うねり ⑨くねくね
時刻不明 傀域
パンッ――――。
星の無い黒塗りの空に、乾いた発砲音が吸い込まれていく。
少女の荒い呼吸音の中、薬莢が道に跳ねる硬質な金属音が微かに響いた。地面に転がる空薬莢を踏み、白い影の群れが土地を蝕むように迫ってくる。
うごめくくねくねを尻目に、浄霊院咲夜はもつれる足を引きずりながら走っていた。
「はあ……はあ……っ」
額を、背を、体中を、異常な量の汗が濡らしているのが分かる。咲夜は『識見』を外して目元の汗を拭い、視界を確保する。
傀域にいるくねくねは、背後に迫る群れだけではない。360度、地平線を埋めるようにぼんやりと青白い光が見えている。
四方を囲まれているのだ。
今のところ、咲夜を追うくねくねは背後の群れだけだ。左右や前方に見える他のくねくねとはまだ距離があるが、それも徐々にこちらへ近付いてきている。
いずれは完全に包囲され、身動きが取れなくなるだろう。それまでは体力と銃弾を温存しながら、ひたすら逃げるしか無い。
それが咲夜の見立てだった。
(それしかない、と思うけど……こんなに、疲れるものなの……?)
逃げる内に増す倦怠感と、由来のわからない恐怖や不安。外側から無理矢理もたらされる心の動きと身体のだるさに蓋をして、咲夜はできうる限り客観的に分析する。
(精神を蝕むくねくねの性質が、身体にも強い影響を与えている?)
とある事情を経て、咲夜の身体にはほとんど傀朧が巡っていない。しかし、生来の咲夜の体質は、傀朧との親和性が非常に高いのだ。傀域のような均一で高濃度の傀朧で満たされた場所では、その概念に体調が引きずられる。
(とはいえ、私は訓練してるから普通の人より慣れてる。まだ耐えられる。けど、もし一般の人がこんな場所に入ったら……ひとたまりもないだろうな)
失踪した地域住民は、この傀域に迷い込み、群れに取り込まれてしまったのだろう。咲夜も気を緩めれば取り込まれて、今まさに咲夜自身を追い立てるくねくねそのものに――――。
(いけない、余計なことは考えちゃ駄目だ)
悪い想像をしている場合では無い。そんな想像が実現しないためにも、心を平静に保たなければならない。
(大丈夫、助けは呼んだし、風牙なら絶対に助けに来てくれる。アサミさんも、無策で私を送り出したわけじゃないみたいだし)
律儀に約束を守った呼び名を使い、外で会った不思議な女性を思い出す。
傀域に迷い込んですぐ、咲夜は自分の武器の整理を行った。
余裕がある内にポーチ内の傀具やマガジンを確認し、配置を整える。戦闘に不向きな咲夜が少しでも勝率を上げるために、欠かさず行っているルーティーンだ。
その中で、違和感に気付く。
マガジンが七本あるのだ。
咲夜が用意したスペアマガジンは五本。
それぞれに、安物の弾丸型傀具が十五発分ずつ込められている。それらのマガジンがぼんやりとした薄荷色を帯びる中、『識見』は、増えたマガジン二本の輪郭を強い桃色の光として捉えていた。
既に銃型傀具『無痛』に納められている特殊な弾丸――――『傀異殺し』の色と酷似している。
高価すぎて六発分しか用意できなかったそれが、マガジンまるごと二本、弾数にして三十発も増えたのだ。
(いくらしたのか考えたくもないわ! アサミさんって何者なの!? ありがたいけど!)
咲夜が用意した分と足し合わせ、壺に発砲した分を引けば、三十五発。今のところ全く使わず温存できている。
(使い切らずに帰れたら、貰えないか交渉してみようかな。迷惑料だと思えば、そんなに高くないんじゃ無いかしら)
アサミは笑顔を絶やさなかった。冗談も面白かったし、気さくで話しやすかった。
しかし咲夜は、彼女と喋っていて情のようなものを一切感じなかった。こちらを人と思っていないような気さえした。
事実アサミは、情報を持っている素振りばかりして、肝心なことをほとんど教えてくれなかった。結果を見れば、餌をちらつかせてこちらを誘導しただけとも言える。
(いいように利用されてる感じがして、すごく、嫌)
嫌悪感にすがめた咲夜の目に、ふと違和感が過ぎる。
咲夜は目を凝らし、周囲を慎重に見渡した。
(――――! 嘘、なんで今まで気付かなかったの!?)
