五十一の話
旅行くには風に吹かれなければならない。
だが、今はその風が凪いでいる。水面から立ち昇る霧は、瞬きをする度に濃く重くなり、そこへ浮かぶ帆船をずしりと足止めた。
「術士、帆に風を!」
船頭の男が支持の声を上げた。
「いや、帆は畳んでおけ。破られぬようにな。来るぞ」
野太い声が霧に混じり、頭の上から降りてくる。
ヒナノはその丸い眼を声の放たれた先へ向けた。黒毛の巨躯、頭に二本の角を頂く雄牛の獣人、牛頭法士だった。
「へっ?」
船頭の男が素頓狂な声を上げ、牛頭法士へ応えた瞬間だった。
水柱が立ち昇り、そこから黒い影が一つ霧を裂いて跳び上がった。
船の甲板に降り立ったそれは、後ろの二本脚で立つオオトカゲだった。
鋭い牙が立ち並ぶ大きな口と、そこから除く紫色の舌が見る者の戦慄を煽る。人間を睨み付ける眼が空虚なただの白い球の様であった。
魔物だ。ヒナノの見たことのないものであったが、そう覚るのに教えられる必要もなかった。
「火鞠」
その凛とした声と共に魔術の火球が飛ぶ。
ヒナノの眼には、オオトカゲの大口の中にそれが放り込まれた様に見えた。瞬き一つで燃え盛りに達する。オオトカゲは苦しむ暇もなく黒い炭に変わり果てていった。
「あらら、意外によく燃えるねぇ」
淀んだ霧の中でも、緋色の長い髪は鮮明だった。美しい顔立ちと、纏う着物を肩と胸元まで大きく肌けさせる様も合間って、その女、ユリの姿形は明らかに顕示していた。
突如、水柱が立ち昇る。今度は二本、三本と数を増していく。数体の魔物の影が頭上にあった。
その魔物へ目がけて帆柱の天辺から跳ぶ影があった。
「サンキ、風の型、躍木霊」
少年が纏う着物の色で、草色の塊が魔物達の合間で跳ね回る様にも見えた。
その残像の中でも、彼の深い黒の眼は煌めいていた。ゴウだ。ゴウが空中で魔物達の体を壁の様にして蹴り、その間を跳んだのである。
「ゴウ、いつの間に登ってたの?」
不思議そうにする顔のヒナノの隣にゴウが降り立つ。同時に魔物達の体が墜落し水面へ打ち付けられて沈んでいった。
「まだ来るよ。ヒナノは船頭さん達を守ってて」
ゴウがウメガイ「八雲」を抜き放つ。その雲のような波紋が霧を呑み込み、渦を巻いて流れた様に見えた。
ヒナノは船頭他数名の船員達の元へ走ると、カムナを想い浮かべて想魔を始めた。水に属する元素が霧と共にその周りへ集まり出す。更にそれを練り上げ練魔を為した。
「水障壁」
その声と共に両腕を前へ伸ばし、放魔へ至る。霧を呑み込み、ヒナノ達の周囲に半球状の透明な膜が迫り上がった。流れる川に加えてこの濃い霧だ。当然ヒナノの好む水の元素が強く、その障壁も強固になる。
次々と水柱が昇り、船へ魔物と化したオオトカゲが降り立って来る。
「ゴウよ、一の輪だ。それでこと足りるだろう」
牛頭法士の言葉にゴウが頷く。
「氣法、一の輪」
ゴウと牛頭法士、二人の声が同時に発せられると共に、彼らに結び付いた氣が濁流の如く流れた。
空気が膨れて帆を揺らし、船が激しく揺れた。船員達の悲鳴が上がる。濃い霧がゴウと牛頭の氣に消し飛ばされていく。
「二人とも、アタシの分まで頑張っておくれ。ここは火の元素が薄くてどうも調子が出ないからねぇ」
ユリが大鉄扇を取り出して悠揚と扇いでいる。その風情には、恐怖はおろか緊迫の欠片すらない。
ヒナノもユリとまではいかないが、恐怖はなかった。この分厚い障壁に加えて、あの二人が前にいる。
「空弾・十裂」
牛頭法士が魔物へ向けて腕を振り下ろす。瞬時に、幾体もの魔物の頭蓋が破裂音を鳴らし吹き飛ぶ。空気を握って投げる。牛頭法士の剛力にかかれば、空気ですら鋼の弾丸となる。
更にその岩の様な拳と、丸太の様な脚を武器として、オオトカゲを仕留めていく。
ゴウへ何体ものオオトカゲが大口を開けて襲いかかって来る。
より弱い者をなぶりたがるのは魔物故の歪んだ本能か、それともただの獣であった頃の生存の本能か。どちらにせよ、それは間違いであった。
「風の型、瞬影・乱」
ヒナノには、ゴウの振るった数筋の刃の閃きしか見えなかった。
それに遅れる様に、何体ものオオトカゲの首元から血飛沫が上がり崩れ落ちていく。いつ動き、いつ斬ったのだろう?
