腫れ物にふれるひと ④
これで、一区切りです。
アイサの高らかな声に、加美山は恐る恐る顔を上げる。
薄く開けた加美山の目に、白く烟る会議室の中で蹲った化け物と、それを見下ろす特命係の二人が映った。
「……せん、ぱい……?」
絡まった糸屑のような黒い塊から、見知った女のか弱い声がする。黒一色の複眼と青白い顔を小さくもたげ、化け物────大山順子と名乗っていた後輩は、小さく微笑んだ。
「……」
その悍ましい生き物に、恐怖と困惑の眼差しを向ける。掛ける言葉が見当たらない。
────あれは、何を笑っているんだろう?
「せんぱい、せん、ぱい……!」
まるで救いを見つけたような、助けを乞うような、そんな表情で加美山へ手を伸ばす。
「ひっ……!」
思わず身を竦ませた加美山を見て、大山は不思議そうな顔をした。そのままズリズリと身体を引きずり、加美山に近付こうとする。
白とアイサは、それを黙って見下ろしていた。
「白くん……! なんで……なんで……!!」
加美山は、白の哀れむような目に気付かない。加美山の言葉が止まらないことを察した白は、目を閉じて天を仰いだ。
「……爆ぜろ」
「なんで、祓ってくれないの!?」
加美山の言葉が傀異に届く前に、白の想術が傀異の身体をバラバラに爆破した。低い破裂音の中で、傀異の目は最後まで加美山を見つめていた。
◆ ◆ ◆
加美山が次に目を開いたのは、病院のベッドの上だった。
「おはようございます、加美山さん」
ベッド脇に座った甲斐が本を閉じる。穏やかな声に応えようと上体を起こしかけるが、やんわりと手で制された。
「どうかそのままで。
一応、検査入院という形で病院のベッドを借りていますが、特命係の別棟のような場所ですから安心してください」
加美山は小さく頷いた。
横たわったまま右腕を出し、袖を捲りあげる。3ヶ月間ずっと居座り続けていた小さな虫刺され痕は、綺麗に消えていた。
「……あの。あの後、どうなったんですか」
甲斐は労るように微笑む。
「会議室でそのまま気を失ったそうです。緊張の糸が切れたんでしょう。大変な思いをされましたね」
その言葉に、昨夜の光景が脳裏をよぎる。細長い手足と翅を力無く床に垂らし、青白い顔だけをこちらに向けた化け物。
思わず小さく身震いする。
「全ては穏便に片付きました。大山順子は急な辞職扱いになり、貴方の頭や腕が痛むことももうありません。怪現象も鳴りを潜めるでしょう。
……オススメはしませんが、今回の事件について詳しいことを聞きたければ、もう少しならお話できます」
「いいえ、結構です」
加美山は今度こそ体を起こし、ベッドの上で頭を下げた。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「……良いんですか?」
何を、とは言わない甲斐の言葉に、加美山は苦笑した。
「刑事さんの口ぶりから、あまりいい話じゃ無いのはわかります。それに、考えても仕方ない事に時間を使えるほど、体力が残っていません────来週、社内コンペなんです」
◆ ◆ ◆
「最後まで仕事一直線、って感じのお嬢さんだったな」
事務所のベランダで煙草を吸いながら、ぽつりと甲斐が零した。加美山を自宅まで送り届けた帰りの一服である。
ビル群の奥に、夕焼けのしたたる様な赤が沈んでいく。もうじきに夜だ。
「そうだね。無駄の無い、美しい理念だ。私は気に入ったよ。その一点に関しては、ね」
隣で貰い煙草を吹かしながら、アイサがさらりと言う。その顔に普段の笑みは無く、美しい顔がその能面の様な表情を更に冷たく感じさせた。
「今回の件、忠勝はどう思う」
「そりゃあ、隅から隅まで変だろうよ」
ベランダの手すりに凭れかかり、先程見た書類の内容を復唱する。
「大山順子。新卒で採用された会計事務とされているが、それ以外の情報が全く出てこなかった。偽造の経歴すら無い、真っ白だ。認知を歪ませる能力を持っていたんだろうな。
君から聞いた能力の情報も含めて、明らかに『蚊』の領分を外れている」
「しかし、アレは正真正銘、蚊の傀異だったよ」
「だろうな、蚊遣りの傀具で倒せたんだから」
白を助けに入った際、アイサが使ったのは、傀具と呼ばれる特殊な道具だった。傀朧を循環させることで想術を発動でき、主に傀朧の浄化・回収、傀異討伐など、想術が必要な現場で広く用いられる。
今回使われたのは、蚊取り線香や殺虫剤の概念を強化する傀具である。オーソドックスなブタ型をした蚊遣りの形状をとり、内側に込めた傀朧を虫特効の煙として排出する。