咲夜は、くねくねが居ない方向へ逃げてきた。全方位をくねくねに囲まれた傀域で、全てのくねくねから最も遠い場所。この空間の中心。
その中央に、黒い塔が立っていた。
星の無い空に溶け込むような、禍々しく淀んだ黒。視認性の低さだけでは説明が出来ないような、無視できない大きさの巨塔だ。更に目を凝らせば、波打つ太い腕が生えているのがわかる。
そびえ立つ塔のように見えたそれは、黒いくねくねだった。
――――目が合った。
前も後ろも分からないような漆黒のそれを見て、咲夜はそう直感した。
(――――憎い、恨めしい妬ましい理不尽だ嫌だ帰して――――救済を)
途端に、ぐちゃぐちゃにシャッフルされた悲痛な感情が咲夜の脳内を塗りつぶす。その強烈さに一瞬意識が遠のき、よろめき、倒れる寸前で意識を踏み留めた咲夜は慌てて視線を逸らした。
(違う、私のじゃない……!)
黒いくねくねを視野から外せば、脳内を騒がせていた悲痛な声はすぐに遠ざかった。地面を睨み付けながらほぞを噛む。
(ジリ貧なんてものじゃ無いじゃない……!)
くねくねの群れから逃げ続けるならば、必然、黒いくねくねに向かって進むしかない。先程見えた腕の長さを鑑みれば、あと少しで間合いに入ってしまう。
白いくねくねの相手をするだけなら対処のしようがある。しかし、それと同時にあの巨躯が腕を振り回したら――――。
(ただでさえ視認しづらい黒色、見つめ続ければ発狂する呪い付き……!)
足掻くような祈るような気持ちで、咲夜は銃のマガジンを入れ替える。桃色に光る『傀異殺し』のマガジン。使用済みのマガジンを仕舞い、代わりに濃紫色の液体が満たされたボトルを取り出す。
「……良いわ、いずれこうなる予定だったのよ」
咲夜は小さく呟き、引きずるように動かし続けていた足を止めた。背後から迫っていたくねくねの群れが咲夜を飲み込む前に、咲夜はボトルを開けて中身を周囲に振りまいた。
「――――!」
くねくね達が耳障りな音を発して動きを止める。
咲夜が振りまいたのは、“拒絶”の概念を凝縮した液状の傀具『モノ除け』。所有者が持つ“拒絶”の感情を増幅して特定の対象を遠ざける、忌避剤のようなものだ。
この『モノ除け』は咲夜用の特別製で、“傀異を退ける”強い概念があらかじめ仕込まれている。
傀朧に影響されやすい咲夜の体質では、傀異との近接戦闘はリスクが高すぎる。咲夜のポーチには、傀異を遠ざける類いの傀具が詰められるだけ詰められていた。
(広めに撒いたから、持って三分かしら)
咲夜はその場にしゃがみ込み、護符型の傀具『拡散符』を足下に設置して『傀異殺し』で打ち抜いた。身を低くしたまま、自分から半径3メートルほど離れた地面へ、等間隔に六発の『傀異殺し』をぐるりと打ち込む。
地面に桃色の細い光が走り、咲夜を中心に幾何学的な紋様と六芒星を描き出す。それらの頂点から薄桃色の光を帯びた壁が立ち上がり、半球の結界が現れた。
(こんな高価な傀具と組み合わせるのは初めてだから持続時間は読めないけど、これで暫くは安全なはず――――)
仮設の安全地帯に小さく息を吐くのも束の間、咲夜の背後から地鳴りが響いた。うなり声にも似たその音は、地面を震わせながら絶え間なく響いている。
嫌な予感が咲夜の心音を逸らせる。慌てて振り向いた咲夜を待っていたのは、絶望的な光景だった。
黒い塔が、動いている。
先程まで微動だにしなかった黒いくねくねが、四つの触腕をうねらせて身じろぎしている。その巨大さから遠近感が測りづらいが、咲夜は先程と同じ直感を得ていた。
――――見られている。
その巨体は、咲夜に向かって動いている。
黒いくねくねを目視してしまった咲夜を、耳鳴りと怨嗟の声が襲う。目を閉じてうずくまった咲夜の耳を穿つように、強い打撃音が響いた。金属を重機で殴りつけるような音と、身体を痺れさせる衝撃波。
あの触腕が結界を殴りつけているのだ。
元々、黒いくねくねに気付いたのは触腕の間合いギリギリの位置だった。少しの身じろぎで簡単に届いてしまってもおかしくない。
「……冗談じゃないわ」
