていくことが決定しているのだ。


朋巳は二人を見送り

「けどさ、明後日には栞ちゃん…結納して結婚することになるんだよな」

と告げた。

「余り話流れてこないからわからないけど、やっぱり初男さんとかな」


それに卓史が

「う~ん、俺は栞ちゃんには幸せになってもらいたい」

前に栞ちゃんに初男さんが描いた絵を見せてもらって初男さんが栞ちゃんのことが好きだってことは感じたけど

「でもなぁ」

と呟いた。


それに春樹も静かに微笑んで頷いた。


玲奈はそれを見つめ拳を握りしめると

「な、何も知らないのね!」

違うわよ!

と告げた。

「彼女のせいで…あの子が島津君と秋月君の童夢を…」


卓史は驚いて彼女を見ると

「羽田野さん!」

と怒鳴って彼女の肩を掴むと

「誰から、それ!?」

と聞いた。


それには誰もが注目して目を向けた。


玲奈はハッとすると卓史の手を払って

「…う、噂よ」

と言うなり駆け出して校舎を後にしたのである。


何故。

何故。

磐井栞の言ったことで自分がこんな目に合うのか。


好きな卓史からあんな目で見られるなんて。

初男の態度が硬化していたのは彼が栞を好きだったからなんて。


「全部全部、彼女が悪いのよ」


玲奈は泣きながら羽田野家の車に乗り高校を後にした。

同じ時、栞は木々を抜けた穴の手前で直樹を見ると

「…好き、直樹さんが…ずっと好きでした」

今も

「私は直樹さんが好き」

と告げた。


空には暗雲が広がりぽつりぽつりと雨が降り始めていたのである。


直樹は真っ直ぐ見つめる栞を見つめ

「栞ちゃん…でも俺は」

と視線を伏せた。


大きな。

重い。

システムの番人と言う死ぬことのない役割を負っている。


死ぬことが無い…それを知っているのは島津春美と神宮寺静祢だけである。

春樹ですら知らないのだ。


死ぬことのない延々とした生。

愛する人を作っても別れなければならない。


それは一人や二人ではない。

最後は自分一人だけが違う時代を歩いているのだ。


その時の痛烈な孤独。

子供を作ってそれを引き継げば自分は救われるかもしれない。


だが子供がその運命の孤独に苛まされるのだ。


怖い。

怖い。


栞は固まったように立ち尽くす直樹を降り出した雨の中で見つめ

「…ごめんなさい…直樹さんを苦しめてしまって」

と泣きそうになりながらも笑みを浮かべた。

「大丈夫、私は明後日には神宮寺家の静一さんの元へ嫁ぐから」

忘れて…


そう言って踵を返すと足を踏み出した。

瞬間に直樹は手を伸ばすと引き寄せて抱きしめた。


「俺は…特別なシステムの番人なんだ」

死ぬことが無い

「死んだとしてもこの記憶を持って再生する」


君を失っても生きる

春樹を失っても

春珂を失っても


「愛する人は全員俺を置いて逝ってしまうんだ」


栞は両手で直樹の頬を包み

「ねぇ、だったら…命を繋いで」

直樹さんと私の子供を作りましょう

「愛する子供を作って…その子供がまた子供を作って…ずっと貴方との時を生きていく」

私の子供には童夢を見る子が生まれるわ

「その子に直樹さんと私たちの血が共に生きていける未来の夢を…道を…見てもらうように伝えていくの」

と微笑んでキスをした。

「だってシステムが出来るずっとずっと前から」

そして今もこれからも

「人の営みは続いているのよ」


直樹さんが好き

「誰でも何でもどんな運命を持っていても」


直樹は初めて涙を落とすとその涙の向こうに見える美しい少女の姿を見つめた。

不思議な色をした瞳が自分を映している。

「何時ぶりだったかな」

人をちゃんと見たのは


そう、薄い膜の向こうで何時も人を見ていた。

春樹が好きだ。

春珂が好きだ。

朋巳も卓史も静祢も。

だけど、薄い膜の向こうだったのだ。


だが今、その膜を払って目に入ったのは綺麗な美しい少女だったのだ。


「栞ちゃん」

ありがとう


そう言ってキスを落とした。

栞はそれを受け止め

「愛してる」

もっともっと恋して

もっともっと愛してしまった

「直樹さん」

と背に手を回して抱き締めた。


直樹もまた栞の服に手を掛けると本能のままに雨の中で露わになった彼女の身体に指先を触れさせた。


春樹は家に帰って少し静かな家の様子に

「あれ?」

と玄関口で待っていた武藤巳影に

「お父さんは?」

と聞いた。


それに巳影は微笑んで

