想術師連続殺人事件編 悪い奴
さてさて、勝負の行方は如何に!?
舞台は整った。
廃倉庫の中で、佐竹はおびただしいバイクのヘッドライトに照らし出された数多を睨み付ける。先程まで膨大な傀朧を動かせていた血倉数多は――――うずくまり、膝を付いて呻いていた。
「ぐ、ぅっ……っ!」
佐竹は、空いた両手を握り込んで構える。
想極。想術師個人にとって、最も強大な効果を発揮できる想術のかたち。
佐竹の想極『素手転対瞞・喧嘩上等』は、己と相手の傀朧を元に形成される仮想空間だ。その性質は、傀異が展開する傀域と全く同じものである。想術として展開された傀域は、佐竹の心象風景を色濃く反映し、その領域内に在る者に制約を強いる。
この想極が課す制約は、〈傀朧の生成の禁止〉。
相手は、想極の発動時に傀朧を全て奪われる。つまり、この空間から出るまで、体内に傀朧を保有することが出来なくなるのだ。
傀朧は言わば、どんな人間でも一定量保有しているエネルギー体だ。想術師ともなれば、その保有量は常人の何十倍にもなる。それらを一気に失えば、当然身体に負荷が掛かる。
その条件は相手もさることながら、佐竹も同じだ。佐竹の負担を軽くするには、想術を使ってあらかじめ傀朧を減らしておくしかない。しかし、想極の展開時間は、佐竹と相手二人分の傀朧の総和に依存する。
この想極を使いこなすには、戦況の見極めが必須だ。
考慮すべきは二つ。
佐竹自身の傀朧の保有量と、相手の傀朧の保有量。
己の負担を軽くすれば展開時間が縮まり、長く想極を保ちたければ強い負担に耐えなければならない。相手の傀朧保有量が多ければ多いほどアドバンテージが取りやすく、少なければ効果も薄い。
血倉数多は佐竹にとって、かつて無いほど理想的な『想極を使いやすい相手』だった。
佐竹は、頭を押さえて脂汗を流す数多と、少しずつ距離を詰める。
肉体と傀朧の親和性が高い想術師が傀朧を失うことは、一般人に比べて身体への負荷が大きい。傀朧を使い果たしておいた佐竹ですら、軽い目眩を覚えるほどだ。傀朧を失った反動は、その保有量が大きければ大きいほど重くなる。眼前の少年を苦しめているのは、普段であれば最強のアドバンテージであろう、彼自身の馬鹿げた傀朧保有力だった。
(残念ながらあたいは、特撮ヒーロー番組みたいに、敵方に状況を解説してやるほど親切じゃ無いけどな)
現実は甘くない。そうでなくても今の数多は、呻きながら苦しみに耐えるのに精一杯で、状況を理解する余裕は無いだろう。
(しかし、これは――――何だ?)
拳の間合いまで近付いて気付く。
数多の様子がおかしい。
うずくまった身体をよく見れば、全身から傀朧が薄らと、しかし確かに絶え間なく漏れ出ている。それらは見る間に霧散し、空間へと溶け消えていく。
こんな光景は、本来あり得ない。
なぜなら、この空間が形成されると同時に、佐竹と数多の肉体に蓄えられた傀朧は全て吸い取られているはずだからだ。現に、佐竹の体内には傀朧の気配が全く無い。
にも関わらず、数多の身体からは、傀朧が奪われ続けている。幾度となくこの想極を展開してきた佐竹も、初めて見る状態だ。
得体の知れない嫌な予感が、佐竹を支配する。
本能的な畏れを理性で押さえつけ、佐竹は更に距離を詰める。
「おい、さっきまでの威勢はどうした?」
無反応。
佐竹の挑発的な呼び声に、数多は応えない。苦しげな唸り声を押し殺すように身体を丸めて、佐竹から逃げる様子も無い。
「おい」
ついに佐竹は、数多に触れられる距離まで近付いた。普段であれば、バイクのヘッドライトの熱に汗を浮かべながら、敵と殴り合っている頃合いだ。相変わらず数多はうずくまり、顔を上げる素振りも無い。想極を展開する直前まで感じていた殺気も、その背中からは微塵も感じられなかった。
