うねり ④衝突
7月31日 15:04 道祖神前
「……なんだ、追って来ねえのか」
コバヤシは周囲を見渡し、人影が無い事を確認して呟いた。開けた田園のそこかしこに、傀朧の柱が青白く立ち上ってたなびいている。
「そろそろですね」
コバヤシは目を細め、満足そうに薄ら笑うと、道祖神の裏側にしゃがみ込んだ。座った先、雑草の中に置かれた黒光りする壺に、コバヤシの顔が歪んで映る。
コバヤシはにやついたまま、懐から小箱を取り出した。黒い指輪ケースのような外観のそれを、掌の中で転がす。コバヤシの笑みが深まる
壺の歪んだ鏡面の隅に、別の人影が映る。コバヤシは箱を仕舞って立ち上がった。
「なーにニヤついてんすか、コバヤシサン」
「にやつきもしますよ。ちょっとしたトラブルはありましたが、全て順調です」
コバヤシの振り向いた先には、派手な装いの青年が立っていた。
ダボついた虎柄のジャージに、金色の刺繍の入ったスウェットズボン。後ろ被りした黒いキャップからはヘアピンと金髪が覗き、左耳に夥しい数のピアスを付けている。ストリート系に統一されたカジュアルな格好の中で、両手にはめた農作業用の軍手だけが浮いていた。
「見張りご苦労様、ビャク。何か異変は?」
「今んとこナシ」
「そうですか」
素っ気なく返事をするも、コバヤシの表情は依然として明るいままだ。
「いやぁ、にしても、この壺は本当に素晴らしい。傀朧の増幅装置として賜ったものではありますが、これほどの効力を持っているとは思いませんでした。これなら傀玉の精製もじきに終わるでしょう。はぁ……流石あのお方だ……」
「おーい、コバヤシサン」
明るいを超えて恍惚とし出したコバヤシに、ビャクと呼ばれた男がジト目で声を掛ける。
「嬉しそーなのは良いっすけど、忘れないでくださいよ?」
我に返ったコバヤシは、上機嫌さを隠しもせずに大きく頷いた。
「もちろんです。明日の今頃には、君の口座に1000万円が振り込まれていることでしょう。どうぞ、お楽しみに」
「まいどありぃ、そうでなくっちゃな!」
ビャクはチェシャ猫のような笑みを浮かべた後「あ、でも」と続けた。
「計画より急いだ方が良いかもしれねっすね。さっき見たんですよ、『小夜嵐』」
「……は?」
小夜嵐。想術師協会の問題児ふたり、功刀風牙と浄霊院咲夜のツーマンセルに付いた通り名だ。暴力的なまでの能力を持つ想術師で、言葉通り嵐のように戦況をかき乱すというのがもっぱらの噂である。
「なぜそいつ等がここに?」
「さあ~? オレもたまたま見かけただけっすから」
「そうですか。面倒なことになりましたね……特命係と潰し合ってくれると良いんですが」
「いや、それは無いんじゃないっすか? 特命係の女と仲良く歩いてましたし」
「……最悪だな」
基本的に、警察などの公安組織と想術師協会の仲は険悪だ。上手く行けば漁夫の利を狙える、というコバヤシの淡い期待はすぐに砕かれた。
「ま、本格的に見つかるまでに逃げるってモンじゃねっすか?」
「そうですね。とりあえず、もう少し安全な場所に移動しま――――」
破裂音。
コバヤシが狙撃された、と脳が理解する前に、ビャクは茂みへ伏せた。倒れたコバヤシの身体を引き寄せて盾にし、周囲を哨戒する。近くに敵の気配は無い。
ビャクは伏せたまま体表に防御の傀朧を巡らせ、望遠の想術を使った。OKサインの形にした右手を目にあてがい、攻撃が飛んできた方向をぐるりと索敵する。
畦道の中、堂々と立つそれを発見するのは簡単だった。