「伊藤家へお出掛けになっております」

と言い

「今夜は遅くなるとのことでしたので春樹様と春珂様と直樹様にはいつも通りに夕食をするようにと言付かっております」

と答えた。


春樹は頷いて

「わかった」

と答え自室へと向かった。


荷物を降ろして服を着替えだした時に降り出した雨に顔をしかめた。

「直樹と栞ちゃん、雨に濡れてないかな」

小さく呟き自室の窓辺に立った。


栞が直樹を好きだったことはよくわかっていた。

だが、彼女は明後日には誰かの元へと嫁ぐことになる。


「どうして自由に誰かを好きになって一緒になれないんだろ」

そう呟きふと春珂と更紗のことを思い出した。


「春珂…と更紗さんの幸せか」

二人が好き同士だと分かっている。

出来れば自分じゃなくて二人が結婚出来れば…幸せになるだろう。


それが出来ない理由は…きっと自分が長男でシステムの当主になるからだろう。

羽田野家が縁談をごり押ししてきたのはそれなのだ。


春樹は暫く勉強して、再び窓の外を見た。

その薄闇の中にとぼとぼと歩いてくる直樹の姿を見て慌てて部屋を飛び出し外へと出た。


「直樹!」


直樹は春樹を見ると駆け寄り崩れるように顔を伏せた。

春樹は抱きしめて

「何があったんだ?」

と聞き、驚く武藤巳影を手で制止して自分の部屋へと連れて入った。


直樹は春樹を抱き締めながら

「栞ちゃんを…抱いた」

と言い

「すっげぇ、好きだ」

といつもと違う真剣な目で告げた。


春樹は笑むと

「良かったじゃないか」

直樹

「ちゃんと自分の気持ちに気付いたんだ」

と抱きしめた。


直樹は首を振ると

「でも、俺は…怖い」

栞ちゃんを失って

お前を失って

春珂を失って

「みんなみんな居なくなってそれでも生きていくのが」

と告げた。


春樹は直樹の顔を両手で包み向き合うと

「なあ、俺は更紗さんと結婚しない」

当主は春珂に譲る

と笑み

「それでさ、俺も誰かと恋をして子供を作るから」

直樹が寂しくないように

「特別な家系と関係なく直樹と一緒に生きていける子供を作るから寂しがらなくていい」

と告げた。


…直樹の子供と俺の子供とずっと繋がって生きていこう…

「俺には特別な家系よりそっちの方が大切だからな」


直樹は春樹を見つめ

「俺はシステムの番人として永遠にいきて行かないといけないんだ」

もしそれを辞めるとすれば

「同じ苦しみを子供に与えることになる」

と告げた。


春樹はその言葉に驚いたものの笑みを浮かべると

「じゃあ、俺の子供のそのまた子供もずっとずっと直樹と生きていく」

直樹の子供が何時かそうなったら

「今度は直樹の子供と一緒に生きていく」

だから大丈夫

「俺の血はずっと直樹の側で…直樹の血の側で生きていくから」

と告げた。


それは栞が言った言葉と同じであった。


直樹は春樹を見ると

「俺、栞ちゃんと一緒に九州を出ようと思う」

と告げた。

「明日、栞ちゃんが頷いてくれたら」


春樹は頷いて

「わかった、俺は応援する」

ただ一つ約束してくれ

「手紙が欲しい」

何処にいるのか分かるように

と言い

「…ただ俺に送ると不味いから卓史に頼む」

卓史なら信頼できるから

と告げた。


直樹は頷いた。

「春樹、ありがとうな」

俺も誓う

「春樹の血の側で俺は生きるから」

春樹の血を守って生きるから

そう微笑んだ。


春樹は頷いた。

「俺達兄弟だからな」


直樹も微笑み頷いた。

「ああ、大切な兄弟だから」


翌日、春樹は直樹に当面の生活費を渡して登校し、屋上へ栞を連れ出して話をすると彼女を送り出した。


そして、その日の放課後に何時もの湖で卓史にその事を話したのである。


卓史は静かに笑むと

「わかった、誰にも言わない」

と言い

「二人には幸せになって欲しいな」

と呟いた。


しかし、栞と直樹が駆け落ちをしたことで神宮寺家の当主と静一は激怒し、磐井家も驚愕しながら二人の行方を捜すことになったのである。


その情報を知り、初男は描きかけの14枚目の絵を消すと再度14枚目の絵を描き始めた。

それはハマユウという花と秋月直樹と磐井栞を描いた絵であった。


愛するからこそ。

相手の幸せを祈るものであった。


同時に羽田野家が栞の童夢を利用してのし上がろうとしているのを知っていたので玲奈と結婚する形になったとしても彼女を受け入れられるかどうかを心の中で考えていたのである。


