研究所のラジオとアイソトープ
真夜中の研究所棟は静まり返っている。
薄暗い階段を使って4階まで上がると、廊下の先への侵入を妨げるガラス扉が現れる。
僕は、右手のカードリーダーにIDカードをかざした。
ピッ。
ロックが外れる。扉の奥は、フロア全てがRI管理区域になっている。
入ってすぐのところに何の変哲もない大学ノートが開いて置いてあるので、そこに日付と、自分の部署、名前を記入する。
今しがたIDカードを使って入室したばかりなのに、わざわざ手書きで名前を記入しなくてはいけないのは面倒だな、といつも思う。
普通に考えて、IDカードで入室者の名前を記録しているはずなのだから、ノートに記載する手間は、無駄に感じるからだ。
でも、ここではあらゆるルールに意味がある。いや、実際は無意味なルールもあるのだけど、一つの共通の目的がある。つまり、全ては「安全」の為だ。
だから、軽率にルールに異議を唱えてはいけない。ましてや、僕みたいな、下っ端の研究員は、なおさらだ。
扉から数歩進んでまたもう一つ扉を開き、検査室に行く。右手の棚に着替えが入っている。僕は黄色の実験着に着替えて、スリッパに履き替え、ガラスバッジを装着した。
一度廊下に戻っていくつかの手順を踏み、ようやく共通実験室に入れた。
「お疲れ様ですー」
「あれ? 細野君、こんな時間から実験?」
実験室には先輩である砂子さんの姿があった。砂子さんは僕の所属する部の主任研究員だ。博士を出てすぐにポスドクをすっ飛ばしてうちの研究所の主任研究員に採用された。凄い人である。
しかも、どう見ても20代前半にしか見えない(人によっては10代に見えると言う)ので、美人で賢い、一種の奇跡だ。
「はい。僕はもう、今日は実験して、このまま朝までいると思います。明日〆切のグラント書類もあって……」
既に研究所のスタッフの大部分は帰宅した後だ。今から実験を始めれば、確実に終バスには乗れない。終電だって、危うい。ならば、諦めて朝まで研究所にいるしかない。
「そっか、頑張ってるねぇ。無理してない?」
「大丈夫です。砂子さんこそ……」
女性なのに、こんなに遅い時間まで大丈夫ですか、と言う言葉を飲み込む。
研究の熱意に性別は関係ないし、ましてや自分より優秀な先輩に言うには失礼な言葉だ。
「夜は空いてて、実験器具も使いたい放題だからね。私は嫌いじゃないんだ」
こんな時間からの実験にうんざりする思いがあったが、砂子さんの微笑みを見るだけで、俄然やる気が出てきた。単純な思考回路だけど、見習って、僕も頑張ろう、と思う。
僕は隣接している培養室に移動し、自分のクリーンベンチを確保した。
手順書を見ながら作業に必要な下準備を整える。確かに、深夜の実験室は実験器具も使いたい放題で、何かに急かされることも無く、のびのびとやれる感じがする。
全ての準備を整えた後、培養細胞を取りに行く。
変な振動を加えないように、角瓶を注意深くインキュベーターから出した。
(どれどれ……?)
