あなたがくれたものは(4)
あれは確か小学二年生の春だった。
柑奈が隣の家に引っ越してきて、俺の家に彼女の家族が挨拶に来た。
当時の彼女は俺よりも少し背が高くて、俺は少しショックを受けたのを覚えている。笑顔がとびきり可愛かったのはあの頃から変わらない。
きっと柑奈と俺が初めて顔を合わせたあの瞬間だろう。
俺の世界の全てが柑奈になったのは。
「裕太って何かあると、いっつも『は?』って言うよね」
「は? そうか?」
「ほら、また」
中学校の帰り道、柑奈は呆れた顔で俺の隣を歩いていた。
出会ったあの頃とは違って、今は俺の身長の方が柑奈の身長よりも全然高く、隣を歩いていてもいつからか柑奈がすごく小さく見えるようになっていた。
「仕方ないだろ。つい、言っちゃうんだよ」
「気を付けた方がいいよー。言われたほうはショック受ける可能性あるし、裕太って昔から無愛想だから怖いって思われちゃうかもしれないし」
今度はからかうような声と表情で言って、俺の一歩前に足を踏み出した。大きく踏み出したその足から伝わる振動で柑奈のサラサラとした長い髪が揺れる。
「怖いって……そんな風に思ってたのか」
俺が何気なく発していた言葉が怖いとかショックだとか、そんな風に柑奈に思われていたなんて気が付かなかったうえに、少しショックだった。
しかし柑奈はもう二、三歩前に大股で踏み出しながら「違う違う」と言った。
「私はそんな風に思ってないよ」
彼女は俺に背を向けて、俺の前を歩いた。
「どれだけずっと一緒にいると思ってるの。こんなに裕太のこと解ってる人間は他にいないんじゃないかな」
「……じゃあ怖いとか思ってない?」
「怖いどころか、私は裕太といるのが一番楽しいんだよ。まあなんてったって、裕太は今までも、これから先も、私の幼馴染で、親友で、す……」
柑奈はそこまで言うと急に言葉を止めた。
「す?」
俺が聞き返すと、柑奈は「な、なんでもない」と焦った様子を見せた。
そうかと思えば、いきなり振り返って俺を見上げた。
「無愛想な裕太の周りから皆がいなくなっちゃっても、私だけは最後まで一緒にいてあげる。なんてね」
俺はこの瞬間、本気で思った。世界には彼女の笑顔だけでいい。そのぐらい、柑奈の笑顔と言葉に俺は惹かれた。
「……なんだよ、それ」
柑奈の笑顔があまりにも眩しくて、俺も目を細めて笑った。
俺が笑うと、さらに柑奈は嬉しそうに笑ってそのまま後ろ向きに歩き出した。
「前向いて歩かないと危ないぞ」
「わっ」
言ったそばから柑奈はつまずいて、身体が後ろに傾いた。それを見て、俺は咄嗟に柑奈の細い手首を掴んだ。
「あっぶな……言ったこっちゃない」
まさに危機一髪。倒れこむ前に引っ張ったおかげで、倒れる寸前で動きが止まった。
「あはははっ」
「笑ってる場合か」
大声で笑い始めた柑奈をもう一度引っ張り上げて、しっかりまっすぐ立たせた。
「裕太。私が最後まで一緒にいてあげる代わりに、裕太はこうやって私を守ってね」
「は? ……しょうがないな」
この日、俺は彼女をさらに好きになった。
柑奈の言葉通り、彼女はそれからも俺の隣にいた。
俺たちは高校生になった。柑奈との九度目の春。
新しい制服を着て二人で歩く景色は、何故か一段と特別だった。
「写真が趣味ってかっこいいよね」
本屋の前のテレビモニターを見て、柑奈がポツリと呟いた。
彼女の視線につられてモニターを見ると、最近世間でも人気なイケメン俳優がインタビューを受けていた。柑奈も最近ハマっているようだった。
インタビューを受けている俳優は「最近は写真が趣味で、いろんな風景を撮りに出掛けていますね」とかなんとか言っていた。
「……写真、か」
そして俺は次の日に一眼レフを買った。貯めていた小遣いを全て使い果たして、店員の勧めでなんだかよく分からない最新のカメラに決めた。お財布はかなり寂しくなったけれど。
「写真部にでも入るの?」
俺が家の前で試し撮りをしてみようと思って、オレンジに染まった夕暮れの空にレンズを向けていると、コンビニの袋を片手に下げた柑奈が話しかけてきた。
「入らないよ」
「じゃあ突然どうしたの、そんな凄そうなカメラなんて構えちゃって」
「……最近写真に目覚めたんだ。まあ、趣味ってやつ」