そう、彼女がその話を立ち聞きしていなければ。

羽田野家の当主に話をしなければ。


彼女自身に罪はないのかもしれないが…それでもそう思わずにはいられなかったのだ。


■■■


大阪に出て直樹と栞は廃れた二階建てのアパートの一角に住むことにした。

訳アリの人間が多く住んでいたので毎月の家賃さえ払えば保証人も何も必要なかったのだ。


六畳一間だがそれでも良かったのだ。


直樹は近くのスナックで働き始めた。

それは隣の部屋に住む野坂由以の紹介でもあった。


彼女は男と同棲していたが良く顔を腫らしていた。

だからかもしれないが

「羨ましいわ、優しそうな人ね」

と二人に何くれとなく世話をしてくれたのである。


栞は慣れない手つきで家事をしていたが料理だけは直樹任せであった。

一度挑戦したがぼやを出しかけて料理はからっきしだと分かったからである。


最初の料理を直樹は食べながら

「ん、個性的な味で悪くないよ」

と言って笑ったが、栞は自分で作った料理を自分で食べて吐くほどだったのである。


「ごめんなさい、直樹さん」

身体を壊すわ


…。

…。


直樹は「あ、自分で言っちゃったけどそこが可愛いよな」と笑顔で

「そんなことはないけど、料理得意だから俺が作る」

とつげた。

「だから栞ちゃんは家の掃除お願いな」


その時、同棲相手に殴られて飛び込んできた由以が

「あら、栞ちゃんが作ったの?」

と食べて吐いたのである。

「ごめ、不味すぎるわ」


…。

…。


それには直樹も栞も絶句するしかなかったのである。

何だかんだで幸せな生活であった。

が、それから三か月後に栞の妊娠が分ったのである。


同時に由以も妊娠していたことが分かったのである。


ただ彼女は少しすっきりしない表情で

「子供に罪はないけどあの男の子供だと思うと…ちょっとね」

暴力ばっかりだし

と小さくぼやいていた。


それから一年が経ち、栞は直樹に似た男の子を産み落とした。

野坂由以の子供は男の暴力が原因で死産だったのである。

しかも男は他で女を作ると逃げ去ってしまったのである。


由以は心配する二人に

「いいよ、この子は可愛そうだったけど」

今度は直樹さんのような素敵で優しい男性を見つけるわ

と笑顔を見せた。


直樹は春樹との約束を守り、春樹宛ての手紙を同封して卓史に子供と三人で写した写真と共に手紙を送ったのである。

幸せそうに笑う姿が映っていたのである。


栞は子供が生まれたことで直樹に

「私も逃げて来たけど…ちゃんとけじめをつけようと思うわ」

と言うと

「神宮寺の静一さんに謝罪の手紙を送るわ」

と告げた。


直樹は頷くと

「わかった」

と答え

「ちゃんと幸せになろう」

直彦と一緒に

と二人にキスを落とした。


しかし。

その手紙を受け取った静一は

「今更…散々恥をかかせたあげくに!」

と激怒したのである。


静一の父である静雄もまた怒りを覚えていた。


同じ時、春樹は春珂に

「俺は島津家を去ろうと思う」

と直樹の手紙を見せた。

「春珂が更紗さんのことを好きだということは分かっている」

だから二人で島津を守って幸せになってもらいたいんだ

「俺にとって春珂は大切な弟だし更紗さんが素敵な女性であることも分かっている」

二人ならきっと島津を特別な家系の中でも歪まずに次代へ繋いで行けると思っている


春珂は俯き

「ごめん、兄さん」

と呟いた。


春樹は笑顔で

「良いんだ」

家同士の結婚でも二人みたいに好き同士の結婚になるなら最高だと思う

と告げた。

「更紗さんと幸せになるんだ」

いいな


