それは確かに愛でした(8)
堪えきれなかった涙を袖でゴシゴシと拭った。目の周りがヒリヒリする。泣きすぎてきっと目も腫れていることだろう。
「準備はいいですか?」
「はい」
「目が腫れぼったいけれど、大丈夫ですか?」
「はい」
「僕が左手を挙げたら目を閉じて、パチンと指を鳴らしたら目を開けてくださいね」
「はい」
「あ、もしかして緊張し」
「あの……変に焦らさないでもらえませんか?」
私は話を続ける神様を遮った。
神様は陽気に「これは失礼」と言って、左手を挙げた。
それを合図に私は目を閉じる。
指がパチンと鳴って、次に目を開けた時には正義さんがいる。何をどうしても、どうなっても、私の大切な人。
正義さん、ようやくあなたに会えるのね。あなたの顔を見て、声が聞けるのね。会いたくて仕方がなかった。長い時間を二人で過ごしてきたせいか、正義さんがいないとダメみたい。
そしてこの目を開けた瞬間に、神様は掟を破ったことになる。決して破ってはいけない掟を。
神様の話によると、上に報告がいって見つかるまでの間しか正義さんには会えない。そのため神様にも正確な時間は分からないらしい。上に見つかれば神様の力は解かれて神様は消えてしまうようだ。
「さあ、結実さん行きましょう」
パチン
神様の声の直後、音が聞こえて目をゆっくりと開く。
開いた先には、正義さんがいた。驚いた顔で私を見ている。
「正義さん……」
「結実」
久々に聞いたその声は間違いなく、本物の正義さんだった。
白い空間の中に私と正義さんだけが二人で立ち尽くしていた。
「目が腫れぼったいけど」
「当たり前じゃない。正義さんが突然いなくなるんだもの」
また溢れ出してくる涙。その上、声は震えてしまう。
「ごめんな。結実。一人にして」
「……会いたかった……辛かったでしょう? 病気と一人で闘って、大変だったでしょう? 私の方こそ、ごめんなさい……最期まで側に寄り添ってあげられなかった」
「まあ……実のところを言うとかなり苦しかったよ。新型ウィルスって怖いな」
正義さんは「ハハハ」と声に出して、苦笑いをした。
「笑い事じゃないわよ。もうその新型ウィルスのせいで世界は大混乱の最中。死亡リスクもあるから気をつけなきゃいけないし、みんな色々な情報に惑わされてる」
「そうか……大変なことになっているんだな。でも、結実が無事でよかった。本当に。俺は最期の最期まで結実の顔を思い出していたよ」
「私も。あなたの笑顔を思い出しては泣いての繰り返し。そんなときに神様が現れてくれたの。いつも行っていたあの神社の神様。分かる?」
「ああ。分かるよ。それにその神様は僕の所にも来て、事情を説明してくれた」
その瞬間、二人だった白い空間から神様の顔だけが浮かび上がってきた。全身真っ白な神様は空間と同化して身体がハッキリと見えない。
「あのー、お二人さん」
バツが悪そうな顔をして神様は言った。
「どうやら意外とバレるのが早そうです……悪いんですけど、あまり時間が無いものと思ってください」
それだけ言い残すと神様は「じゃあ」とペコっと軽く会釈をして、また消えてしまった。
「リスクは高いのにこれだけの時間でバレちゃうのね」
「リスクが高いからこそなんじゃないのか」
こんな緊急事態に呑気なことを言っていることが可笑しくて、二人で顔を見合わせて笑った。
正義さんの笑顔はやっぱりキラキラ輝いていて、眩しくて。この笑顔が私は大好きなのだ。
「その笑顔……私、正義さんの笑顔が大好きです。あなたは本当に太陽みたいな人で、優しくて、温かくて。正義さんがその笑顔で私を照らしてくれたから、私は笑えていたの」
今まで言えなかった全てのことを、今、全て伝えてしまおう。そう決めていた私は、素直に正義さんに話すことが出来た。
「俺だって結実の笑顔が大好きだよ。そうだなあ。俺が太陽って言うなら結実は花かな……恥ずかしいな、これ」
正義さんは照れた顔で私をチラッと見た。
照れた時に手を首の後ろに当てる癖は何年も変わらないまま。
「いいじゃない。最期なんだから」
私がそう促すと正義さんは話を続けた。
「俺が太陽で結実を照らして、花が咲いたように結実が綺麗に笑う。それを見て、俺はまたより一層輝ける。お互いに向き合いながら俺たちは笑う。今までも、これからも」
正義さんは思いっきり笑って言った。
そんな正義さんの顔にそっと手を添えると、私のなかに温かいものが流れてくる。
「その笑顔……こんなにも心が温かくなる。幸せになる。あなたといるといつもこんな風に思うの。何なんでしょうね、これは」
「愛……じゃないのか」
「照れながら恥ずかしいことを言うのね」
私がクスっと笑うと、正義さんは「最期だから」と言った。
顔も手もシワが増えて、髪だって白髪ばかりになってきているのに、変わらないものがある。
「ずっと……なんて無理なのは解ってるけど、もう少し一緒にいたかったわ」
「結実の生きる世界でずっとは無理だけど、こっちに来たらずっと一緒にいられるさ。でも、まだ当分は来ないでくれよ。俺は気長に待つから、生きられる時間を大切に生きるんだ」
私の手を握って正義さんは私を見つめる。そんな彼を私も見つめながら、力強く頷いた。
「結実さん! そろそろ!」
神様の声が頭上から降ってきた。声の様子から焦っていることが分かる。
どうやら時間切れのようだ。
「正義さん。長い間、ありがとうございました。あなたに出逢えて、あなたの側で笑顔を見られて、とても幸せでした」
「こっちの台詞だよ。結実と過ごした毎日は日常に溶け込んでいたけれど、最期の時になって君の顔が頭に浮かんで、その大切さに改めて気づけた。新型ウィルスなんかに負けないで、笑っていてくれ。結実の側にいられて、俺は死ぬほど幸せ者だ」
「死ぬほど幸せって……死んでから言わないでくださいよ」
「ははっ……そうだな」
正義さんは瞳を潤ませながら、私の手を離した。
寂しそうな顔を一瞬だけ見せて、自分の奥の方にしまい込む。
「結実、本当にありがとう」
その声と笑顔を最期に、私の記憶は途絶えた。