「ゴウのやつ、いつの間にあんな技まで・・・・」
ヒナノが呆気にとられていると、オオトカゲの一匹が彼女へ向けて突進して来た。
「ひえっ」
再び船員達の悲鳴が上がる。
「大丈夫!」
ヒナノは確信を持って言った。オオトカゲが迫る。が、ヒナノの張った障壁に触れた途端、鞠の様に弾き飛ばされた。
「ねっ」
ヒナノは船員達に笑顔で振り向いた。
「おお・・・・」
彼らの短い感嘆の声が上がる。
そうこうしているうちに、ゴウと牛頭法士が各々の技を振るい、見る間に魔物達を動かぬ肉塊へと変えていった。
ヒナノが思った通り、何も怖がる必要はなかった。襲って来たオオトカゲの全てが動かなくなったのを見ると、ヒナノは障壁を解いた。
「ユリ、屍の始末は頼んだぞ」
牛頭法士が屍に変わったオオトカゲを掴み上げて、宙へ高く放り投げる。
「あいよ」
ユリが魔術の炎を放ち、それが宙にある間に炭へ変える。炭は崩れて塵となり川へ落ち、流れへ溶けていく。
牛頭法士が次々に屍を投げ、ユリが焼く。息の合ったそれは、大道芸の様で小気味良い。ヒナノは意識せずに笑みが溢れてしまう。
「あれも元は普通の命だったんだ・・・・」
ゴウが呟いた。確かにそうだ。こうして笑って楽しんで良いことではないのかもしれない。
「何故ああして魔物を焼くんだい?」
船員の一人がヒナノへ尋ねて来る。
「魔物の肉を普通の獣とかが食べちゃうと、その獣が魔物になっちゃうかもしれないんだって」
シメグリの一族で教わった知識を披露する。
「うげっ、俺魔物の肉食ったことあるぞ。クッソ不味かったけどな」
「どうりで、お前魔物みたいなツラしてるもんな」
大口を開けて船員達が笑い合う。魔物を退けた安堵もそれに含まれているのだろう。
「ふう、疲れた、疲れたっと」
まるで疲れた様子はないユリが言う。甲板に無数にあった魔物の屍がない。始末は終わったようだ。
気付くと濃い霧も晴れて、広大な緑の平野の向こうに霞む山々が見える。
そして、イヌイ川の雄大な流れの中にいたことを思い出す。川幅が半里もあるらしい。
ヒナノが知るシヨウ山地の湖より広い。下流はもっと広くなるらしい。
どこまでも続きそうな真っ平らな平野を、どうしてこんなに大量の水が流れることが出来るのだろう? 山育ちのヒナノには想像も付かなかった。
ゴウ、ヒナノ、牛頭法士、ユリ、四人の一行はシメグリの一族を離れ、イヌイ川を目指してシヨウ山地を西へ向かった。
一行の最初の目的地であるアマツ国の都オウキョウは、イヌイ川を挟み込む様に拡がる街らしい。
川沿いを行けば辿り着ける。陸路を徒歩で行くことも考えたが、ゴウとヒナノの経験したことのない学びの為という名目の元、川を船で行くことになった。
それはユリの提案、いや、強い要求であった。「これで楽出来る」そんなユリの漏らした一言が本意であったということは、一行の誰もが見透かしていた。
「これで役目は果たしたよ。あとは都までのんびりさせてもらうとするよ」
