田共高校の幽霊生徒 ①
――――キーンコーンカーンコーン。
ホームルーム15分前を告げるチャイムを聞きながら、鹿島彩は大きく伸びをした。着替えたばかりにも拘わらず汗ばんでいる白シャツが浮き、わずかに孕んだ朝の空気が彼女の肌を冷やす。
この時間帯、部室棟から教室までの廊下は、消臭スプレーの匂いと朝練上がりの生徒でごった返る。うかうかしていると間に合わない。彩は自分のロッカーを締め、スポーツバッグを肩に掛けて部室棟を後にした。
彩の通う『田共大学付属高等学校』は、文武両道を掲げた進学校である――――といっても、偏差値は中の上くらいの平凡なもので、“なんちゃって進学校”などと揶揄されることも多い。
1年2組、彩のクラスには、とりわけ部活熱心な生徒が多い。彩も漏れなくその一人で、先程まで陸上部の朝練に勤しんでいた。
「彩」
「っ!?」
突然、耳元で声がする。
驚いて仰け反る彩の前に、声の主が笑いながら回り込んだ。
「あはは! 彩、驚き過ぎじゃない? さっきから呼んでたんだけど」
「ちょ、暑いって理子! 離れなよ、今汗臭いよ私」
「臭くないですぅ〜、シトラス系の良い匂いがしますぅ〜」
汗など気にせずくっついて笑うのは、幼馴染の住吉理子だ。
ふっくらした頬と緩やかな巻き毛、柔和な笑み。ゆるふわな雰囲気とは裏腹にイタズラ好きの彼女は、彩を背後から驚かせるのが日課だった。
慣れているはずなのにな、と、思わず苦笑が漏れる。
「彩、なんか最近ぼーっとしてない? 大丈夫?」
「気のせいじゃない?」
「えー?」
理子の心配そうな眼差しから逃げるように顔を逸らす。
注意散漫な自覚はあった。
原因の心当たりも、大いにあった。
――――月夜に照らされた春色の少年。化け物の巨躯。不思議な力。黒いコートを翻して去っていった、ミステリアスな女性。
あれから2週間ほど経つが、いまだに鮮烈に、明瞭に、脳裏に焼き付いて離れない。
下手をしたら死んでいた。自分だけじゃない、大事な友人達を失うところだった。
なのに、どうしてこうも惹かれてしまうのだろう。
もしもあの日に戻れたとして、私は、あの廃墟へ行くことを止められない。
――――もっと知りたい。
日常生活にまで深く浸食してくるそんな感情を振り払おうと、幾度となく試みた。その度にあの日の事を思い出し、良くないと自分に言い聞かせ続け、ついには諦めた。
最初から、忘れられるはずなんか無かった。
「おーい、彩〜?」
理子の呼び掛けで我にかえる。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「やっぱ気のせいじゃないじゃん。なんかあったら相談してよ?」
「ありがと、なんかあったらね」
理子の柔らかな髪を軽く撫で、いい加減暑いので無理矢理体を引き剥がす。
「ああ〜いけず〜〜……あ」
「何?」
「そういえば、私の方から“なんかあった”んだった」
理子はごそごそとカバンを漁り、取り出したものを彩の鼻先へ突き付けた。
「じゃ〜ん! 夏休みに行きたいとこマップ〜!」
「近い近い、何にも見えない」
反射的に受け取った紙を見て硬直する。
それは、近場の心霊スポットをまとめたマップだった。
「り〜こぉ〜?」
「……ダメデスカネ?」
じっとりした視線を向けた彩の顔色を伺う理子は、イタズラが見つかった子供の様だった。申し訳なさそうなフリをして、保護者が許すと確信している。
「……もう」
彩は小さく吹き出した。
あれだけ痛い目を見たのに、彼女はこんなにも強かだ。
「駄目に決まってるでしょ」
「やっぱりダメか~。今度は危なくなさそうなとこ選んだんだけど」
「この間のアレ、もう忘れたの? 反省しなさい」
「はぁ~い……」
あの夜の一件は、廃ビルの崩落事故ということになっている。全員軽い怪我で済んだが、肝試し目当てで廃墟に侵入したことについては、普通の警察関係者や生活指導の先生にたっぷりと絞られた。