しかし、羽田野厚森は春樹が更紗との婚約を破棄し春珂と更紗の婚約を申し入れた時に

「当主にならない次男なんぞに更紗が嫁いで意味があるのか!」

と怒り

「だったら、春樹を殺して春珂を当主にさせるように仕向けるしかない」

玲奈も初男との間に子供はまだ作っていないし

「ったく、役立たずの娘どもが」

と厚長を見ると

「二年前のあの話を流して…先ずは春樹の進退を揺らがせる」

あの噂が出れば島津も春樹を当主にするかどうか迷うだろう

と告げた。


そして、厚長はさりげなく噂を流し始めたのである。

『磐井栞が島津春樹と秋月直樹がシステムを破壊しようとしている童夢を見た』と。


初男はそれを知り行方を追わせていた配下の者に栞と直樹の身辺を守るように指示したのである。


驚いたのは静雄であった。


静雄は羽田野家へと忍びで訪れると厚森に面談し

「その話は本当なのですか?」

根拠のない流言は羽田野家を破滅へと追いやることになる

と告げた。


厚森は首を振り

「本当です」

恐らくこの話は一色卓史も知っている

と言い

「このままでは特別な家系が壊れることになると思い噂を流したのです」

と告げた。

「それで提案なのですが神宮寺家も磐井家から恥をかかされた」

そして

「羽田野家も島津家から破談を押し付けられた」


特別な家系を守る上でも

「島津春樹は我々が監禁しましょう」

神宮寺家は秋月直樹と磐井栞を

「これから言う通りにしてください」

それ以降はお互いこの事が分からないように…連絡を取り合うことはなく


…全て特別な家系を守るためです…


静雄はゴクリと固唾を飲み込んで頷いた。

その後、静雄は噂の真意についてということで特別な家系の島津と伊藤を呼んで、春美に直ぐに春樹の真意を確かめるように促したのである。


春美はそれに

「島津はそんなことは考えていない」

勿論春樹もだ

「…明日の夜、伏流庵に春樹を呼び真意を確かめるので全てはその後でお願いしたい」

と答えた。


厚森はそれを静雄から聞き、伏流庵に伏兵を忍ばせたのである。


春美はそんな画策があるとは知らず噂の真意を確かめるために春樹を呼び出したのである。

それは静かな夜のことであった。


■■


春珂は家を出ようとする春樹に

「兄さん、噂のこと」

と告げた。


春樹は頷くと

「わかってる」

ちゃんと父さんと話をして当主を辞退する

「この状態ならその方が良いと父さんも思うだろうし」

と笑顔で告げた。

「春珂、更紗さんと共に島津のことを頼むな」


春珂は一抹の不安を感じながら小さく頷いた。


春樹は島津配下の宿である伏流庵へと車で向かい車窓から月を見つめた。

「直樹に栞ちゃん…約束果たしてくれてありがとうな」

話が終わったら会いに行くから


そう呟き、宿の前で車から降りて足を進め掛けて目を見開いた。

黒い影が現れ手に煌めいた刃物が目に入ったのである。


「な…」


影は春樹を刺すと更にもう一度刺しかけた。

が、異変に気付いた武藤巳影が車から降りて

「春樹さま!」

と駆け寄り、倒れ込む春樹を抱き留めた。


叫び声に宿の人間も飛び出し、父親の春美も春樹を抱き締めながら直ぐに救急車を呼び寄せたのである。


春樹は薄れゆく意識の中で

「俺が死んだら…直樹の孤独に…誰が…寄り添っていくんだ」

ダメだ

「俺は…死ねない」

と呟いていた。


孤独を恐れている直樹がようやく幸せになろうとしているのだ。

自分が死んだら。

彼が再び孤独の縁に立つかもしれない。


春珂は連絡を受けて病院へと向かい既に意識が無くなりかけていた春樹の元へと姿を見せた。

「兄さん!」

春樹兄さん!!

