三十七の話
ユリが落ちたその場所に灰と土とが混じった煙が上っていた。ユリの身がどうなったのか、その煙が濃過ぎて目では判然としなかった。
「やったぞ。直撃だ」
隣でイビが笑みを浮かべていた。勝利を確信しているのかもしれない。
だが、オボロはそうではなかった。ユリの氣はその流れを失っていなかったのを感じていたからだ。
「イビ、来るぞ」
「何!」
その時、煙が一瞬で消し飛んだ。そこにはユリが変わらぬ姿で立っていた。あの雷撃をまともに受けたのに着物に煤一つ付いていない。
「三層の障壁に、氣法二の輪。まあ、大抵の魔術は通らないねぇ」
ユリは涼しげな顔で、大鉄扇を広げ扇ぎながら言った。
「有り得んぞ・・・・この女の中で理はどうなっている?」
「それは『輪の惰性』だな」
オボロが発した言葉に、ユリの眼光が鋭く閃いた。
「へぇ。あんたシノビだろ? 氣法も魔術も扱えるシノビならそれも知っていて当然か」
「オボロ、何だ、それは?」
やはり、魔術一辺倒のイビは知らないか。
「輪の惰性。氣法は、それを意識している間だけ発動し続ける。だが、氣がその輪の中を流れるのは、意識を解いても急には止まらない。意識外に僅かだけ流れる。奴はその惰性の間に放魔まで至り、更にまた氣法を行っている。そうすれば、傍から見れば氣法と魔術を同時に行っているように見えるだろう」
「なるほど、ユリは理の外にいる訳ではないのか・・・・」
「いや、そうとも言い切れない。輪の惰性を活かして、氣法と魔術を同時に行う方法はシノビなら誰でも思い付く。だが、誰もがそれを成し得なかった。それは輪の惰性など、瞬きをするよりも短い時間だからだ」
ユリは笑みを浮かべ出した。
「オボロ、あんた何か気付いちまったようだねぇ。言ってみなよ」
「時を操れば可能だ。『同じ顔の一族』の様にな」
次の瞬間、オボロの眼前にユリの顔が迫っていた。腹に手を当てられている。凄まじい速さで動いたのは分かった。
だが、体が反応出来なかった。殺られる。オボロの喉の奥に恐怖が流れ込む。それは冷たく一瞬に全身を凍りつかせる様だった。
「残火」
オボロはその魔術で腹を焼かれたのかと思った。
だが、その身は燃えていない。腹の中が猛烈に熱い。臓腑を直接燃やされたのか?
そこから上る熱で息もまともに出来ない。体中の力がその熱に奪われるかのようだ。オボロは堪らずその場に崩れ落ちた。
「苦しいかい? その術は腹の中をじわじわ焼くのさ。アタシの意思に関係なく、あんたの命を燃やし尽くすまでね。ただ、すぐに死にはしないよ。あんたには教えてもらいたいことがあるからねぇ」
見下すユリの眼は明らかに加虐を愉しんでいた。
抵抗したいが、手足もまともに動かせない上に、痛みで想魔すら出来ない。
「貴様ぁ!」
イビが激昂する。練魔を始める。強力な魔術だ。
が、あれはこのような近距離で使う魔術ではない。強力が故に放魔まで時間がかかり過ぎるのだ。
「・・・・よせ、逃げろ、イビ。一人では・・・・敵わない」
オボロは出せる限りの声を上げたつもりだった。だが、口から出たのは古い木戸を開くような掠れた声だった。
「逃げられるか! 俺はお前と共に死ぬ!」
阿呆なことを言う。だが、悪くないと思ってしまう自分も阿呆だ。
「何だい? あんたらやっぱ、そういう関係かい? なら・・・・」
オボロは大鉄扇を閉じ、イビへ向かって構えを取った。
「肢罰」
ユリはイビの脇を素早く通り抜けた。少なくとも、イビにはそうとしか見えなかっただろう。
しかし、オボロは、ユリが四度大鉄扇を振るいイビの四肢を砕くのを目で捉えていた。
足の支えを失ったイビは倒れ込んだ。それと同時に練魔も解かれ、集まっていた元素も霧散する。
「クソ!」
イビは砕けそうなほどに歯軋りをした。ユリを睨む眼が血走る。
「あんたはそこで見守っててやりな。苦痛に耐えるのに、愛人の励ましは必要だからねぇ」
ユリはオボロへ歩み寄り、その頭頂を鷲掴みにした。一つ息を吐き氣法を解く。