その人物は腕をビャクに向けて真っ直ぐ伸ばし、小石を親指で弾く直前の構えを取っていた。ビャクは頬を引きつらせる。先程の狙撃の正体は、指弾で射出された小石だったのだ。
(ただの指弾かよ、この距離で)
その人物が立つ畦道とビャクの現在地点は、ゆうに2km以上離れていた。一般的なライフルの射程範囲を超える距離で、望遠術も使わず、コバヤシが気絶する威力の狙撃を的確に当ててきたのだ。
たなびく紺の長髪にサマーコート、不適に笑う口元と、眼光鋭い青の瞳――――水戸角アイサは、その口をゆっくり開く。唇が象る言葉を、ビャクは注意深く読んだ。
――――灯台もと暗しだ、愚か者。
「どこ見てんの」
視界いっぱいに広がった赤紫の瞳に、ビャクは慌てて飛び退く。
そこに居たのは、銀髪をなびかせる小柄な少年――――銀滝白だった。
「遅いよ」
ビャクが何か口にするより早く、白の拳がその頬を捉え――――殴りつける寸前で、ぴたりと停止した。
「お前こそ、どこ見てんの?」
静止した白を昏い瞳で睨め付け、ビャクは嘲るように笑む。
白の身体は動かない。否、動けない。焦点の合わない目は見開かれ、額に脂汗が浮かぶ。
――――憎悪、困惑、歓喜、求道、悲哀、幸福、信仰、喪失。
白の脳内を、膨大な感情と思考が支配する。人間何人分かの人生をそのまま流し込まれたような情報量にさいなまれ、身動きが取れなくなる。
「ほら、殴ってみろ、よっ!」
「がっ!」
白の鳩尾に膝が打ち込まれる。痛みで我に返った白は、飛び退って体勢を立て直した。
改めてビャクを視認した白の背に、冷たい怖気が走る。
ビャクの身体から立ち上る傀朧は練度の高いものだった。それだけではない。濃く、深く、おぞましい。どんな感情を核とした傀朧なのか、底が知れない。
「おーいコバヤシサーン、いつまで寝てるっすかー?」
ビャクは、能面のような表情にそぐわない気の抜けた声で呼びかけた。
「オレのワイルド・コイン、使ったっしょ? この程度で死んじゃいねーっすよね?」
「……バラさないでくださいよ、ビャク」
ビャクの背後で、コバヤシの痩躯がゆっくりと起き上がる。その身体は、ビャクが纏うものと同質の傀朧を帯びていた。
――――パパパパパパパンッ!
その全身に、アイサの指弾が連続命中する。コバヤシは衝撃でよろめくが、砕けた小石をなんでもない風に払いながら薄ら笑った。その目は憎々しげに白を睨んでいる。
「もう少し焦らしてから、不意を突いて痛めつけてやりたかったんですけどねぇ。さっき僕がやられたみたいに、ねぇ?」
コバヤシの細い四肢が順々に、そして急激に隆起する。
「今度こそひねり潰してあげましょう――――小便垂れて命乞いしろやクソガキ」
骨と肉が軋む音と共に、コバヤシの姿は筋骨隆々の巨漢へと変化した。白は額の汗を拭い、頬を引きつらせる。
「……うわ、ガリガリがブクブクになってんじゃん」
虚勢を張った白の呟きが、コバヤシの神経を逆なでする。
「よっぽど死にてぇようだな叶えてやるよ」
地を這うような声で言うコバヤシに、ビャクは正反対の気楽な口調で声をかけた。
「おっ、コバヤシサンったら殺る気満々じゃないっすかー。じゃ、このカワイ子ちゃんはコバヤシさんにお任せするっす。オレは壺連れて避難するんで」
言い終えるが早いか、ビャクは弾かれたように走り出す。追おうとする白をコバヤシの拳が阻んだ。間一髪で避けた白を、筋肉で膨れ上がった両腕が絶え間なく襲う。
「――――っ!」
殴打の雨を回避し、時に受け、いなす。
(速い、し、重い――――!)
