あなたがくれたものは(1)
別に好きなわけじゃなかった。
このカメラも、写真を撮ることも。
彼女が笑うから。
彼女が楽しそうに話すから。
彼女がいる景色が好きだから。
ただ、それだけだったんだ。
柑奈はいない。
もういなくなったんだ。
俺は病院を出て、一人で暗くなった夏の夜道を歩き始めた。
時計は確か、短針が十一のところにあった気がする。
「柑奈……」
誰もいない夜道に涙を流しながら、呼びかけてみても彼女の返事があるわけはなく、行先も決めずに、ただ歩いた。全身の力が抜けている感覚があるのに、足だけは動く。
柑奈は死んだ。そう自分に言い聞かせる度に涙はこぼれた。
しばらく歩くと、前に柑奈とお参りに来た神社があった。
小さくて古い神社で、あまり人が来ている気配はなかったけれど「それが逆にいいんだ」と柑奈が言っていた。初詣に二人でここへ来て手を合わせたことを思い出す。
俺は鳥居を見上げた。
何かのテレビ番組で、鳥居はこの俺たちのいる世界と神様の世界を分けているもので、この鳥居の一歩先は神様の世界になるのだと聞いたことがある。
神様の世界に俺は足を踏み入れた。今、俺は神様の世界にいるのだ。
まっすぐに一歩ずつ足を進めると、小さい神社のため、数歩ですぐに拝殿の前まで来てしまった。拝殿の前には三段ほどの階段があって、ゆっくりと段差を踏みしめる。
ポケットに入っていた小銭を取り出し、賽銭箱へ五円を入れた。そして手を合わせる。
目を瞑ると、初詣の日の柑奈が見えた。俺の前を歩き、先に階段を楽しそうに駆け上った柑奈の後ろ姿にカメラのピントを合わせた。手を合わせ、目を瞑る彼女の横顔を見て、また思わず俺はシャッターをきった。それに気づいて柑奈は笑った。
いつまでも柑奈の笑顔が見られますように。柑奈の隣にずっといられますように。
あの日の願いが、思い出が再生される。
「神様……意地悪はやめてください。柑奈を返してください」
俺は声に出して願った。出さずにはいられなかった。
「意地悪は失礼だなあ」
突然、声が聞こえて固く閉じていた目を開けると息を呑んだ。
俺の目の前の賽銭箱に男が足を組んで座っていた。
「……は?」
自分の顔が引きつっているのがはっきりと分かる。やっと出た声は掠れていて、恐怖をも感じる俺に対して、男は微笑みかける。
その男は上から下まで全部白い服を身に着けていて、その上、肌まで女の子かのように白い。流行りのオーバーサイズの服に包まれた華奢な体系に、綺麗な顔つきで、かなりの美青年だ。年齢は大学二年の俺と変わらないか、少し上くらいだろうか。
「僕は意地悪なんてしてないよ」
声までもが綺麗なその男に一瞬見惚れてしまったが、俺はすぐに我に返ってゆっくりと後退りをする。
きっと関わってはいけないやつだ、と脳が判断し、逃げろと信号が出される。
少々の遅れをとってから体の向きを変え、賽銭箱を背に歩き始めた。
賽銭箱の上に座るような罰当たりな美青年なんて危険だ。
「え? 無視なの?」
その声が先だったか、姿が見えたのが先だったかはわからないけれど、また男は俺の目の前に現れた。漫画やアニメではよくある瞬間移動。足元をよく見ると男は浮いていた。
「は?! どうなって……何者?」
「何者って、君が話しかけた相手だよ」
俺が話しかけた相手?
男は先程から笑顔が張り付いているかのようにずっと笑っている。
「……誰ですか」
「神様」
その言葉を聞いて俺の思考だけでなく、時まで止まってしまった気がした。
「……ああ。俺はついに幻覚まで見えてしまったのか」
柑奈を失った悲しみで、幻が見えるなんて。
「いやいや、本物。本物の神様」
「本物って……ただのいたずらなら相手にしてる余裕ないんで」
本当にそれどころではない。大好きな人を失くしたところにそんなおふざけ事を言われるとものすごい怒りがこみあげてくる。
「いや、待ってよ。もう~。裕太が呼んだくせに」
「裕太って……なんで俺の名前……」
「知ってるよ。だって神様だから」
驚きが隠せない俺に、神様と言い張る男は口角だけをクイッとあげて笑った。
信じ難い。しかし、気配もなく現れたり、宙を浮いてみたり、名前まで知っている。幻覚と言われた方がまだ信じられる。
神様。
俺の中で何かがざわついた。沸々と込み上げる。
ああ、これは怒りなのだろうか。
「神様って言うんなら、なんであの時の俺の願いを叶えてくれなかったんだよ」
「あの時の願いって?」
「神社でお参りに来たとき……柑奈の隣にずっといさせてくださいって願った。毎年、毎年そう願っていた。それなのに柑奈、もう……いないんだよ! 俺の隣にも、どこにも! 神様のくせになんで願い叶えてくれなかったんだよ!」
幻覚相手に俺は泣きながら訴えた。
神様なのに、どうして願いを叶えてくれなかったんだ。
どうして柑奈はどこにもいないんだ。
「お参りって、もしかして初詣とか?」
「そうだけど……毎年柑奈と初詣に」
「うわー。悪いけどその時期、すっごい忙しいんだよね」
神様は「いや本当に毎年忙しくて忙しくて」とブツブツ言いながら、静かに着地し、俺の周りをグルグルと歩き始めた。