「ダメだ、死んじゃダメだ!!」


泣きながら叫ぶ春珂に春樹は弱々しく手を握ると

「は、るか」

ごめん

「もし、お前に二人目の子供が生まれたら…俺にくれ」

孤独を生きる直樹と共に生きる子供を

「俺には…無理みたいだから…頼む」

と告げた。


それが、最期の言葉だったのである。

闇は深々と降り積もりその訃報は九州中を駆け巡った。


神宮寺家では静祢と静一は静雄に呼び出され

「今、島津春樹が死んだ」

羽田野家が手を下したんだろう

と言い、静一も静祢も蒼褪めた。


静雄は僅かに震えながら

「静祢、お前は秋月直樹をやれ」

春樹のことを磐井家から磐井栞に送っておいた

「今日の昼間にな」

これですべては磐井家のせいになる

「あと一時間後の夜の10時に秋月直樹と港の近くの磐井の配下のホテルで落ち合うことになっている」

そこでお前がやれ

「神宮寺に恥をかかせ」

システムを壊そうとしている一人だ

「問題は…ない」

と告げた。


静一は慌てて

「お父さん、そこまでしなくても…その、監禁でも俺は良いと」

それに静祢にそこまで…

と言いかけた。

が、静雄は

「うるさい!」

そう言っていたのに…殺すとは

「だがもう羽田野は動いてしまったんだ」

神宮寺が動かないわけにはいかない

と厳しく告げた。


静祢は震えると

「お、俺は無理だ」

だって…直樹を栞が好きだってことは俺達の間じゃ全員知ってたことだ

「そりゃぁ、俺はこんな性格だけどさ」

そんなことしたくない

「まして直樹は俺の友達だから」

と懇願するように訴えた。


静一はもう顔を背けながら言葉を紡がなかった。


静雄は諭すように

「システムが無くなれば特別な家系がどうなるか」

この九州が、日本がどうなるか

「いいか、静祢、お前に権限はない」

お前が生きるも死ぬも

「何をするのも当主である私と、次期当主である静一が決める」

分かったな

と告げた。


静祢は泣き出すと

「俺、どうして生まれてきたんだ?」

なぁ

「こんなのねぇよ」

と言いながら、神宮寺家配下の者達に連れられて部屋を後にさせられたのである。


何もかも。

生も死も。

いや生き方すら…当主の胸先三寸なのである。


静一は覚えていた怒りなど何処かへ忘れ、何か恐ろしいことに神宮寺は突き進んでいるのではないかと感じていたのである。


部屋に戻り震えながら

「確かに恥をかかされた」

怒って当たり前だ

「だが…俺だって…そこまで望んでない」

静祢にだってそこまでは…望んでない

と机を叩き

「誰か…頼む…助けてくれ」

と両手を合わせて祈るように顔を伏せた。


一色卓史はそんなことが起きているとは知らず、春樹の訃報を聞き栞に電話を入れたのである。


彼女はそれに泣きながら

「ええ、今日の昼に磐井から連絡があって…それで私は産後で体調が悪くて」

磐井はもう過去のことは水に流しているから明日私を迎えに来るけれど

「その前に直ぐに直樹さんに来て欲しいと」

10時に港にあるオーシャンブルーホテルで待ち合わせてたわ

と告げた。

