それは確かに愛でした(3)
今年が始まった、ついこの間のこと。
新型ウィルスは外国から日本へやってきた。人から人へと感染するそれは人を通じてこの国にも渡ったのだ。
症状としては咳や発熱が多く、重症肺炎を引き起こす場合もある。無症状の患者も発見され、感染者は毎日増え続けている。若者と高齢者で症状の度合いも異なり、高齢者は重症化するリスクが若者よりも格段に高い。最悪、死に至る。
それに加えて、あることないことデマが世界中に拡散されたり、マスクや消毒、トイレットペーパーなどの集中的な買い占めにより薬局ではそれらの奪い合いになったりしている。
治療薬も予防接種もまだ無い。そのため感染しないようにマスクが欠かせない毎日になり、急速に生活は変化していった。
このように新型ウィルスは驚異的な力で世界中を混乱に陥れていった。
「正義さん。お茶、入れましょうか」
「ああ、頼む」
ニュースを見ながら私たちは朝食を済ませ、一息ついていた。
空になった湯飲みに気づいて、急須で正義さんの湯飲みにお茶を注ぐ。コポコポという音と湯気が一緒に手元から放たれる。
「またこのニュースだよ」
そう呆れた声で正義さんは言った。
テレビの画面を見ると、『新型ウィルス』の文字があった。
「また新型ウィルス……あらあら、感染者が一日でこんなに……」
「重症者も死者も増えてきたなあ」
「まだマスク残ってたかしら。いつまでこんなマスク生活が続くんでしょうねえ」
私は心配になって棚の上のマスクの箱を確認した。まだ箱の半分は残っているけれど、売り切れとなってしまえばすぐ足りなくなってしまう。見つけたらまた買って来なければ。
「いつまで続くかはわからないけど、いつかは終わるだろう。人生と一緒だ」
入れたてのお茶をすすりながら、正義さんは呟いた。
「マスク生活は早く終わってほしいけれど、人生はまだまだ終わってもらっちゃ困るわ」
「ははっ。それはそうだなあ。でも最期の時は静かに二人で過ごしたいもんだな」
正義さんが呑気に笑いながらそう言うから、私もつられて「そうね」と言った。
「今日、買い物には何時に行く?」
正義さんが定年退職してからは二人で一緒にスーパーや薬局に買い物に行ったり、一緒にテレビを観たりと、穏やかな日々を送っていた。二人で過ごす時間が増えて、時々喧嘩だってする。
「お昼を食べて、神社に行った帰りに買い物もしてきましょうか」
「そうだな。了解。結実はあの神社が本当に好きだな」
食べ終わった食器を片付けながら、私は答えた。
「ええ、好きよ。なんだか愛着を感じるの。それに正義さんがプロポーズしてくれたのもあの神社の前だし、何かご縁があるのよ。きっと」
「そうかそうか」
適当な返事をして正義さんはまたニュースを見始めた。
それから昼食後に二人で神社に行ってお参り、買い物を済ませた。家に帰ってくるなり、家の電話が鳴り響いて正義さんが受話器を取った。
楽しそうな声を聞きながら、私は食材を冷蔵庫にしまう。
薬局もスーパーもマスクは案の定売り切れだった。明日も買い物に行ってみるしかない。もしくは何か布で手作りしようか。
「結実。明日から二泊三日でちょっと旅行に行ってきてもいいかな」
電話を終えた正義さんは機嫌よく私に話しかけた。
「電話の相手は仕事で同期だった佐藤で、数人で宿を取ってあるらしいから行かないかって誘われてなあ。東京の良いところらしい」
「東京? 東京はけっこう感染者多いみたいじゃない。それに旅行はこの前にも私と行ったし……ちょっと危険じゃないかしら」
東京は大都市であるため人口も多ければ、海外からの訪問者も多い。感染者も出ているらしく、あまり私は素直に了承を出せなかった。
「確かに結実と旅行には行ったけれど、佐藤たちにも久しく会ってないからなあ。マスクと手洗いをしっかりすれば大丈夫だろ」
「でも……」
「佐藤たちと話したいこともあるし、頼むよ。なるべく観光も控えるし」
両手を合わせて私に頼み込む姿を見ると、「分かりました」とつい言ってしまった。
その晩、私は家にあった布でマスクを二枚作った。完成したマスクを正義さんは手に取るなり、これを着けて旅行に行くと張り切った様子を見せた。
翌朝そのマスクを着けて正義さんは荷物を片手に手を振った。
「ありがとう、結実。じゃあ行ってくるから」
「気を付けて行ってきてくださいね」
「ああ。たくさんお土産を買ってくるから。結実の好きそうなものを選んでくるから任せなさい。結実も俺のいない間に十分に羽を伸ばしておけよ」
マスクをしていても分かるくらい目を細めた笑顔で正義さんは笑った。
彼は昔から、こうして笑う。この笑顔を見ると私も笑顔になってしまう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
こうして彼は満面の笑みで家を出た。
きっと大丈夫。何の根拠もない大丈夫に身を任せながら、彼を見送った。
それから三日目までは随分と長い時間を一人で過ごしたような感覚だった。
「今日、正義さん帰ってくるのよね。何が食べたいかしら」
カレンダーを見て、今日がやっと旅行最終日であることを確認する。
家事を始めようとしていると、電話が鳴った。
「あら。正義さんから……はい、もしもし」
「もしもし。結実さん? 佐藤です」
電話の声は正義さんではなく、佐藤さんだった。
「あ、佐藤さん。お久しぶりですー。主人がお世話になりまして」
「あ、いえいえ。あの今は正義さん体調を崩してしまって……このまま病院に行って検査をしなければならないらしくて」
「え?」
「熱がけっこうありまして……僕らも検査を受けるよう指示されるのだろうと思います」
「まさか……新型ウィルス……」
「……その可能性も……」
私は受話器の向こう側の声を静かに聞きながら、高鳴ってしまう胸の音を鎮めようと必死だった。いろいろなニュースや新聞の記事が、新型ウィルスの文字を筆頭に頭を駆け巡る。
私が正義さんを見送ったあの日が、私たちが顔を合わせた最期の日になってしまった。