「それと願い事だけじゃなくて、ちゃんと名前とか住所とか言った?」
「え? いや……それは言ってなかったような」
毎年、柑奈と初詣に来て、「柑奈の隣にずっといさせてください」とはっきりお願いしてきたが、名前や住所までは心の中で唱えるどころか、考えたこともなかった。
「あー……それは無理だわ」
「無理?」
「いやいや、ちょっとよく考えてみて。初詣だよ。どれだけの人が集まると思ってるの。そんな中で名前も住所も無しで分かるわけないじゃん。一度に大量の願い事をさ、みんな一斉に言ってきて忙しいことこの上ない」
神様の顔にはもう笑顔は張り付いておらず、代わりに眉間に皺が押し寄せる。
いきなりものすごい勢いで話を始めた神様に俺の涙も気持ちも引いてしまった。
「でもさっき俺の名前、神様だから知ってるって……」
「だって今は君、一人じゃん。あの人数の名前を一気に調べられると思う? 神様だって結構大変だぞ?」
「でもこの神社、初詣に来た時も全然混んでなかったっていうか……人がいなかったっていうか」
「だってここだけじゃないんだもん。僕が担当してる神社多いんだもん。有名どころも僕の管轄だし。あーあ。やっぱり上に言って担当減らしてもらおうかなあ」
「……担当? 上? なんの話?」
空を見上げながら神様は「ああ。こっちの話」と言った。
「大体さ、大抵の人が初詣に来てお参りして、次にお参りに来るのはまた来年の初詣だよ。一年に一回しか来ない上に、語呂合わせでほとんど五円。対価おかしくない? そもそも願い叶えてもらおうとする前にちゃんと近況報告とかさ、感謝とかしてよって神様は思うわけ」
神様の愚痴は止まらず、どんどん出てくる。相当ため込んでいたようだ。
俺はそれを呆然と聞いていたが、ふと時計を見るともう夜の十二時になっていた。
さすがに帰ろうと思い、静かに歩き始めたが、何故か神様も一緒に移動する。しかも隣で宙に浮きながら。
「だからね、神様の気持ち解ってくれた? 決して意地悪をしているわけではないんだよ」
「まあ、はい……ていうか、なんでついて来るんですか」
「え? だってまだ話終わってないし」
まだ続くのか、と心の中で呟いたが、もう声に出すのもめんどくさかった。とにかく頼むから歩いて欲しいと思っていた。
おかしな幻覚の神様につきあっていても、俺の心は柑奈の死でボロボロだった。柑奈の顔を思い出すたびに、脳天を殴られたみたいに視界がグラつく。
「まあ、しかし、忙しかったからと言って君の願い事を無下にしてしまったことは謝ろう。悪かった。そしてお詫びに君の願いを聞いてやろう。さて、どんな願いを?」
「……願い? 叶えてくれるのか?」
つい聞き返す俺に神様は「うん」と言った。
本当に叶うのなら、俺は
「柑奈を返してください」
まっすぐ神様を見て言うと神様はにっこりと笑う。
「無理」
「はあ?! 今のなんだったの? 叶えてくれるんじゃないの?」
誰もいない夜道に俺の大きな声が響いた。
にっこりと笑った顔をして、完全に叶えてくれる流れだったじゃないか。
「だって僕、柑奈って子を連れ去ってないもーん。それなのに返してって言われても」
「返してってそういうことじゃないから! 生き返らせてくれってこと!」
「ああ。そういうことかあ。ごめん、それも無理」
「は?! からかってるんならやめてくれ」
怒りが爆発する俺に神様は「怖い怖い」と身を震わせる。
俺の中の「こいつは神様じゃない、と思う派の俺」が人数をどんどん増やしていく。
「裕太、怒らないでよ。僕だって叶えてあげたいんだけどさ、亡くなってしまった人を生き返らせることは出来ないんだよ」
少し切なそうに神様はそう言った。
そんな風に言われたって、俺の願いは変わらないんだ。
「どうしてだよ……もう一度でいいんだ……伝えてないことがあるんだ」
生き返らせるのが無理だったとしても、せめてもう一度だけでも会えたならば、と俺は拳を握りしめる。
しかし、神様は静かに首を横に振った。
「ダメなんだ。それが例え一時的にであっても出来ない仕組みなんだ。そんなことをしたら僕が上に怒られちゃうし」
「だからその上ってなんのこと?」
「神様にもいろいろ都合ってもんがあるんだよ」
神様はそう言って険しい顔で夜空を見上げた。
それにつられて俺も一緒に空を見上げる。
上って言葉通りの「上」なのか?
「じゃあ……もうここで」
俺は神様に別れを告げた。
けれど、伝わっていなかったのか、神様はまだ俺について来る。
「だから、いつまでついて来るんですか。そろそろ神様は神社に帰ったらどうですか」
「神様の気まぐれってやつかな」
呑気な返事をしてくる神様を俺はキッと睨みつけてやったが、全く気にも留めない様子で神様は隣で宙を滑るように進む。
「裕太は柑奈に伝えきれてない想いがあるんだよね」
「……まあ」
「生き返らせることは出来ないんだけど、こういうのはどう?」
神様はニヤリと笑いながら、俺を見た。
何を考えているのかさっぱり解らない、神様ってやつは。