六十四の話
オウキョウから東へ百里。アスカという街があった。百年ほど前、オウキョウへ遷都するまでアマツの都であった。格子状に広がる街並みである。北のビャクレイ、南東のナンヨウからの交易の大路はこの町で交わっており、かつてほどにはないにしろ、今もその要所として賑わっていた。
カエデは、その街の最も賑わう天地横丁と呼ばれる、露店の立ち並ぶ通りにいた。彼女の様は、人群れに紛れて揺らめくが如くに見えた。歩いてはいるが、酷く遅い。しかし、カエデの横を通り過ぎる人々の中に、この老婆に気を留める者などいなかった。
「何を掴んだ?」
カエデの耳しか届かない声だった。湧いて出たか、元からそこへいたかの様だった。カエデの隣を並んで歩く男がいた。笠を目深に被る男である。
いつもながら、前置きはなしに要件のみを訊いて来る。だが、恐ろしく無駄を嫌う、奴らとして当然だ。
「ビャクレイの、堕ち蛇」
カエデも男にしか届かぬ様に声を発した。
「ほう」
「あれは女だ。曲者だぞ」
「そうらしい。それと接して、お前が五体満足で立っているが、その証左。つまりは、」
「ワタシの素性も大方掴まれた。主らも気を付けよ。共をしている狼族も手練れだ。心を操る」
「うむ。お前も即刻オウキョウへ戻れ。近くテイワが動くやもしれん。戻れたら、だが」
「ああ」
カエデの短い返答の間に、男の姿は消えていた。元からそこへ誰もいなかったかの様だ。男の氣の末端すらも人群れに紛れて消えた。
カエデは変わらぬ歩調で賑やかな天地横丁を抜ける。
打って変わり人通りのない路地へ入った。誰もいない。それを確認し、疾駆しようと地を強く踏んだ、その時だった。
「いやあ、奇遇ですね」
後ろからだ。飄々とした、女の声だった。カエデはすぐさま動きを止め、懐の短刀の柄を握った。だが、背中を取られている。そこへ立っているであろう人物の力量から察すると、既に詰みだ。止まらず走り出していれば、或いは、逃れることが出来たかもしれない。それも、砂つぶの様な可能性だったが。
「そんな、あなたには、何もしやしませんて。もう、怖いなぁ」
笑い混じりの声だ。流れる氣から、殺意はない。その言葉通りなのだろう。
カエデはゆっくりと振り返った。そこには大きな口を横に開き笑顔を作り、悪戯猫の様な眼を輝かせる、シナツが立っていた。目立たない様にか、或いはその出自を疑われない様にか、笠を被りその鬱金色の派手な髪は隠している。
「ビャクレイの堕龍人は空を舞うとは、本当だったらしいな」
それとも瞬転移の類か。そうでなければ、カエデが氣取れず容易に背後を晒すことなど有りやしない。
「さっすが、アマツはもうそこまで掴んじゃってたか。いや、参った。でも、驚いたなぁ。鳩と鴉は仲が悪いって思ってたんだけど、違うんですね。普段いがみ合ってても、一大事の時は協力し合うのかぁ。僕の読みと違いましたよ」
「いや、お主の読み通りだ。あれは、ワタシ個人の判断だ。目的を成す為に手段を選んではいられない時もある」
「へぇ、僕達氣が合いそうですね」
シナツはカエデを受け入れる様に両腕を広げた。無邪気だ。それを装っている様にも見えない。しかし、深碧の瞳に一滴の濁りが混じった。カエデの勘が働き、瞬時に周囲を仔細に氣取った。
「既に消したか?」
「ええ、あそこにいた三人全部ね。一人は逃して上げようと思ったんですが、あなたが鴉と繋がってるって分かったし」
まるで、石ころ弾いたかの様に言う。彼女には児戯にも等しいのか。
「鴉は皆手練れだ。それも、あの人群れの中を探し当てるとはな」
「僕、氣取りと氣配りは得意なんです。それに加えて」
シナツは被っていた笠を外し、その内側をカエデに向けて見せた。カムナの書かれた札が貼られている。
「『詩分』って術です。術者、ミシロの感覚を貸してもらえるんですよ。狼族は耳と鼻が良いですからね。それを更に氣配りすれば、かなり遠くからでも聞いたり、嗅いだり出来るんですよ。便利でしょ」
「ワタシはあの狼族を見誤っていたようだ。彼女が操るのは心ではなく、眼耳鼻舌身意の六根」