「裕太が? どういう風の吹きまわし?」
俺のカメラをジロジロと見ながら柑奈は笑った。
自分が「写真が趣味ってかっこいい」って言ったことを忘れているのか、と思いながら俺は少しだけ緊張していた。
「ちょっと撮ってみようよ」
そう言って柑奈は俺の手からカメラをひょいっと取って、家のポストの上に立てかけた。
「何してんの?」
「せっかくだから記念すべき一枚目は二人で撮ろうよ。タイマー機能ついてるよね」
カチカチと柑奈はカメラをいじって「オッケー」と人差し指と親指で小さな丸を作った。
俺は彼女に腕を引かれるがまま、隣に立たされた。
「ポーズくらいとってよ」
「は?」
そう言われて、戸惑っているとカメラから「ピピピ」とシャッターを切る合図が聞こえてきたため、俺は急いで隣にいた柑奈と同じようにぎこちなくピースをした。
「良い感じ! せっかくなんだから写真部に入ればいいじゃない」
撮った写真を確認しながら柑奈は言った。
「部活となると縛られるから嫌だ。好きな時に好きなものを撮りたいんだよ、俺は」
そう言ったものの、それは明らかに建前だった。特に写真が好きなわけではないし、なにより柑奈と一緒にいる時間が減るのが嫌だったのだ。
「ふーん」
カメラを俺に手渡すと「そういえばコンビニでアイス買ったんだった。溶けちゃう。裕太、またね」と急いで柑奈は自分の家に戻ろうとした。
「柑奈」
「ん?」
俺が呼び止めると柑奈は振り返った。
特に理由もなく呼び止めてしまった俺は頭の中で必死に言葉を探す。
「……俺の写真が上達するように、柑奈がモデルになってよ」
口から出まかせにそんなことを言った。言ってしまった後に、引かれたかもしれないと思った。
しかし、彼女は笑って「綺麗に撮ってよね!」と言って家に帰っていった。
柑奈がいた場所にカメラを向けて夕焼けの空を撮影すると、いつも見ていた風景だったのに、特別に輝いて見えたのだ。
それから二人でいろんな場所に行った。
公園や海、教室、ただの商店街に神社。あの日からカメラを持ち歩いて、彼女と撮影した。
何の技術も知識も持っていなかった俺は、本やネットで写真について勉強した。それは勿論、柑奈には内緒で。
いろんな瞬間をこの小さな機械に収めた。
横顔、後ろ姿、笑顔。どんな瞬間も彼女は綺麗だった。
柑奈はいつも俺の撮影した写真を見ては、嬉しそうに笑ってくれた。そんな彼女がただひたすらに大事だと思った。
同じ大学に進学した俺たちは桜の木の下で、また思い出をフィルムに焼き付けた。
俺は大学の友達と出かけたときに、星が綺麗に見える穴場スポットを見つけた。柑奈に見せたらきっと喜ぶような場所だ。
「明日、暇?」
キャンパス内を歩いていた柑奈を呼び止めると、彼女はスケジュール帳を確認した。
「十六時まではバイトだからその後なら暇だよ」
「じゃあバイト終わったら、一緒に出掛けよう」
「いいよ。どこ行くの?」
「それは行ってからのお楽しみだから」
サプライズというような大したものではないけれど、なんとなく驚いた顔を見たくて目的地は言わなかった。
そのままそれぞれ大学の友達と授業を受けるため、別々に講義室に入った。
「なあ、裕太ってあの子と付き合ってんの?」
大学の友達からの突然の質問に俺は少し、いやかなり焦った。
「は?! つ、付き合ってないけど」
「でも裕太は好きなんだろ? よく一緒にいるし、幼馴染だって聞いたし」
柑奈が好きだ。それは自分でもかなり前から、いや出会った時から認めているけれど、改めてそう言われると照れて顔が熱くなるのが自分でも分かる。
「図星だな。なんで告白しないんだよー」
ニヤニヤしながらそう言われて、さらに俺の顔に熱が増す。
「は?! なんでって言われても……」
自信が無いから。そんなことは情けなくて友達には言えないけれど、告白をして今の関係すらなくなるのが怖いという、なんとも女々しい理由だった。それに、まだ今じゃないとかいつか伝えられればいいとか、そんなことを思って、いつも先延ばしにしていたんだ。
「誰かに奪われてからじゃ遅いんだぞー」
その言葉を最後に教授が入ってきて、講義が始まってしまった。
俺は教授の話も聞かずに、柑奈が他の誰かと一緒にいることを想像する。隣にいるのが俺じゃないなんて。