真相として、あの場の全員に命の危険が迫っていたと知っているのは、彩ひとりだ。
――――自分が危険に飛び込むことに躊躇いは無い。
――――しかし、もう二度と、この憎みきれない親友や愛すべき馬鹿共を危険に晒しはしない。
彩は、固くそう誓っていた。
「しょげないの、夏休みにできる楽しいことは肝試しだけじゃ無いでしょ?」
「そうだぜ相棒!」
頭上から声が掛かる。二人して顔を上げると、階段のすぐ先にある踊場から、前回の肝試しで旗振り役となったギャルとリーダー――――もとい、姫野樹里と岡田毅のカップルが軽く手を振っていた。
「はよ、二人とも」
「おはよう」
「おはよ~」
気怠げに笑う梨理に挨拶を返し、合流する。毅は、元気付ける様に理子の背を軽く叩いた。
脳天気な理子と毅は、このグループのトラブルメーカーである。気軽に『相棒』などと呼び合うものだから最初はヒヤヒヤしたが、彼女である樹里が気にしていない様子なので今では口も出さず傍観している。
「夏は短く、そして暑い! やることっつったら他にあるだろ!」
「……海とか?」
「ご名答! さすが相棒!」
理子の髪をわしゃわしゃとかき混ぜる毅に、樹里は溜息を吐いた。
「てか、ウチの水着見たいだけっしょ?」
「そりゃまあ、絶対可愛いし? 見ないわけにいかないだろ」
「よそ見したら絶許だかんね?」
「ここの二人は別口だろ?」
「そぉだけどさぁ……」
呆れ顔の女子三人に、毅ははてなマークを飛ばす。人好きする性格の毅は、樹里曰く「誰にでも尻尾振る犬」だ。勘違いさせて泣かせた女は数知れない。
「マジでよそ見したら絶許だから」
「わかってるよ樹里。ほんと俺のこと好きな!」
まだ見ぬ初心な女子を守るために言っているとはつゆ知らず、毅は上機嫌である。
「我が彼氏ながら、幸せな奴……」
「ほんとだね~」
理子も同意し、けらけら笑っている。
楽しそうな理子に安堵すると同時に、彩は異変に気付いた。
「ちょっと」
「ん?」
「あれ」
理子に目配せし、一年二組の教室前廊下を示す。
「うわ、めっちゃ人溜まってんじゃん」
うげ、と樹里が顔をしかめた。教室の窓に人が集っている。上履きの色で、一年生の中にちらほらと二・三年生も混ざっているのが分かった。一年生の教室は最上階。本来、上級生は滅多に来ない。
「何事……?」
「さあ。取り敢えず死ぬほどジャマ」
思わず零れた彩の疑問に、樹里が苛つきを滲ませて応えた。
「あ、やっと来た!」
人混みの中から、彩のグループのインテリ眼鏡――――明智圭が彩達に駆け寄る。
「おはよ~圭。どしたの?」
「おはよう理子。相変わらずマイペースでいいね、君は」
「それ褒めてる~?」
「褒めてる褒めてる。良いから、教室入ってみなよ。面白いのがいる」
圭に促されるまま、五人で教室に踏み入る。
「――――!」
彩の後ろの席、窓際最後列の空席に、人が座っていた。
「あそこ、入学式ブッチして、結局一回も学校来たことない奴の席だろ?」
毅が小声で彩に耳打ちするが、呆然とした彩には届かない。
うっすら紫がかった白髪。大きなヘッドホン。半袖ワイシャツの袖ぐりからすらりと伸びた、細く白い腕。
不思議な少年。
そうだった。あの時確かに、彩は「聞き覚えがある名前だ」と感じた。
「――――銀滝、白?」
「ああ、そんな名前だったかも……彩?」
呼び止める理子に構わず、彩はその席に歩み寄った。
「……あの」
「何」
窓の外を眺めていた顔が持ち上がり、目が合う。
惹き込まれる様な紫色の瞳が、驚きで見開かれる。
「――――お嬢、さん?」
見覚えのある顔に、彩は微笑みかける。
「お久しぶりです。私、一個前の席なんです。よろしく、白君」
……上手く、笑えていただろうか。
衝撃の再開……!