分厚く張った身体強化の想術でダメージはほとんど入らないが、白はその場に釘付けだ。
「何だよ、受けるだけかぁ? いつまで持つんだろうなぁ!」
喜色満面のコバヤシに、白は思わず舌打ちした。視界の隅ではビャクが壺を抱え、今にも立ち去ろうとしている。
「どこ見てんだよぉ!」
よそ見に激昂したコバヤシの猛攻は、更に激しさを増す。打撃に押されながらもその場に踏みとどまり、白は力の限り叫んだ。
「アイサ!」
銃声。
白の叫び声と同時にこだました二発分の狙撃音は、ビャクの腕から壺を取り落とさせた。的確に両肩の関節を狙い打ったのは、指弾では無い。
「傀具か……!」
ビャクの頬を脂汗が伝う。だらりと垂れた両腕には薄桃色の紋様が浮かび、感覚が失われている。
「っは、今回は完敗かな」
歪んだ口端を持ち上げ、ビャクは壺を持たないまま近くの森へ姿を消した。
「お仲間はどうやら来ないみたいだぜ!? 本当に日和っちまったかぁ!?」
自分の仲間が逃げたことにも気付かず、コバヤシは拳を振い続ける。顔面に飛んできた拳殴をのけぞって躱し、そのまま後方転回で距離を取った白は小さく呼吸を整え、追撃するコバヤシに向けて叫んだ。
「おいおい、日和ってるのはそっちだろ! そんなんじゃいつまで経ってもおれは潰せないぞ、どうする筋肉ダルマ!」
「クッ――――ソ、ガキがぁ――――!!」
咆哮と共にコバヤシの拳が白に打ち込まれる。白は掌底でそれを右にいなし、脇下から背後に回る。コバヤシは振り向きざまに裏拳で白の頭を殴打し、
白は、それを片手で受け止めた。
「……は?」
「時間切れ、じゃない?」
コバヤシの身体は、いつの間にか萎んでいた。
呆気にとられているコバヤシの腕を思い切り引っ張る。コバヤシの姿勢はたやすく崩れ、後頭部に入った肘打ちであっさりと気を失った。
「……七分で切れると思ったら、三秒余分に動いてたんだけど」
アイサが居るであろう方角を向いてぼやく。
コバヤシが起き上がった直後、こめかみに打ち込まれた指弾は七発だった。いくらアイサでも指弾は指弾だ。指先に力を込めて打ち出す仕組み上、無理に何発も打てば威力が落ちるのは必至である。
攻撃としては無意味な七発。
ならば、白へのメッセージと取るのが妥当だった。
白はこの七分間、時間制限を意識しながら、相手には時間を意識させないよう野次を飛ばし続けていた。
「ほんと、雑なんだよアイサは……」
『いつものことじゃないですか』
ポケットに入れたスマホ越しに、馬崎が合いの手を入れる。
「そうだけど」
『白君もちゃんと察せていたでしょう?』
「そうだけどさぁ……」
ぶつぶつ言いながら、白はコバヤシのジャケットを脱がせる。伸びきったシャツとズボンを半分脱がせて四肢を拘束し、ビャクが置いていった壺に近付く。
アイサからの事前情報では、壺には結界が張られていたはずだ。ビャクが持ち去る際に解除したのだろう。無造作に転がった壺の周囲には、傀朧の気配は無かった。
「壺の傀具を確認。回収する」
『安全性は確認できましたか?』
「大丈夫そう」
白の指先が壺に触れる。
――――憎悪、怨念、困惑、陰謀、悲哀、慟哭、信仰、固執、激痛、信仰、望郷、喪失、信仰、絶望、信仰、信仰、信仰、信仰。
「……う、あ」
『白君? どうしました?』
先程ビャクに視られた時と同じ感覚が、それ以上の暴力性をもって白の脳を呵む。
土地に渦巻く、膨大な怨嗟の声。
白の呼吸が浅くなり、足下がふらつく。吐き気に口元を押さえるが、漏れ出るのは喘鳴だけだった。喉が渇く。
喉が渇く。
意識が混濁し、思考が混ざる。
(――――あ、れ?)
白はいつの間にか、その場に倒れていた。
『白君? 大丈夫ですか、返事をしなさい! 白!』
馬崎の叫ぶ声に混じって、遠く、少女の声がする。
『助けて、――――!』
(だれか、呼んでる……行か、ない、と)
白の意識は、そこで途切れる。