佐竹は、十分に警戒しながらも、そっとその背に触れる。
「……酷え汗だな」
数多の身体は、まるで通り雨に遭った後のような濡れ方をしていた。Tシャツは背中にべったりと張り付いて、浮き出た背骨の感触が直に掌で感じられた。がたがたと激しく震え、荒い息で上下するその背中の肉の薄さが生々しい。
(飯が食えてねえ奴の体つきだ)
佐竹は苦々しい顔で数多の隣にかがんだ。警戒は解かない。嫌な予感も、依然そのままだ。戦闘中の張り詰めた意識をそのままに、数多の状態に集中する。
「ちょいと失礼」
佐竹はセーラー服のスカーフを外し、それを手早く数多の目元に巻き付けて目隠しをした。数多は抵抗するように身じろぎをしたが、押さえつけて組み伏せる。
(片腕が伸びるように……よし。念のために別の箇所、痛くしとくか)
肩に手を掛け、力を込める。ごきん、と鈍く脱臼の音が立つ。
「――――っ!!」
悲鳴は上げたが大して暴れもせず、数多の身体が脱力する。
(暴れる元気も無えか)
佐竹は身もだえする数多を上体で押さえつけながら、バッグから採血用の小形注射器を取り出し、数多の腕から血を採取した。針を取り外し真空採血管をバッグに仕舞ってから、佐竹は数多の外れた肩を入れ直す。
「痛えだろうけど、死ぬよりマシだろ。あたいは何も、お前を殺そうってんじゃないんだぜ」
目隠しを解く。数多は佐竹に見向きもせず、見開いた虚ろな目を地面に向けて脂汗を垂らしている。
佐竹は数多を絞め技で固めた体勢のまま、その背に触れてゆっくりとさする。
「なあ、お前、今どういう具合なんだ?」
無反応。
「気持ち悪いのか、苦しいのか、怖いのか」
穏やかな声で、手の動きに合わせてゆっくりと問いかける。苦しい、という言葉を聞いた数多の背が微かに強ばるのが分かった。
「悪いな、あたいもお前ともうちょっと遊びたかったんだけどよ。相手が悪かったな」
喋りながら、数多を観察する。表情は見えないが、この調子で何かしらの反応が得られるなら、話し続ける価値がある。
(こいつはもう戦えない。血液サンプルも採れた。だったら、できる範囲で情報収集するのが、今あたいにできる唯一だ)
「お前、こんなひょろっこくて大丈夫かよ。飯ちゃんと食えてんのか?」
無反応。
「血倉数多って言ったな。なあ、お前、ヒーローになりたいんだろ」
無反応。
「ヒーローが人を殺してるところ、見たことあるか?」
微かに、数多の左肩が動く。力無く左腕が持ち上がろうとして、何も出来ずに再び地面に落ちる。
「無いだろ。悪い奴でも、殺しちゃ駄目なんだよ、ヒーローは。お前さ、これまで何人殺した?」
呻き声が大きくなる。
「殺したくて殺したのか? それとも――――誰かに言われて?」
「――――!」
声にならない声を上げ、数多は押さえ込まれた上体を暴れさせた。佐竹はその背を容易く押さえ込み、握り込んだ数多の拳を宥めるように自分の手を重ねた。
「なあ、血倉数多。お前、騙されてるんじゃ――――っ!」
佐竹は言葉も半ばで飛び退り、数多から距離を取る。
先程まで消え失せていた殺気が、再び数多の身体に漲っていた。
「――――だ、……れ――――、……な、い」
上体をよじって無理矢理起こしながら、数多は擦れた声で呟く。数多の挙動をつぶさに観察していた佐竹には、数多の唇が「騙されてなんか、ない」と象るのが分かった。
「そうか? お前が気付いていないだけで、いいように利用されてんじゃねえのか?」
佐竹は、額に嫌な汗を浮かべながらも、更に煽る。
「――――」
数多が再び、食いしばったその口を開く。呻くように、二言三言何かが呟かれる。
(――――『ドロボーが、いい気になるなよ』、か?)