「ご明察。彼女、見た目に反して恐ろしい子ですよ」
「何故こうも簡単に手の内を晒す?」
「それはあなたと取引したいからですよ」
「ほう・・・・取引とな」
本来なら、取引など問答無用で突っ撥ねているところだ。こんな家業をしているのだ。そうして、ここで命を奪われることなど恐れてはいない。しかし、この人物には何かある。これは好奇心だ。
「僕らの狙いは五摂家、『同じ顔の一族』です。あれには、あなた達も良くは思ってないはずです。鳩は王家のみに仕えるんでしたっけ?」
「違うな。鳩は国のみに仕えるのだ。一貴族はおろか、王家のみに仕えるのではない」
カエデは自分の口調が意識せず鋭くなっているのに気付いた。
「なら、尚更、同じ顔の一族が出しゃばり続けているのは許せないでしょ? あの存在はアマツはおろか、ジン大陸全体にとっても毒だ。今なら、好機です。ここ数百年で最も彼女達の力が弱まっていますからね」
「ああ。だが、弱まったとは言え、まだまだ奴らの力は強大だ。王家や地の堕天者ですら、無闇に手を出せん」
「だから、手を出し易くするんです。彼女達の最強の手駒にして、このジン大陸最強の兵団、堕龍人すら狩る犬、狛犬。それを崩します」
「確かにあれを崩せば、五摂家の力は今より更に弱まる。だが、それ故にその力は強大だぞ」
「僕の力だって強大ですよ。このアスカの街くらいだったら、一瞬で吹っ飛ばせます。お見せしましょうか?」
シナツは鼻先を上げながら、大きな口を横へ広げて笑みを作った。その表情から、その気はまるでなく冗談で言った様に思える。しかし、この女の内を表情や仕草から読み解いてはいけない。それら全てに虚実を含ませている。
「それは、伝えねば、だな」
カエデは、シナツが意図していることが分かった。つまりは、誘き寄せろと言いたいのだ。
「おっ、カエデさんは勘が良くて助かる。僕のことを頭のおかしい殺人狂だ、って言ってもらって結構です。出来れば、狛犬の頂点、白獅子のシオウぐらいには来てもらいたいので」
カエデの心臓が一つだけ大きく鼓を打った。おそらく、その乱れはシナツに氣取られただろう。
「ビャクレイ侮り難しだ。シオウを知るとはな」
「でしょ? 僕らの国、隠密は割と得意なんですよ。全然知られてないんですけどね。まあ、知らしめていないだけ、なんですけどね」
「そうか・・・・」
このシナツの存在を今の今まではっきりと掴ませなかったのだ。アマツはビャクレイを侮っていた訳ではない。しかし、これは想像以上だ。
狛犬は自分の名はおろか、顔すら濫りに晒すことをしない。アマツの朝廷でもそれを知るのは極僅かだ。その理由の一つが得体の知れなさを印象付ける為だ。人にとって、得体の知れなさは恐怖と同義だ。その戦闘能力の高さと相まって、狛犬を恐怖の象徴として人の心へ植え付ける。更にそれを手懐ける五摂家の威光は高まり、その支配力を増大させる一役を担っているとも言える。
しかし、狛犬が顔と名を隠す最大の理由は他にある。それは彼らのみが使えるとされる、氣法の秘技だ。
「いやあ、楽しみだな。実際この目で『白輝』が見られるのかぁ」
シナツの口ぶりは、まるで見世物小屋を前にはしゃぐ子供だった。カエデの氣が意に反して乱れ流れる。これをを抑え隠すことは出来そうにない。
『白輝』とは正式な名ではない。狛犬が纏う白装束と相まって、その技を使う者の体が白く輝いて見えるらしいことから、そんな俗称が付けられている。狛犬が顔と名を隠す最大の理由は、その秘技の真髄を外部へ漏れ出るのを防ぐことにある。彼らはこれにより堕龍人すら狩ることを可能にしている。それほどまでに、白輝という技は強力無比だと言われている。
カエデもその俗称は知ることが出来たが、正式な技の名はおろか、実際目にしたことはない。
「お主、どこまで知る?」
この様なことを訊いても答えは返ってこないだろう。しかし、カエデは訊かずにはいられなかった。案の定、シナツはそれに微笑むだけだった。