まずは目視で観察する。僕が一週間前に調整した培養細胞は、毎日観察しているが、今の所、特に問題は起きていないように見える。でも、顕微観察してみたらコンタミネーションが起きていた、ということも十分にあり得る。
今日は、これをトリプシン処理して試験管に移し替えをしなくてはいけない。実の所、同じ細胞でこれをやるのはもう3回目だ。細胞への影響を最小限に抑えるために、短時間で作業をするように言われている。前の2回は、どちらも上手くできなかった。
(よしっ……精神集中……)
神経を使う処理を終えたのは、結局20分後だった。その後、更に移し替えの作業をするのに、10分ほどかかり、僕の目標時間をオーバーした。
一連の仕事を終え、片付けに取り掛かる。
培養室と共通実験室の間を出入りしている僕を見て、砂子さんが話しかけてくれた。
「どう? 終わった?」
「あ、砂子さん。すみません、これってどこに片付ければいいか知ってますか?」
「それは共通実験室のだね。確か、こっちの棚に入れておけばいいと思うよ」
気にかけてくれたのを幸いに、僕はさっき上手くできなかった実験に関して、相談してみた。砂子さんは、「細胞培養はあまり詳しくない方だけど」と控えめに前置きしてからトリプシン処理についてピペットの種類と細胞剥離のタイミングについてアドバイスしてくれた。
ふと、時計を見る。
既に日付が変わっている。片付けを始めている僕と違って、砂子さんはまだ帰る気配がない。共有のPCを使って何か打ち込んでいる。
「砂子さんは、まだやっていくんですか?」
「あと少しだけ。リアルタイム計測中だから、待ち時間が多くて」
砂子さんが画面を見ながら、ちょっと口を尖らせた。そんな仕草も可愛い。
「RI区域は出入りが面倒だから、いっぺんに終わらせちゃおう、って思うと長くなるんだよね」
ふふ、と砂子さんが笑う。しかし、RI管理区域は飲食厳禁でトイレもない。誰だって長時間いたいと思う場所ではない。
なんとなく、砂子さんをここに一人で残していくのも後ろめたいような……、いや、それよりもこの深夜の残業という、僕自身が砂子さんと会話できる特別な時間に後ろ髪を引かれた。
仕事の邪魔になって、迷惑かもしれない。
そう思いながらも僕はその場にズルズルと残って、他愛ない会話で時間を潰してしまった。
砂子さんも別に嫌な顔をせず付き合ってくれて、結局深夜2時頃に二人でRI管理区域を出ることになった。
「細野君、片付けまで手伝ってもらっちゃって本当にごめんね。明日までの提出書類があるって言ってなかったっけ。大丈夫?」
「全然、大丈夫です。砂子さんの研究見せてもらって、すごく勉強になりましたし」
砂子さんが先に、続いて僕がID証をかざして、扉を出る。
ピッ……
もう、RI管理区域内に誰も残っていないことを確認済みなので、換気扇のスイッチも切った。
「無事に出られて良かったですね」
僕が何気なく言うと、砂子さんが首を傾げた。
「無事に出られた、ってどういう意味?」
「あ、知らないですか? すみません、変なこと言って……」
僕は口を滑らせたことを後悔した。これは、深夜に適した話題ではない。
「なぁに? 無事に出られないことがあるの?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……ええと……いわゆる、怪談です」
深夜の研究所棟は薄暗くて、静まり返っている。
薄暗いのはいつものことで、この建物の照明の照度が少し弱いためだけど、何せ窓の外も真っ暗だし、ほとんど人の気配もないので不気味な雰囲気は否めない。
「へぇ、どんな怪談? 聞かせて。そうだ、細野君、コンビニ行かない?」
「あ、行きます」
僕は既に夜食を買って、2階の自分の研究室の机に置いてあるが、その存在を無視した。これは別に何かの下心があってのことではない。
研究所敷地を抜けてコンビニまで行くのにはほんの5分ほどだが、砂子さんと一緒に、夜道を歩かせてもらえるなら光栄だ。つまり、魅力的な女性の警護ができる、という意味で。
「もしかして、あの部屋、お化けがでるの?」
「まぁ、その類の話なんですけど。砂子さんはそういう話、大丈夫ですか?」
「昔は苦手だったけど、今は全く平気」
「そうですか……」
「私はここに来て、まだ日が浅いから、研究所にまつわる噂とか、興味があるなぁ」
そうまで言われて、もったいぶるのも恰好悪い。
僕は、以前誰かから聞いた怪談を、思い出すように、語り始めた。
「根も葉もない、都市伝説みたいなものですけどね。さっきまでいた、うちのRI管理区域にまつわる話です。あの区域って、ID証が無いと区域内に入れないじゃないですか。出る時も。入退室の時に必ずID証をかざす必要がありますよね」