「へえ、あたいが何を盗ったって?」
不意に、数多が顔を上げる。
血走った双眸がぎらつく光を帯びて佐竹を睨み付けた。もはや痙攣と言えるほど激しく震えた左手が、佐竹に向けておもむろに伸ばされる。
喉から絞り出されたその声が、音を成す。
「 返 せ 」
ぐちゃり。
耳の奥のどこかで、生々しい音がした。
それが、佐竹の想術を空間ごと握り潰した音であると気付いた時には、佐竹の視界は様変わりしていた。
赤、緋、朱、紅。
まだらに蠢き、水気を帯びて流動する、粘性の赤色。どす黒く、鮮やかに、空間を埋め尽くすように入り乱れて滴り流れるその様は、おどろおどろしく佐竹の精神を蝕んでいく。先程までの廃倉庫やバイクのエンジン音は跡形も無い。ただ赤い空間が広がり、腹底に響くような不快な雑音が鳴り続けている。
「オマエ、盗ったんだろ、オレの傀朧」
「……だとしたら?」
(まずいな)
佐竹の足元には赤い液体が満ちている。恐らく血液のイデア、血倉数多の持つ血液の概念そのものが空間を構成している。数多は、どうやったかは分からないが、佐竹の傀域を乗っ取ったのだ。それが佐竹の脚に、直に触れている。
(こりゃ、下手したら喰われるな)
想極を発動させて傀朧が枯渇している佐竹は、言わば空の器だ。悪意を注ぎ込まれた時に、それを中和する中身が無い。
想術に対抗する術を持たないどころか、想術に侵されやすい状態。
「やっぱオマエ、悪い奴だ」
数多が立ち上がる。佐竹を睨み付けた赤い瞳の奥には、憎悪が燃えていた。
「ヒーローは、負けたら意味無いんだ。悪い奴には、負けない。たとえ、死んでも――――殺しても」
数多がふらつきながらも立ち上がる。いつの間にか彼の身体の震えは止まっていた。一歩、また一歩と、膝まである深い血だまりを掻き分けて佐竹に歩み寄る。
「女の顔は、殴らないって、決めてんだ」
焦点の定まらない目で、それでも佐竹を捉えながら、数多は佐竹の剥き出しの腹に触れた。
「っ、ぐっ……!」
腹部に焼けるような痛み。頭痛と、立ちくらみのような感覚。直感的に、『血を奪われている』と理解できた。
「後悔しろ。テッカイ、しろ。コーヤは、絶対、オレを騙したりしない。コーヤの言うことが、ホントウだ。騙されてる、と、したら、オマエらだ、想術師」
コーヤ。先程も出てきた名前だ。
(この業界で〈コーヤ〉って言われりゃあ、浄霊院紅夜が真っ先に出てくるけど……流石に違えか。そんなビッグネームが本名使ってボロ出すなんつう粗相はしねえだろうし)
少なくとも重要人物の手掛かりだ。佐竹は再びその名前を脳裏に刻み込む。
「そうかい、そりゃ悪かったな、チビ助。ところで、あたいが騙されてるって、何にだ?」
「クロマク」
「黒幕、か。名前は?」
「知らない。危ないからって、教えて貰えねーんだ。コーヤはいつも、危ねーことは一人でやろうとする。正しくて、優しくて、強い。正義のヒーローだ」
数多の状態は、時間の経過と共に回復しているように見えた。青ざめていた頬は怒りで上気し、その目には生気が戻って一層ぎらついている。
「最後に言えよ。名前と、ここで何してたか」
「……いち、はら、えつこ」
「イチハラか。なんでここにいたの」
(簡単に信じるなー、このチビ助)
適当に日本昔話のナレーターの名前を名乗った佐竹は、小さく笑う。
土壇場でこそ余裕を持つべきだ。
死地であれば尚更、笑うべきだ。
「ちょいと、芝刈りに、ね」
「シバカリ? シバカリって、何だ?」
「なん、だと、思う?」
「わかんねえよ。さっさと言わねえと、時間切れになるぞ」
(……確かに、いよいよマズいな)
頭痛が激しさを増してくる。頭が回らない。
「……最期の言葉くらい聞いてやるよ、想術師。オマエ、悪い奴は悪い奴だけど、騙されてるならアレがあるだろ。ジョージョーシャクリョー」
表情も声色も変えず、数多はそう言った。
「よく、知ってるじゃん」