特命係の中でも、想術師でない甲斐は傀具に造詣が深かった。傀朧を充填してさえおけば、誰でも想術を使うことができる。
今回使われた蚊遣りの傀具も、甲斐のコレクションと、傀具専門店や職人達のツテを辿って借り集めたものだ。
「助かったよ、忠勝」
「ああ、精々感謝してくれ。あの短時間で五十個揃えるのは流石に骨だった。
煙幕みたいに使ったらしいな。相変わらず規格外だよ、君は」
本来は、夏に淀みやすい『虫への嫌悪感』の特性を持った傀朧を散らすための量産型傀具である。従来の蚊取り線香程度の煙が出れば十分なので、一つ一つが排出できる煙はさほど多くない。更に言えば、長時間使用を想定している分、燃費の悪い作りをしている。
つまり、瞬時に大量の煙を排出するには、膨大な傀朧と非常に繊細な力加減を要するのだ。一歩間違えば、出力に耐え切れなくなった傀具が破裂してしまう。
「使い方も規格外なら、それでも仕留められなかったという傀異も規格外だ……蚊遣り五十個に囲まれて死なない蚊がいるか?」
蚊の概念が、それほど力を持った傀異として出現した前例は無い。馬崎のリサーチである。彼が無いというなら、九割九分九厘は無いのだろう。
「しかし、そもそも、人間社会に溶け込める傀異は限られているはずだ。蚊なんて脆弱な概念じゃあ、一山幾らの傀異には成れても、人間に擬態するなんて高度なことはできないはずだろう?」
「そうだね」
あるとするなら、と、夕焼けの名残を見つめながらアイサが続ける。
「吸血鬼のような人型をした概念との混ぜ物か、概念の解釈を強く捻じ曲げるか。今回は後者だろう」
「どちらにせよ、自然発生するような傀異じゃないな」
「……まあ、今言っても仕方の無いことさ。分かることしか分からないし、なるようにしかならない」
アイサの唇が、歌う様に「Que Será, Será」と小さく紡いだ。甲斐は黙って空を仰ぐ。すっかり暗くなってしまった空に、星が瞬き始めていた。
「……そうだ、今思い出した。加美山さんから、白君宛に預かり物をしているんだ」
携帯灰皿に吸い殻をねじ込み、アイサに差し出す。アイサはこちらに目線もくれず、遠慮無く灰皿へ吸い殻を擦った。
「今回、年端もいかないのに頑張ってくれた白君に、ほんの気持ちだとさ」
足下にあった紙袋に視線を投げた甲斐に、アイサは鼻で笑って応えた。
「今回の依頼人は、頑張っている姿を見ると無条件に応援したくなるタチらしいね。大山順子にもそうやって優しくしてあげたんだろうさ。
────麗しいことだよ、全く。その後のことも、相手がどう受け取るかも、どうやら眼中に無いらしい」
紙袋の中身は、箱入りのヘッドホンだった。黒い箱に細いセリフ体で『SEAMLESS M-100』と記されている。隙間に差し込まれた一筆箋には、『衝撃に強い種類みたいです。スペアにどうぞ。 加美山』と整った字が並んでいる。
甲斐は先程中身をチェックした為、当然それらを知っていた。
一方で、紙袋に一瞥もくれず、指一本触れていないアイサは、それでも知った風に言葉を続ける。今更驚くほどのことでもなかった。
「たかが一日だ。その中で数回言葉を交した程度の依頼人が、ずっと身に着けるものを贈ろうだなんて、差し出がましいとは思わなかったのかね。
白はああ見えて物持ちが良いんだ。物の記憶も、人の記憶も、大事に抱えてしまういい子ちゃんなのさ」
そんな子にこれは重たいよ、と呟くように言う。その声音が冷え切っていて、甲斐は失笑した。
「君は、一体いつからそんなに思いやりに溢れた人間になったんだ?」
「これは思いやりじゃないよ、忠勝。ただね、私はこう思うのさ」
アイサは相変わらず、薄闇に沈んだビルの群れを見つめている。その瞳は無垢なまでにガランドウだ。何も含まない、空っぽの表情。
「最後まで手を引いて導くことをしないのならば、最初から手をさしのべるべきでは無い」
────だから私は、最後まで手を離さない。
アイサの無機質な言葉が、甲斐にはそう聞こえた。
◆ ◆ ◆
二人が立ち去って暗くなったベランダを、向かいのビルの屋上から覗く人影があった。
「やっと見つけた」
声変わり前の少年の呟きが、歓喜と悪意を纏って暗闇へと消えていく。
「……ここが“ケイサツ”のアジトか」
フェンスを掴む指に力が込められ、スチールメッシュが軋る。目元に当てられていた双眼鏡が緩慢に降ろされ、燃えるような紅い双眸が街明かりに煌めいた。
「あの時の借り、返しに来たぜ。“ケイサツカン”!」
人影は、くつくつと楽しげな笑い声を残し、宵闇へ溶け消えた。
特命係に近づく、不穏な影……
次回もお楽しみに!!