「知ってるかい? 人間の頭の中には、小さな雷と火花の合いの子みたいなもんが絶えず走り続けているのさ」
ユリがオボロの眼の奥を覗き込む。
「・・・・知らん。殺せ」
オボロの言葉の抵抗を、ユリは鼻で笑って吹き飛ばした。
ユリが指先に力を込める。練魔が始まった。
「火名掬」
その時、オボロの頭の中に幾重にも火花が弾けた。思わず苦悶の声を上げる。
火花に混ざって、オボロの記憶の像が細切れになって浮かんでは消えた。
「この術はね、記憶を無理矢理浮かび上がらせて、掬って読み取るのさ。アタシが知りたいのは、瞬転移のカムナさ。なぁに、はっきり思い浮かべる必要はないよ。ぼんやりで良い。後はアタシが読み取るからね」
「・・・・誰がお前などに」
「残火と火名掬、両方喰らって耐えられる奴はまずいない。抵抗すれば気が狂うよ。苦しみたくないだろ?」
「・・・・殺せ」
オボロのそれは最早懇願になっていた。
腹をじわじわ焼かれ、頭の中を火花が襲う。オボロは幾度も戦場を経験し、大きな傷も負ったことがあるが、これほどまでの苦痛を味わったことはなかった。
しかも、頭の中の記憶を覗かれるという屈辱もある。ユリに対する憎しみが沸き起こった。
「憎んだってダメさ。そんな強い感情は記憶を読むのに妨げになる。より苦しむよ」
ユリはオボロの頭を掴む手により力を込めた。
更に頭の中に火花が弾けて、小さな稲妻が何往復も駆け巡った。抵抗する、憎むどうこうではない。思考することも出来ず、感情はただ苦痛一色になっていった。
「オボロ!」
イビが名を何度も呼んでいることは分かった。だが、それも遠くから囁くように聴こえる。
叫ぶ姿が見事に無様だ。地べたに這いつくばり、涙を流しながら必死に声を上げている。
何故イビが、自分などに涙を流す必要がある? 自分など、取るに足らぬただの道具に過ぎないのに。しかし、その姿が堪らなく愛おしい。愛おしい? どうしてそんな想いがこの場で湧き立つのだ?
オボロの頭の中の細切れの記憶が、やがて繋がりを帯びていった。
§ § §
オボロは捨て子であった。本当の親は未だに分からない。あんな国だ。死んでいてもおかしくはない。
山の中で泣くのをシノビの男に拾われた。オボロは当然のようにシノビの中で、シノビとして育て上げられた。その育ての男もオボロが十三の頃、任務にしくじり囚われ殺された。
育ての男だけではない。テイワを二つに分けた内乱で、シノビは戦場の最前線に狩り出された。狂った王により、地位の低いシノビの命は捨て石のように扱われ、その死骸は戦場に累々と積み重なっていった。
オボロも例外なくただの捨て石にされる間際であった。当時戦線に加わったばかりのタヂカに救われたのだ。
そのままタヂカの配下に召し抱えられたオボロは、すぐにその理由を知ることになる。容姿だ。
シノビの女など、戦道具でもあれば、遊び道具でもある。それに過ぎないのだ。
オボロは心を殺し、タヂカの為に生きることを選んだ。いや、そう生きるしかなかった。
タヂカに仕え一年の後、イビもタヂカに召し抱えられた。類稀なる魔術の才を持った男らしいが、その容姿を見た時、自分と同じ遊び道具なのだと覚った。イビもまたタヂカの為に生かされたのだ。
当初、イビは女のような嫉妬の眼をオボロに向けて来た。それに対して、オボロはただ冷ややかに見返すだけだった。
しかし、戦場で背中を預け、何度もお互いを魔術で救ううちに二人の間に信頼というものが生まれた。
同じ境遇に、同じ目的の為に生かされ、行動を共にする。そこに信頼が生まれれば仲間となる。
更に容姿の整った男と女だ。それ以上の想いが生まれるのも当然だったのかもしれない。
だが、そんな想いを遂げることなど、終ぞ出来なかった。せめて死ぬ間際はその腕に抱かれたかった。道具にそんなことは許されなかったのだ。
§ § §
遠のく意識の中でユリの笑い顔があった。だが、それは先ほどまでの加虐の笑みではなく、どこか優しげだった。
気のせいかもしれない。気のせいか。自分の人生など全て気のせいだったら良かったのに。