月夜の少年 ①
ご覧いただき、ありがとうございます。
人生初の、長編投稿です。
どうぞ、お楽しみください!!
この世の中に、空想なんて存在しない。
理想は現実に
思いは現実に
呪いは現実に
“カイイ”は、人の心に潜んでいる。
【神奈川県内 某所】
「はあ……はっ……は……」
闇に沈んだ廃墟の階段を、制服の少女が駆け上がる。
――――立ち止まるな。振り向くな。
――――振り返ったら、アイツがいる。
肌がじっとりと汗ばみ、嫌な温度が頬を滴り落ちる。埃と古びた薬品の入り交じった様な、不快な刺激臭が少女の鼻を突く。しかし彼女には、それらを不快だと感じる余裕すら無かった。
階段を上る。
「はっ……はぁ……っ」
階段が途切れ、さび付いたドアが現れる。
少女は躊躇うこと無く、そのざらついたドアノブを掴んだ。手の震えを抑えつつ、力一杯扉を押し開ける。
「は……っ……」
視界が開け、瓦礫や廃材で散らかった屋上が少女の前に現れた。草いきれの混じった夜風が吹き付け、スカートが大きくはためく。少女はその裾を気にするでも無く、せわしい動きで隠れ場所を探す。
――――来る。
――――早く隠れなければ、アイツが……!
適当な物陰を見つけ、少女は震える脚を抱え込む様にうずくまった。血の気が引いた顔を膝に埋め、弱々しい声を漏らす。
「こんな、はずじゃ……」
「 ド コ ? 」
奇音。
辛うじて言葉に聞こえるその音に、少女は小さく息を吞む。
震えを増す体を両腕で必死に押さえつけ、瓦礫の隙間からソレを覗き見る。
「 ド コ コ コココ」
甲高い不協和音の様な声と共に、屋上の入り口から大きな影が這い出てくる。
月明かりに照らされたソレは、真っ黒な髪を体中にまとった、女の様なかたちの――――異形。
ずるりと狭いドアから這い出した異形は、ゆっくりとその巨躯を立ち上げる。長い髪を触手の様に四方へ伸ばし、触れた物を手当たり次第に壊していく。
古びたテーブル。ひしゃげたロッカー。大きなガラス板。パイプ椅子の束。
二つ、三つと押し潰しても少女に辿り着かず、異形は苛立ったように咆哮を上げる。
「――――――――!」
廃墟を揺さぶる様な激しい咆哮は、消え入る様な少女の声をかき消した。
「――――誰か」
「だれか、たすけて」
◆ ◆ ◆
【田共大学付属高等学校 昼休み】
きっかけは、いつも通りの何気ない会話だった。
「めっちゃピク映えするくない?」
「ほんとだ~、リアルお化け屋敷ってかんじ」
弁当を食べ終えた少女の友人達は、スマホに映る廃墟を覗き込んで騒いでいた。四人の友人を見て、少女は内心「またか」と呆れる。
スマホの持ち主は、グループいち洒落っ気のあるギャルだ。情報通で面白いことが大好きな最強JK様である。
ふんわりと受け答えしている女子は、少女の幼馴染み。彼女の気まぐれな行動に、少女は幼い頃から振り回されていた。
「へえ、どんな場所?」
それに口を挟んだのは、インテリ眼鏡風の爽やか男子だった。実際に頭はすこぶる良いが、好奇心も人一倍のくせ者である。
「よっくぞ、訊いてくれました!」
ギャルは調子づいて説明を始めた。
その廃墟は、十年前に倒産した会社の持ちビルだ。薬品を扱う大きな企業だったが、不祥事が広まってから経営不振に陥り倒産している。これだけ大きいビルにテナント募集も出ず、潰れぬまま残っている理由は誰も知らないという。
更には、たまに人間が出入りしているのが目撃されているとか、奇妙な叫び声が聞こえるとか、幽霊が出るとか、そういった定番の噂もある曰く付きの廃墟……らしい。
少女は、怪談好きの幼馴染みの目がきらりと光ったのを見逃さなかった。
「へー! おもしれぇじゃん。皆で行ってみっか!」
幼馴染みが口を開くより早く、ギャルの彼氏が元気に言い放った。健康的に屈託無く笑う彼はこのグループのリーダーであり、彼が言い出したことを覆すのは非常に難しい。
少女は今度こそ「またか……」と口に出して溜息を吐いた。
この個性豊かな五人グループの中で、少女は常に思っていた。
――――私がしっかりしなくては。
「いや、普通に不法侵入だよ? それに、夜の廃墟なんて普通に危ないでしょ。絶対いいこと無いって」
「大丈夫大丈夫、一人で行くんじゃねーんだから」
「いや、でも……」
のんきなリーダーに言い募ろうとする少女の制服が、小さく引っ張られる。振り向くと、シャツの袖ぐりを摘まんで上目遣いをする幼馴染みの姿があった。
「お願い。私も気をつけるから。ね?」
少女は口篭もり、観念してぼやく様に言った。
「……ほんっと、仕方ないなぁ」
昔から、この顔に弱いのだ。
気付けばその日の内に廃墟に訪れ、渋々ながらも散策に付き合ってしまうくらいには。
◆ ◆ ◆
廃ビルの中は荒れ放題だった。窓ガラスは割れ、扉は壊れ、粗大ゴミや廃材が至る所に散らかっている。
電気は当然通っておらず、懐中電灯の頼りない灯りだけで進む。
――――ガシャン!