僕は、ポケットに入れたID証をちょっとだけ出してみせた。
「────これって、なんでだと思いますか?」
「え? 管理区域が、誰でも入っていい場所じゃないからでしょ?」
「ええ。でも、それだったら、入室時のID証チェックだけでいいじゃないですか。他のID施錠されている部屋って、普通はそうですよね。入る時はID証が必要だけど、出る時には必要ない」
例えば、研究所の関係者しか出入りできない扉は、全てそうだ。
この問いかけに対しては、砂子さんから、至極真っ当な返事が返って来た。
「ただの入退室管理じゃないの? 誰が、何時間くらい、そこにいたか管理するための」
「そうだと思います。でも、もう一つ目的があって、友連れ入室とか退室を防止するため、らしいです」
「あぁ、それは、もちろんそうだろうね。つまり、より厳格に入退室を管理したい、ってことだよね。だって、監視カメラもあるでしょ、あそこ」
「あ、そうなんですね」
それは、逆に僕は知らなかった。
「それで?」
「はい。それで、あの区域って、入った人数と、出た人数が同じかどうかをシステムでチェックしているらしくって。つまり、1人入らないと、1人出れないそうなんです」
「ん? え? ちょっと待って……。あぁ、そう言う意味ね。オーケー。理解した」
1人入って、1人出る。もし、この当たり前の条件が崩れると、退室できなくなる可能性がある。なぜ入室者と退室者のID照合をせず、雑に人数管理だけしているのかは知らない。たぶん、システムが古いのだろうと思う。研究所は特に箱に回せる予算が少ない。今では化石みたいなシステムを使い続けることも、よくある。
「それが、つまり友連れ入室の防止、ってことだね。ID証をかざさずに入室しちゃうと、出れなくなっちゃうんだ」
マンションのオートロック玄関みたいに、ID証がなくても、誰かが開けた時に一緒に入ることは可能で、それが友連れ防止と言うことだ。
「そうです。でも、これって結構問題があって、実際に出れなくなる人が、時々いるんです」
これ自体は、怪談ではなくて、本当の話である。だから、絶対に友連れの入退室をしないように、また、扉がきちんと閉まったかを確認するように喚起されている。
「それは困るねぇ。閉じ込められちゃったら、どうすればいいの?」
「あ、はい。出られなくなったら、管理センターに電話すればいいだけですけどね」
部屋内にはいくつかの電話があって、内線を押せば1階の建物を管理している窓口につながる。例え深夜でも守衛さんがいるから、普通に開けてもらえる。
しかし、実際に閉じ込められるっていうのは、ショックだろうし、深夜だったら猶更、いい気がしないだろう。
「だから、さっきは無事に出られて、良かったってこと?」
「それもあります。常時誰かいると、入室人数と退室人数がシステム内でずれているかどうかが判明するのが、最後の1人の退室時になりますよね。不一致の場合、気の毒な最後の1人が出られなくなります」
「ふーん……。私、結構、RI管理区域で最後になることがあるけど、今のところ、無事に出られててよかったぁ。夜中に1人で閉じ込められたら、不安だろうなぁ」
これで、この話は一旦の決着がついてしまった。
砂子さんも、実際に活かせる新たな情報を得られて満足そうだし、このまま怪談の方は無かったことにしてもいいかな、と思った。
だけど、砂子さんはその先を聞きたがった。
「ね。それで、それがお化けとどう関係あるの? それじゃあ、ただのシステムの設計の問題ってだけだよね。何が怪談なの?」
「え~と……、つまり、区域内にいるお化けが退室しちゃうから、残された研究者が出られなくなる、っていう話です」
答えながら、僕は自分でも何を言っているのかよく分からないな、と思った。これじゃあ、説明が上手くない。
「1人が入室したら、1人が出られる。でも、入ってない『誰か』が出ちゃうから、数が合わなくなる、っていう感じですかね」
「待って。なんで、そこでお化けが出てくるの?」
「管理上に記録されない『誰か』があの部屋にいる、んです」
「うん? でも……退室にはカウントされるんでしょ? それって、まさか、お化けが、ID証を使って退室しちゃう、って意味?」
砂子さんの声は既に笑い含みだ。それを聞いて、僕まで笑い出しそうになった。
「……まぁ、そうなりますね」
入った記録の無い『誰か』が、出てしまう。
だから、入室者と退室者の人数が合わなくなる。
その退室者は、実はお化けだったのだ!