「・・・・こちらの見返りは何だ?」
「あなた達の役目は大陸中の情報を集めるだけじゃない。不思議な力を持つ魔具や神宝を集めていると聞きます。その中でも特に探し求めているのが、かつての、大王の象徴『日転輪』、でしたっけ?」
今度はカエデが笑みを漏らす番だった。面白いことは何もない。それは自らに対する嘲笑であった。
「どこまで筒抜けなのだ」
「あなた達も鴉も、ここ最近、テイワの動向ばかり注視してましたからね。物凄くやり易かったです」
「それは予測し、警戒もしていた。他国が何か仕掛けて来るやもしれんとな。しかし、それをこうも簡単に・・・・。で、主らは日転輪の何を知っている?」
「その欠片を、僕達は保有してます」
「何だと?」
「でも、欠片ですから、謂れの様な天を廻す力などありません。ただのガラクタです。あんな物、要脚をかけて持ち続けるなど、無駄も良いところです。しかも、物がものだけに外部へ、持ってるよぉって、自慢も出来やしない。だけど、あなた達は喉から手が出るほど欲しいでしょ?」
「確かにな」
「なので、カエデさんが狛犬の主力を誘き寄せて、僕らが見事討ち取った暁には、日転輪の欠片はお渡しします」
「・・・・相分かった。その取引、呑むとしよう」
「あれ? 疑わないんですか? そんな欠片偽物どころか、そもそも無いかもしれないのに」
「シナツ。お主は嘘吐きだが、無いものを有ると言う類の嘘吐きではないと見た」
根拠は無い。直感でしかない。理屈で考えれば、この様な相手とこの様な取引に応じるべきではないだろう。しかし、カエデの経験則から、理屈よりも直感を信じた方が良い結果が得られる。もちろん、直感を信じて失敗したことは何度もあるが。
「んふふ。僕達、似てますね」
「そうか? そうかもしれんな・・・・」
どこをどう切り取って、似ているなどと言うのか? 手段に拘らぬところか、或いはまだ見せぬであろうその性質の一部か。
「僕の天意は風です」
「何?」
唐突に重要なことを割り込ませて来る。通常こうして話の拍子を崩し場を掌握するのだが、シナツはそれに加えてその乱れを楽しんでいる様にも思える。
「そちらも大方予想ついてると思ってね。教えるつもりでした。僕は風を自在に操る、『風の堕龍人』です」
「確かに、予想は付いていたが、自ら教えるということは、それも伝えろと言いたいのか?」
「天意ってズルしてるみたいじゃないですか? なんか面白くないなぁって」
飄々と言い放つシナツに、カエデは思わず笑いを含んだ鼻息を漏らしてしまった。
「そうか、お主は狂人なのだな。これら全て遊戯ということか?」
カエデの問いかけに、シナツは首を傾け幼子の様に無邪気な笑顔を作って返すだけだった。またこれか。否定も肯定もせぬ。ならば、これもそう思わせる嘘、虚なのかもしれない。
「では、僕は色々と準備がありますので、このへんで失礼しますね」
シナツの足裏が地面から離れていく。風がその体を押し上げているのだ。いや、そうではない。魔術や氣法で風を操ってこの様なことを成した場合、周囲に激しい風の流れが起きる。しかし、それが一切ない。風と共に在るどころではない。シナツが風そのものなのだ。これは正しく天意だ。
シナツは、カエデへ向けて軽く手を振ると、吹き上がる突風となって宙へ舞い、瞬く間に見えなくなった。
「凄まじいな・・・・。ワタシもこうしてはおられん」
カエデは氣法の輪を一つ結ぶと、足裏で地を蹴り跳んだ。人の多い街路は行けない。建物の屋根を疾駆する。シナツほどではないが、この歳になっても走りには自信がある。オウキョウまでなら、今夜仮眠を取ったとしても明日の朝には辿り着けるだろう。
しかし、一間の道草も食えぬか。アスカとオウキョウの丁度中程に、カエデが北東へ旅に出た際、必ず立ち寄る茶屋がある。そこの草餅は絶品なのだが、今回は我慢しよう。それと、
「すまぬな、シン。土産は買えそうにない・・・・」
カエデは一人留守を預かる孫へ向かい、早過ぎる詫びの念を飛ばすのだった。