「コーヤが言ってた。根っからの悪人はそうそう居ないって」
「でも、殺すん、だろ?」
「殺す」
間髪入れず、即答が返ってくる。佐竹は青ざめた顔で笑った。
「お前、仮に、お前が正義だったと、してさ。そんな、殺す殺す言ってる奴が、感謝、しては、貰えねえよ? ヒーローみたいには、きっと、いかねえ」
「……別に、知らねえ奴に何言われても、オレは良いし」
「コーヤ、って奴か?」
「うん。オレは、コーヤが嬉しいのが嬉しいんだ。だから、邪魔する物は、全部オレが殺す」
無邪気に、真っ直ぐに、数多はそう口にした。佐竹に触れる手に力がこもる。
(……あたいも、ここまでかな)
佐竹は笑いながら目を閉じた。
「そうかよ、チビ助」
「いいの、最期の言葉」
「そうだな……あたいの知り合いに、会ったら、言っといてくれっか。『佐竹和音は最後まで笑ってた』ってな」
「……なんだよ、やっぱお前、特命係の奴だったんじゃん」
「まあな。驚いたか?」
「驚いた」
「素直じゃん」
佐竹はくつくつと笑った。何も出来ずに死ぬのは残念だが、最期の話し相手が子供というのは、存外悪くない。
「お前が、道を、正せ、る、こと……地獄から、祈ってんぜ」
息も絶え絶えに絞り出す。数多は無感情に「おーきなオセワだ。オレは正しい。コーヤと一緒にいるかぎり」と呟いた。
数多が佐竹を見る。佐竹はありったけの力で、笑う。
「何だよ、ホントに笑うんだな、オマエ。残りの特命係には、ちゃんと伝えてやるよ。じゃあな、サ――――」
――――つ、と、数多の鼻下を赤い筋が伝った。
「……あ?」
数多は自分の顔に触れようとしたが、それは叶わなかった。
数多の身体が地面に崩れる。同時に、むせ返るほど濃い傀朧で満たされた傀域が、徐徐に霧散し始めた。
(……時間切れか。運が悪かったな、チビ助。この賭けは、あたいの勝ちだ)
地面に倒れ込みながら、佐竹は遠のきかける意識の中でぼんやりとそう思った。
(あたいは特撮モノの登場人物じゃねえから教えてやらなかったけどよ。急に傀域なんか展開すりゃあ、そのうち身体にガタが来るに決まってんだ)
佐竹は、それを見越して会話を引き延ばしていたのだ。とはいえ、分の悪い賭けだ。生き残れると思っていなかった佐竹は、深く嘆息した。
(たす、かった――――)
「お、市村! アタリだ、出てきたぞ!」
傀域が完全に消え、すっかり暗くなった廃墟跡に、人の声がこだまする。
「そんなに声を張らなくても、聞こえていますし見えています。2名とも消耗は激しいですが外傷はほとんどありませんね。死んではいません」
「残念だな!」
「ワタナベさんの感想は聞いていません。女性は特命係の佐竹和音、男子は例の連続殺人犯と見られます」
声の主、スーツ姿の男女二人組は、佐竹と数多の間に立ちふさがった。佐竹には後ろ姿しか見えないが、荒廃した神社跡には不相応な、ビジネスパーソン然とした身綺麗な二人組だ。
「男子というより男児って感じだけどな」
「繰り返します。感想は慎んで下さい。彼は16歳です、相応しくありません」
「市村のそういう無駄な厳しさ、嫌いじゃないぜ! それじゃ、市村は佐竹氏の処置を。男子は俺に任せろ、すみやかに拘束する」
「承知しました」
市村と呼ばれた女性が振り向き、佐竹を覗き込むようにしゃがんだ。声の印象通り、いかにも厳格そうな銀縁眼鏡を掛けて黒髪をひっつめた、スーツの似合う美しい女性だった。
「それでは、佐竹和音さん。貴方はこの後すぐに入眠し、入眠時点から30分後に快復した状態で目を覚まします」
市村の背後で、何やら言い争う声と物音がする。ワタナベと呼ばれた男とも数多とも別の、男性の声が交じっている。何が起こっているのか、佐竹がそれを聞き取るより先に、市村は佐竹の耳元へ唇を寄せて囁いた。
「それでは、一分一秒の遅れもありませぬよう」
佐竹の意識は、そこで途絶えた。