「ひっ……!」
背後から突然聞こえた物音に、少女は小さく悲鳴を上げて肩を跳ねさせた。
「おっ、意外と恐がりなかんじ?」
「ビビりちゃんだからあんなに嫌そうだったん? かわいーとこあんね~」
眼鏡が茶化し、ギャルが便乗してにまにましながら少女を小突く。
――――違う。
物音の中に、微かに違う音が混じっていたのだ。
――――何か、湿った笑い声の様な……。
「あっはは、大丈夫だって! ほら」
リーダーが懐中電灯を向けた先には、寂れた『B1』の看板と下りの階段があった。踊場には、うず高く瓦礫が積み上げられている。
「あれがちょっと崩れただけだって」
四人は平気な顔で進んでいく。少女は釈然としない気持ちのまま後を追う。
「怖いとかじゃ無くて、普通に危ないってずっと言ってるでしょ」
「はいはい、怖くない怖くない」
「その眼鏡、たたき割ってあげようか?」
軽口を交わし合って無理矢理に笑ってみても、どことなく気味の悪い気分は抜けなかった。
――――ずる、ずる、ずる……。
――――くすくす。
「……ねえ、やっぱり変な音しない?」
「えっ、ほんと!? 私も聞きたい!」
「空耳っしょ。まじ怖がりすぎだって。それよりそろそろじゃね?」
「そうだね。五階の実験室なら、この廊下の突き当たりだ」
「やっべー! わくわくしてきたー!」
少女が怯えきっていると思っている四人は、少女の言葉に耳も貸さない。
「大丈夫大丈夫。科学的に、幽霊なんかいるわけないよ」
「そそ。クーソーの話じゃん?」
「ええ~、私はいて欲しいけどなぁ」
「俺は面白ければどっちでもいいや」
――――空想の、話。
少女は四人の背中を眺めながら、心の中で繰り返す。
(クーソーで、いるわけなくて、いて欲しくても、『実在しない』……本当に?)
(じゃあ、『幽霊』って言葉はどうして存在するの? 最初に考えたのは誰?)
(――――考えるな)
(幽霊なんていないし、この建物に不思議なところなんて何もない)
(廃墟で、元々薬品会社だから、危ないから、だから――――)
(だから、こんなに、怖い?)
「……ここだ」
リーダーの懐中電灯が、色あせた『実験室』の文字を照らす。錆だらけの金属扉に張られたプレートは劣化して黄ばんでおり、所々不自然にヒビが入っていた。
「……ねえ、やっぱりやめようよ。危険な薬品とか残ってたら洒落にならないって」
少女は再び、四人を引き留めた。口では理屈っぽい理由を並べているが、彼女の本心は別のところにあった。
――――やばい。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい……!