「でも、春樹さんが…こんなことになるなんて」


卓史は頷いて

「俺も…動揺している」

けど栞ちゃんは気をしっかり持って

「また会おう」

と受話器を降ろした。


大切な親友をこんな形で失うなんて。


卓史は涙を拭って電話を切ったあと不意に

「今日の昼に…磐井家から?」

と違和感に気付くと蒼褪めた。

「まさか」


そう、島津春樹が刺され殺されたのは先程…今日の夜なのだ。


卓史は慌てて部屋を出ると

「まさか、まさか」

と呟き、直ぐに栞に電話を返したがその電話が繋がることはなかったのである。


卓史は息を吐き出すと

「今は直樹を優先させるしかない」

と意を決すると車を手配してオーシャンブルーホテルへと向かった。


少し前に流れた噂。

それを特別な家系の人間が信じたら…二人を消そうとするかもしれない。


卓史は蒼褪めながら

「直樹…間に合ってくれ」

と両手を合わせて祈った。


直樹は船から降り立ち約束のオーシャンブルーホテルへと向かった。

一緒に。

そう一緒に生きて行くと言ってくれた。


なのに。


直樹は拳を握りしめながら

「春樹…何でこんなことに」

と呟き、ホテルのロビーに着くとフロントに声をかけた。

「あの、秋月直樹です」


フロントの女性は

「承っております」

と言うと13101号室の部屋の鍵を渡した。


直樹は頷いて部屋へと向かった。

そこに運命を呪い。

そこに己を呪い。

そこに世界を呪う神宮寺静祢が待っていたのである。


悲劇の扉は…こうして開かれたのである。


■■■


磐井栞は卓史の電話を切った後に

「…明日、迎えに来るのね」

と言い、ちょうど料理を持ってきた由以を見た。


由以は気を遣うように

「親友が亡くなったんだってね」

気を落とさないで

「直彦君の為にも元気をつけないと」

と栞の横に料理を置いた。


その時、荒々しく扉が開き数名の男の姿と共に陸奥初男が姿を見せた。

「…秋月直樹は?」


それに栞は

「初男、さん」

何故?

と聞いた。


初男は厳しい表情で

「何処に行ったんだ?」

と聞いた。


栞は何時にない初男の表情に

「今日の昼に…春樹さんが亡くなったと聞いて…九州へ」

磐井家の人が明日私を迎えに来ると

と告げた。


初男は「遅かったか」と呟くと横の男を見て

「栞さんを連れていく」

と告げた。


由以は怒って

「ちょっと!人さらい!?」

止めなさいよ!

と叫んだ。


栞も抵抗を仕掛けた。

が、初男は

「害するつもりはない」

島津春樹が亡くなったのは今から3時間前だ

「つまり昼にはまだ彼は何もなかった」

と告げた。


栞は蒼褪めると

「…う、そ」

と呟いた。


初男は険しい表情で

「二年前に羽田野家が童夢で島津春樹と秋月直樹がシステムを止めるところを君が見たと言ってきた」

そんなことが広がれば君も島津家も君が愛する秋月直樹もどうなるか

「だから私は彼らの言葉にしたがった」

だが

「同じ噂がここ数日の間に広がって…島津春樹が殺された」

どういうことか分かるか?