ユリが船頭に言う。その役目とは、最近頻繁にこの川で出現する魔物から船を護衛するというものだ。その条件の元、只でオウキョウまで乗せてくれるのだ。
「ああ、よくやってくれた。ゆっくりしてくれ」
「いや、これからオウキョウへ着くまでに、何度か魔物の襲撃があるやもしれん。気は緩めるな」
船頭とユリに向けて牛頭法士はたしなめた。その野太い声に船頭は「ああ」と短く返事をしたが、そこには若干の恐れの震えが混じっている様にも感じられた。
「牛頭法士も心配性だねぇ。大丈夫さ。あの程度の魔物だったら、ゴウとヒナノちゃんに任せても問題ないよ」
「ええっ! そんな・・・・」
ヒナノは思わず声を上げてしまう。確かに大丈夫かもしれないが、障壁を張り続けるのはまだまだ疲れる。
「これも鍛錬さ。ヤバそうになったら、ちゃんと後ろから助けるから安心しなよ」
「そっか。頑張るよ」
ゴウが飄々と言う。その表情は読み取りにくいが、幼い頃から一緒にいるヒナノには分かる。これは何も恐れていないどころか、楽しみにしてさえいる。
「ゴウ、あまり気負うな。気負えば氣は滞る。氣は常に流れ巡ることを忘れるな」
「うん。最近ようやくその感覚が掴めて来たんだ。これも牛頭さんとユリさんが毎日鍛錬してくれるお陰だよ」
「鍛錬か・・・・」
ヒナノは下唇に力を込めて、ため息を吐きたくなるのをグッと堪えた。
シメグリの一族を離れてから今日までの二十日間は鍛錬の日々だった。ユリと牛頭法士の言う鍛錬は、魔物退治であった。
なんでも、ゴウとヒナノは魔物との実戦の勘が弱く、その勘は実戦の経験によって培われるらしい。
シメグリの一族にいた頃も魔物に襲われることは珍しくなかったが、その時は大人が先頭に立って対処していた。
ゴウは子供にも関わらず能力が高かった為戦闘に参加してはいたが、それはほとんど大人の補助的な役割であったし、先陣を斬ることは許されていなかった。
ヒナノはもちろん、ゴウでさえも実戦の経験不足と言われればその通りなのかもしれない。
ユリがヒナノの背をポンと叩く。
「旅を続けるには路銀が必要さ。で、アタシ達が路銀を稼ぐ手段で最も都合が良いのは魔物退治なのさ。これは旅を続ける為の鍛錬だよ」
ユリの口調は穏やかであったが、旅の厳しさを突きつけて来る。
「ユリさんって現実的だよね・・・・」
ヒナノは思わず本音を漏らす。
「まあね。金目のもの大好きだし」
それを言うユリに、恥じる様子は微塵もなかった。寧ろ、清々しさすら感じる。
「術士、帆に風を!」
船頭の男が声を上げる。一人の魔術士がそれに従い帆へ風の魔術を放った。帆が風を受け、緩やかなイヌイ川の流れを追い越して船を進ませる。
「ヒナノ、また違う景色が見えるよ」
ゴウがいつもと変わらぬ風情で言う。だが、その漆黒の眼が日を受けていつもより光って見える。心躍らせているのだろう。
「違う景色か」
ヒナノは流れる川の先を見る。この流れの向こうにはどんな景色が見えるのだろう?