――――この先は、本当に駄目だ。
本能が警告を鳴らし続けている。この扉を開けてはいけない――――
「もう開けちゃったけど?」
「馬鹿……っ!」
少女は擦れた声でリーダーを罵った。
とぼけた顔で少女を振り向くリーダーの背後から、ずる、ずる、と重い物を引きずる様な音がした。
「……は?」
眼鏡が声を漏らす。
扉の先、教室二つ分ほどの広い空間に広がっていたのは――――真っ黒な『巣』だった。
まるで巨大な蜘蛛の巣の様に、天井から床まで黒い糸が張り巡らされている。懐中電灯の光をぬらぬらと反射するそれは、明らかに人毛だった。
更に、天井からは黒い繭玉の様な物が無数に吊られていた。
目を凝らさなくても分かる。
その繭玉の中身は、人間だった。
男、女、老人、子供……皆一様に黒い球体から顔だけを出し、虚ろな目で虚空を見つめていた。反り返った喉からは、ぶつぶつと呻く様な呟きが漏れている。
繭玉の群れの奥、部屋の中心には、巨大な髪の毛の柱がそびえ立っていた。天井に達する高さから伸びた髪は円錐状に広がり、蜘蛛の巣を形作っている。髪の隙間からは、薄らと人影のような形が見て取れた。
まるで真っ黒なドレスを身に纏った魔女の様だ、と少女はぼんやり思った。
「 ダ、 ァ レ ? 」
呆気にとられて動けない少女達の頭上から、不気味な音が降ってくる。いくつもの音が重なり、揺れ、不快に鼓膜を震わせた。
懐中電灯の光が声のした方を照らす。
「 ふ フ 」
しだれた髪の隙間から覗くのは、けばけばしい睫毛に縁取られ不気味に光る眼球。
にたりと赤黒く裂けた口からは、チューニングのあっていないラジオの様なノイズに混じって、歪な笑い声がこぼれ落ちる。
「は あ、アはハハハ八ハノヽはハハノヽハははハ八」
「うわあぁぁぁああああああっ!」
叫んだのは誰だったか。
壊れた様なけたたましい笑い声で、五人は一斉に我に返った。
――――逃げないと、死ぬ。
少女は妙に冷えた頭できびすを返す。目の端で女子二人が抱きしめ合いながらへたり込む姿が見えた。
「ぐぼっ」
「ひいっ!」
真っ先に駆けだした少女の背後から、くぐもったリーダーの嗚咽と眼鏡の悲鳴が聞こえた。少女は思わず振り返り――――そして、後悔した。
髪の毛で簀巻きにされ、ぐったりと頭を垂れるリーダーと、うねる髪の毛に捉えられて暴れる眼鏡の姿が飛び込んでくる。暴れれば暴れるほど髪が絡みつき、眼鏡もやがて全身の動きを封じられた。
「やめっ……」
「あ はハ ハは八は」
化け物の笑い声と共に、二人の口が細かな髪束でこじ開けられる。
「 あは ハ ―――― い っ ショ」
ごぼぼぼぼ、と大きく嫌な音を立てて、二人の口に大量の髪の毛が一気に注がれた。
「いっしょ、イッショニ――――私と、一緒に、なって」
不意に、化け物の声が静かになる。
まるで小さな女の子の様に頼りなさげな、悲しい声。
「ひっ」
そう思ったのも束の間のこと。
化け物は再び壊れた様に笑い始め、少年二人の髪が湧く様に伸び始めた。
髪はみるみるうちに体を覆う。二人が実験室の繭玉と同じ姿になるのに、時間はかからなかった。
「いや……」
幼馴染みが震える声で小さく呟く。
少女は歯を食いしばり、振り切るように体を翻してその場から走り去った。
――――何やってるの?
皆、速く逃げないと。
逃げないと。
妙に冷えた思考が、少女の脚を急かす。
背後から絹を裂く様な悲鳴が聞こえても、少女の脚は止まらなかった。
――――知らない。知らない。私は関係ない。
皆、私が止めるのを聞かなかった。
明らかに危ないって、何度も言ったのに。
幽霊じゃなかった。もっとおぞましい物がいた。
完全に、舐めきっていた。
――――自業自得だ。
自己保身が少女の脳裏をぐるぐると廻る。そうでもしないと、恐ろしさと罪の意識でどうにかなりそうだった。
少女は廊下を駆け、まっすぐ階段を目指した。しかしそこには――――。
「なんで……!」
一階で見たはずの瓦礫があった。背後からは、ずるずると化け物が髪を引きずる音が近付いている。
考えている余裕は無い。下りの階段は封鎖されて使えない。
脱出する方法は二つ。
窓から飛び降りるか、階段を上るか。
少女は迷い、足を止める。
その時だった。
「――――屋上に来て」
廃墟に、不思議な声が響き渡った。
少女の様な、声変わりしていない少年の様な、あどけなく温度の無い声。
少女は再び、弾かれる様に駆けだした。