思わずぽつりと漏らし、咲夜は体勢を整えてきっと頭上を睨み付けた。
頭に流れ込む激情に耐えながら、敵と結界の状態を一瞬のうちに確認する。
太く巨大な触腕は四本。そのうち二本は蠢きながら脚のようにくねくねの身体を支えており、残りの二本が咲夜に向けられている。一本は鞭のようにしなってこちらに迫っており、恐らく先程結界を殴りつけたもう一本の腕が遠ざかっている。振りかぶる動作は人間に近い。
結界の損傷は、咲夜の想像より軽かった。
(……ヒビは浅いけど、網の目状で範囲が広い)
咲夜はくねくねから視線を切り、『拡散符』を更に二枚地面に叩きつけて『傀異殺し』で固定した。銃声の後、瞬く間に二重の結界が展開される。
(結界だけで二十一発も使っちゃった。『傀異殺し』の残弾数は十四発……)
衝撃。
くねくねの腕が結界と衝突する。その音を頼りに、咲夜は目を固く閉じたまま『傀異殺し』を発砲した。
弾丸を受けたくねくねが、悲鳴めいた轟音を発する。
(あと十三発)
今の咲夜は、敵を目視できない。その状態で戦力を削るなら、攻撃された瞬間を狙うしか無い。目を閉じていても、衝撃の大きさと間隔でどちらの腕が攻撃してきたか判断することはできる。
(右腕一本、落とせれば良い方かな)
片膝を抱え込むように構え、咲夜は感覚を研ぎ澄ませる。
衝撃。衝撃。発砲。衝撃。発砲。衝撃。衝撃。発砲――――。
衝撃音と残弾数だけを数えながら、ひたすら発砲を繰り返す。受けた打撃が二桁を超えた頃には、結界は残り一枚になっていた。
(これじゃ、弾切れより先に結界がやられる――――!)
打ち込んだ『傀異殺し』は確実に効いている。衝撃の間隔を読まずとも、打撃の強さで左右の触腕が見分けられる程度には弱らせた。無効化は目前だろう。
しかし、それも結界の延命処置の一環だ。最終的に結界が破られてしまえば、咲夜に活路は無い。
(次の手を考えないと。助けが来るまで持ちこたえる方法を――――)
ふと、咲夜の脳裏を嫌な想像が過ぎる。
傀域と現実世界では、時間の流れが異なることが多い。もしもこの傀域と現実世界の時間が、途方も無く離れていたら――――。
「違う!」
衝撃。
悪い妄想を振り払うように叫びながら、くねくねの触腕に向けて打撃音を頼りに発砲する。
(違うでしょ、今考えるべきはそんなことじゃないのに……精神が摩耗してきてるんだ)
咲夜は、自分の頭の回転が鈍くなっていることを自覚して顔を歪める。
手持ちの傀具はその場しのぎに特化した物ばかりで、戦闘特化の物は手元の『無痛』と残り六発の『傀異殺し』くらいだ。この苦境を切り抜ける突破力は無い。
朦朧とする咲夜の頭を殴りつけるように、再び衝撃音が響く。間髪入れずにもう一撃、更に一撃。明らかに先程までより間隔が短く、全ての打撃音が重い。
咲夜が時間を掛けて力を削いだ右腕からの攻撃は、それらの打撃に含まれていない。
(――――ああ、終わりだ)
咲夜は、こちらへ向かって移動していたくねくねが脚の間合いまで近付いてしまったことを悟った。
これまで咲夜を攻撃していたのが腕だとしたら、残りの二本は脚だ。地面を蠢いてなお余る長細い触手は、蠕動しながら咲夜の張った結界を何度も殴打する。
(ごめん、風牙。これ以上は待てそうにないや)
咲夜はみるみるひび割れていく結界を睨み付け、『識見』を乱暴に外してポーチへ仕舞った。途端、咲夜の視界は真っ黒に塗りつぶされる。歯を食いしばり、顔を上げ、悪あがきと知りながら銃撃を続ける。空間に満たされた傀朧を伝って、結界の砕ける音と銃声だけが咲夜に届く。
一際大きな破砕音が響く。結界が完全に砕けたことを悟って、咲夜は虚空を睨み続けていた目を閉じた。
――――ぶつり。
「良かった、間に合った」
死を覚悟した咲夜に、予想したような衝撃や痛みが襲いかかることは無かった。
代わりに咲夜が聞いたのは、太い何かが圧し切られる鈍い音と、軽やかな着地音だった。
「大丈夫、お嬢さん?」
透き通った少年の声に、咲夜は目を開ける。
真っ黒な空間の中、咲夜を庇うように、見知らぬ小柄な少年が立っていた。