それだけは嫌だと思った。そして、どうしようもない焦りが込み上げてきた。
明日、告白しよう。そう決心した。
俺の緊張が高まると共に時は過ぎた。
ベランダから晴れた青空を見上げて深呼吸をした。
今日は星がよく見えそうだ。
俺はスマホを取り出して柑奈に連絡を入れることにした。
『おはよう。今日、バイトが終わる頃にバイト先まで迎えに行こうか』
送信ボタンを押すと俺が送ったメッセージの左端に既読の文字がすぐにつく。そして三十秒もしないうちに返信が来た。
『大丈夫! 駅で待ってて』
そのメッセージに『分かった。バイトがんばれ』と返信をすると、ポンっとかわいいウサギが『ありがとう』と書かれたハートを持っているスタンプが送られてきた。それを見て、俺は少し口元が緩んでしまう。
時間までにばっちりと服装から髪型まで整えて、いざ家を出た。
なんていったって今日は人生初の告白をするのだ。気は抜けないし、最大にかっこいい自分でいたい。
駅に到着すると時計台の針は二十五分を指していた。ちょうどいい時間だ。
待っている間、俺はシミュレーションを頭の中でする。俺が「好きだ」と伝えたら彼女はどんな顔をするのだろう。
俺が一人考え込んでいる間に時間はやってきた。けれど、柑奈は来ない。
スマホをポケットから取り出すと、通知が来ていた。柑奈からだ。
『裕太、ごめん! バイトが長引いちゃって……今から急いで向かうね!』
『お疲れ様。全然大丈夫だから、急がなくていい。急ぐと柑奈は危ないから、くれぐれも気をつけろよー』
そう送った後、既読の文字はついたけれど、返信は返って来なかった。
きっとかなり急いでこっちに向かっているのだろう、と俺は思った。
しかし、それから四十五分が経ったけれど、周囲に柑奈の姿はない。柑奈のバイト先からだったら、そろそろ到着してもいいころなのに。
「……遅いな」
俺が急がなくていいと言ったから、本当にのんびり来ているのか? いやそれにしたって遅いし、柑奈だったらそう言われたって息を切らしてここまで来るはずだ。彼女はそういう人だから。じゃあ、何かあったのか。考え込んでいると、胸騒ぎが止まらなくなる。
急に背後に何かを感じた。背中がひやりとした。
振り返ると、大きな階段の前に人だかりが出来ていた。そして、次に聞こえたのはまだ遠い距離にいるであろう救急車のサイレン。
心拍数が跳ね上がり、呼吸までもが浅くなる。
そのまま、俺は人だかりに吸い寄せられるように近づいた。
すると、階段の下に人が倒れていた。
見覚えのあるシルエットに俺は目を見開く。
柑奈だ。
目の前が真っ白になって、頭の中は真っ黒になった。きっと、一度、俺の息は止まった。
「は? ……柑奈……?」
あれは本当に柑奈なのか? どうして柑奈が倒れている? 柑奈?
数秒の間、理解が出来なかった。
次に息をしたときにはもう、俺は階段を駆け降りていた。
「柑奈?! おい! 大丈夫……」
倒れている彼女に近づき彼女の手に触れるが、その手に力はない。よく見ると頭部から血が出ていて、意識もなかった。
「あ、足を滑らせて落ちてしまったみたいで、さっき救急車を呼んだので……」
周りで見ていた人が青ざめる俺に話しかけてきたが、俺は彼女にひたすら声をかけ続けた。けれど、柑奈の意識は戻らない。
救急車が到着して、救急隊が「救急隊です。搬送するので、下がってください」と、俺と柑奈の側まで駆け寄ってきた。
「は……? なんだよ、これ……柑奈……柑奈!」
柑奈から離れようとしない俺を救急隊員が強引に引き離し、素早く対処をし始める。
担架で救急車に運ばれて、柑奈はすぐに搬送された。
俺は付き添いで救急車に乗り込み、震える自分の手を柑奈の手に添え、かすれた声で彼女の名前を呼び続けた。
「柑奈……大丈夫。大丈夫だから……目を覚ましていつものように笑ってよ。柑奈……」
俺は自分にも柑奈にも、大丈夫、大丈夫と言い聞かせた。
どんどん冷たくなる彼女の手を握りしめ、どうか無事であってくれと祈った。
けれど、俺の祈りも儚く散り、柑奈はこの世を去った。
柑奈がいなくなった。
俺の世界の全ては柑奈だった。
だから、俺の世界には何もなくなった。