「ぷっ……ふふふっ」
────……おかしい。これは、研究所にまつわる、結構本格的な怪談だったはずなのに。
僕と、砂子さんは笑いあった。
怪談は、いつの間にか笑い話に変わっていた。
「あはは……でも、そういう現象が実際に起きてて、で、そうなった時に危ないのは、閉じ込められた人じゃなくって、その前に帰宅した人の方なんだそうです」
「ん?」
コンビニの光が見えてきた。
「後ろについてくる、ってことですね。誰かが閉じ込められる現象が起きた時に、閉じ込められずに先に帰った人が、家に帰る途中で事故にあって亡くなった、そうです」
「────へぇ~……」
ID証をかざして退室する時に、同じようにして後ろからついてくる『何か』。
黙って、ピタリと背後についてくる。家まで、一緒についてくるのかもしれない。
「最後の1人の、前の人かぁ」
「はい」
コンビニで飲み物やおやつを買って、来た道を戻る。
コンビニがやたらと明るかったので、敷地の闇は一層濃く見えた。
周囲が暗いおかげで、夜空に浮かぶ星が綺麗だ。しかし、見上げると研究所の建物にはまだ結構電気が点いている。ロマンチックには浸りがたい。
「ありがとう。面白い話だった」
「いえいえ、なんか、自分でも尻すぼみだな、と思いました。僕が初めて聞いた時は、結構怖いな、って思ったんですけど。僕の話し方が悪いのかもしれませんね。才能ないなぁ」
僕は頭を掻く。
怪談は話し方が肝要だろう。いまひとつ、怖さを表現しきれなかったことを反省する。
「背後からついてくる、っていう所のくだりは、ちょっと怖かったと思うよ」
近道の駐車場を通り抜ける。
途中に、動物実験の慰霊碑がある。実験で殺された動物たちのお墓だ。
「でも、私としては、RI管理区域でキスしてたっていう研究者の話の方が怖いなぁ」
「えっ、なんですか、それ」
「あれ? 聞いたことない? やっぱりところ変われば、怪談も変わるね」
ここに着任する前の大学での話だ、と砂子さんが言う。
「ジョークみたいな怪談だよ。カップルの研究者がいて、RI管理区域内でキスして、被曝した、っていう話」
「怖っ!」
あまりにシンプルな「怖い話」だった。
RI管理区域。
────正式には、ラジオ・アイソトープ管理区域。
放射性同位体(ほうしゃせいどういたい、英語ではradio isotope。頭文字を取って「RI」だ。
区域内では飲み物も飲めない。
放射性物質を体内に摂取する恐れがあるからだ。
入退室時の汚染チェックは徹底し、RI廃棄物は全て焼却処理される。
実際のところ、十分に気を付けて実験される環境で、そう簡単に汚染はおきない、と思う。
放射性物質の漏洩とキスの二つが組み合わさるなんて、考えにくいし、余程の悪条件が重ならない限り、ありえないだろう。
でも────万が一、それが起きたら。絶対にないとは言い切れない。外部被ばくだけじゃなくて、内部被ばくも予想される。
「……………………うーん、なかなか、怖いですね」
僕は唸った。
考えるに、これは怪談というより、ブラックジョークの一種なのだ。
いや、教訓か?
「ふふっ……『それ系』で怖い話なら、いっぱい知ってるよ。シャレにならないから絶対に他人に漏らせないやつ」
悪戯っぽい口調で、砂子さんが笑う。
僕は、降参の意味で両手を開いた。
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お読みいただきありがとうございました。
実はタイトルをもっとぼかして「研究所のラジオ」にしようか悩みました。
今回はあえて最初から種明かしする方にしてみましたが、いかがでしたでしょうか。
拙い短編ですが、少しでも楽しんで読んでいただければ嬉しいです。
評価、感想いただけたら励みにさせていただきますのでよろしくお願いします。