それは確かに愛でした(2)
夢の中で私を呼ぶ声がした。
「結実」
その声に飛び起きる。しかし、隣を見ても誰もいない。
正義さんの声だったような気がした。低音の優しいあの声でいつも彼は私を呼ぶ。
しばらくして幻聴だったのだと自分に言い聞かせ、また布団に入る。けれど、眠れなくなってしまった。
時計は四時を指す。起きるにはまだずいぶんと早い時間ではあったが、仕方がなく私は起き上がった。
何かをしていないと崩れてしまいそうだ。そう思って家事を始めてしまったけれど、結局それも全て終えてしまった。
「……散歩にでも行こうかしら」
カーテンを開けると外は少しずつ明るくなってきている。早朝の散歩も悪くないかもしれない。
家の中でも寒くて仕方がないのだから外に出るならば、厚着をしていかなければ。
私は何枚も服を重ねて、マフラーとマスクをして玄関のドアを開けた。
「……寒い……」
どれだけ着ても寒いのだろう。そう諦めて、私はいつもの神社に向かった。
人通りが全くない道をゆっくりと一人で歩いた。
神社に到着し、いつものように賽銭をして手を合わせた。早朝の神社はいつもよりも神秘的で、静かな気がする。
「神様。正義さんが帰ってきませんでした」
口にしただけで体も頭も重くなるような感覚があった。その重さが私の辛さだと、静かに悟った。
「寒くて、涙が凍ってしまいそう。帰ります」
拝殿の前で深くお辞儀をして、背を向けると誰かが「待ってください」と言った。
振り返り、目をやると白い服を着た美少年が私の後ろに立っていた。
驚いた私は「ひっ」と掠れた悲鳴のような声を出してしまったが、幽霊にしては綺麗な顔をしすぎているし、最近の若い子が着そうな服装をしている。
「驚かせてしまってごめんなさい。せ……結実さん」
彼は私にお辞儀をしながら謝った。透き通った綺麗な声だ。
「あの……どちら様でしょうか。何故、私の名前を知っているんですか」
「僕はずっと前から結実さんを知っているんです。毎日、ここにお参りに来てくれてありがとうございます。掃除までしてくれて、嬉しいです」
無邪気に笑う彼は、素直でいい子なんだろうと一瞬で思った。
「もしかして、この神社を管理している方でしょうか?」
もう何年もこの神社に通っているけれど、今まで会ったことがない。それにこんなに若い男の子が管理しているなんて思っていなかった。
「いえ、管理とかじゃなくて」
「あら、そうなの?」
「はい。僕、神様です」
「あら、そう……は?」
にこやかな笑顔で彼は自分を神様と名乗った。
私も耳が遠くなったなと思った。
「ごめんなさい。今、なんて?」
「僕はここの神社の担当の神様です」
それは何度聞いても耳を疑うセリフだった。
「君は神様なの?」
「そうです」
おかしな話だった。とても信じられないような話だった。けれど、真っ直ぐな彼のその瞳が嘘を言っているような気がしない。
私は彼の言っていることに合わせることにした。
「わざわざ神様が出向いてくれるなんてねえ。夢にも思わなかったわ」
「少し遅くなってしまい、申し訳ないです。もう少し早くに会いに来られたらよかったんですが……僕、けっこう上から怒られちゃって、今まで会いに来られなかったんです」
彼の話しぶりから、私はもう信じるしかないと思った。長年生きてきて、こんなことは初めてだが、神様は存在すると信じてこの神社にお参りに来ていたのだから、信じないことはない。
「あなたは何か怒られるようなことをしたの?」
神様は苦笑いをして、「ハハハ」と自分の頭を掻いた。
「ちょっとルールを破ってしまいまして……」
「ルール違反ねえ。それは怒られてしまうかもしれないわね。でも、そのルール違反は自分のためにしたわけではないでしょう」
その言葉に神様は驚いた顔をし、動きが止まった。
「自分のために動くような神様には見えないわ。自分のために違反をするのは間違っているのかもしれない。でも、私はね、誰かのためにルールを破るのは悪いことじゃないと思うの。それはきっとその『誰か』を大事に想っている証拠じゃないかしら」
約束事やルールというものは守らなければならない。それは常識である。それでも、例外はあるのではないかと私は思うのだ。誰かのためにどうしても破ってしまいたくなることがある。
「まあ、それは破られた側からしたら、『お前の都合で勝手すぎる』とか『気まぐれじゃ済まない』とか思うかもしれないわね。だから、覚悟は持たなくちゃいけない。それすらも受け止める覚悟を」
破ってしまった以上は何か非難を浴びる覚悟もセットで持っていなければいけない。逆を言えば、その覚悟を持っていなければ破るべきではない。
「……結実さん。あなたは本当にすごい人だ。ありがとう」
彼は整ったその顔で優しく微笑み、そう言った。
「どういたしまして。あなたはきっと本当に優しい神様なのね」
日が昇って、辺りがある程度明るくなってきたことに気づき、太陽のほうを見る。眩しくて目を細めたけれど、光が染みる。
なんでもないような瞬間に悲しくなってしまう。あの人を思い出してしまう。
「大丈夫ですか? 結実さん」
涙が滲んだ目に気づかれてしまったのか、神様は心配そうに私を見た。
「大丈夫じゃないですよね。大切な人を亡くしてしまって、どれほど辛いか……僕はあなたを助けたくて来たのに、逆にあなたに励まされて……僕の力不足です」
深々とお辞儀をした神様に、私は慌てて「頭を上げてください」と言った。
神様に頭を下げさせるなんてとんでもない。
「それでも僕はあなたの力になりたいんです」
私は彼の真剣な眼差しに少しも目を逸らせずにいた。
「そうねえ。出来るならば……最期に話も出来ず、一人で逝ってしまった正義さんをどうか天国で安らかに眠らせてあげたいわ」
正義さんの話をすると、やはり込み上げてくるものがあって、こんなに年下の子の前で私はポロポロと大粒の涙を流してしまった。
「それなら……僕が正義さんに手紙を届けましょう。火葬の前までなら可能なんです。特別な便箋に手紙を書いてもらって、神様として僕がしっかりお届けしますから。もちろん返事もお届けします。直接話をすることは出来ないんですが、手紙なら大丈夫です」
必死に説明をする神様。その顔には一生懸命と書いてあるように見える。
「神様はそんなことが出来るのね。でも……もう遅いのよ。きっとすぐにあの人は火葬されて私のところに帰ってきたときには骨よ……」
神様は私の顔を見つめていた。
「正義さんは……感染症で亡くなったの。最期に顔くらい見たかったわ……」
「……新型ウィルス……ですね。すみません、僕の調査不足でした」
そう。正義さんは新型ウィルスに感染して、この世を去った。