と告げた。


栞は震えると

「な、ぜ」

あれは卓史さんしか

と呟いた。


初男は息を吐き出し

「恐らく羽田野家の…玲奈が聞いていたんだろう」

それが羽田野家の厚森と厚長に流れた

と告げた。

「だが、こうなった以上は次期当主でしかない今の私では止めることが出来ない」


栞は全てを理解すると

「わた、私のせいだわ」

私の

と言うとそのまま意識を落とした。


隣では赤子が泣き声をあげてそれを由以が慌てて抱き上げて

「直彦くん、ほら、泣いちゃだめですよ」

とあやしていた。


初男は彼女を見ると

「その子を、貴方の子供として育ててもらいたい」

毎月養育費も生活費も払う

「…その子を連れて帰れば…恐らく一生監禁されるか…まともな生き方はできない」

だが

「彼女と…彼の子供だ」

守ってもらいたい

と告げた。


それに由以は目を見開くと

「あんた…栞ちゃんに惚れているんだね」

と呟いた。


初男は由以に

「貴女が死産した子供を代わりに連れて行く」

ちゃんと丁寧に弔わせてもらう

と告げた。

「だから、今日から貴女の子供としてその子を頼む」


由以は暫く考えて

「私、直樹君に惚れていたんだよね」

あんな明るくて優しい男性っていないってね

と言い

「あの子を…可愛そうなあの子をちゃんと弔ってちょうだい」

と初男から当面の金と無記名の通帳とカードを受け取ると骨壺を渡して直彦を連れて部屋を出た。


初男は直ぐに栞を連れて九州へと戻ったのである。

「…君を守る」

秋月直樹の分も


…私は磐井家の財産でも君の童夢でもない…

「君の心が欲しかっただけだ」


しかし、野坂由以はそのアパートから直彦を連れて翌日には姿を消したのである。

ただ時折…本当に困った時だけ通帳から少量の金額のお金が落とされていたのである。


初男は冷静になりそれなりに玲奈に対しても心を砕いたが亀裂は埋まらず結婚とは名ばかりの同居別居の状態であった。

ただ、お互い陸奥家の跡取りを産むという役目を果たすために月に一度だけの逢瀬という役割は果たし10年後に漸く樹という男子が誕生した。


玲奈は唯一の愛情を傾ける存在として樹を愛したが、産後の肥立ちも悪く一年も経たないうちに他界したのである。


同じ時期に栞は初めて初男を受け入れて詩音が生まれたのであるが、己の心の移ろいに更に罪深さを感じ、ただただ自我を失ったように虚を見つめる日々を送っていたのである。


神宮寺静一も事件のことで後悔しこれまでの通例に反して卓史に静祢のことを頼み二人を神宮寺家で面倒を見たのである。

暫くは独身でいたが、父親が亡くなる間際に漸く結婚し凜を授かった。


10年が過ぎ去り、混沌とした特別な家系の流れの中で次代の子供たちが産声を上げ始めたのである。

そして、島津家でも第二子となる男子が生まれ落ちたのである。


兄である春樹と約束した二番目の子供であった。


春珂はその子を抱き締めると

「春彦…島津の春と直樹さんと栞さんの子供の直彦くんの彦から取った名前だよ」

君は春樹兄さんに似ている

「兄さんの願いから生まれた子供だからかもしれないね」

生まれ変わりかも知れないな

と微笑み

「春彦、兄さんが共にと言い残した」

直樹さんと栞さんの愛の結晶である直彦君を

「君が共に生きる相手である彼を」

捜しに行こうか

「この混沌とした九州を、日本を、変えるために」

秋月と島津の運命を再び巡り合わせるために

と告げ、青く広がる空を見上げると春樹の形見となった手紙を頼りに島津家を後にしたのである。


ここから…運命は変わり始めるのである。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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