三十五の話
ヒナノの耳鳴りは続いていた。頭の中で直接鐘を鳴らされたようだ。手足も痺れてまともに動かせない。
他の一族の皆も同じ様子だ。堕龍人の、タヂカの力か。柏手一つでこれだ。
だが、その効力も徐々に薄れていく感覚があった。ヒナノは試しにと想魔を始めた。いつもよりぼやけてカムナが頭に浮かぶが、練魔は問題なく出来る。
「水癒」
ヒナノはまず自分に治癒を施した。全快とまではいかずとも、耳鳴りは治り、手足もまともに動くようになった。
「よし、これなら」
ヒナノは腰にぶら下げた水の入った竹筒に手をやったが、咄嗟に閃くことがあった。
辺りに濃い霧が立ち込めて来た。高山ではよくあることだ。雲の中に入ったと言っても良い。
どちらにせよ、周囲の水の元素が濃くなったと言うことだ。
「水癒・散!」
ヒナノは霧を利用して癒しの魔術をシメグリの一族の皆へ広げた。一族を包む霧が鈍く光り、その霧の粒が各々の体に吸い込まれていく。
「ヒナノ、よくやったわ」
側にいた母のミズキがまずヒナノに声をかけた。頭を押さえ蹲っていた他の一族の皆も、顔色が戻り立ち上がっていく。
「すごいぞ」
「ありがとう」
そのような言葉がヒナノに次々に贈られた。
しかし、当のヒナノはその言葉に酔いしれる気にはなれなかった。
ゴウがタヂカと闘っているのだ。霧でその姿はぼんやりとしているが、刃物が風を斬る音や肉体が強くぶつかり合う音が耳に届いて来る。
「ヒナノ、よくやった。だが、悪いが、もう一つ水癒をワタシにかけてくれ」
クレハだった。ヒナノは頷いて、すぐさまそれに従った。
「ゴウを助けにいくの?」
癒しの術を施しながらヒナノは訊いた。
「ああ。生きるべきは一番若い者だからね。年寄りほど、命をかけるべきさ」
クレハはそう言うと、首にかけた何かを取り出した。普段は黒い首紐に通されて着物の下に隠れていたものだ。クレハはそれをミズキに差し出した。
「婆様、それは・・・・」
手の平に収まる艶やかな石だった。白と青い縞模様が混じり合うように走っている。ぼやけた淡い印象だ。春の空に浮かぶ巻雲にも似ている。
「アオシマ瑪瑙だ。輪を繋ぎ、輪を癒すと言われている。シメグリの長の象徴さ。これをお前に預けておく」
「そんな・・・・ワタシなどが受け取れません」
「預けておくだけだ。そいつを壊すわけにはいかないからね」
クレハは半ば押し付けるようにそのアオシマ瑪瑙をミズキに手渡した。
「生きて帰って下さい」
「そのつもりだ。ユリと牛頭法士は必ず戻って来る。それまでの時間稼ぎだ」
「どうしてそれが分かるの?」
「年寄りの勘さ。最近更によく当たるようになってね」
ヒナノの癒しの術が完了する。クレハはゴウとタヂカの方へ向き直った。
「お前達、ワタシが走ったら魔術士の皆で障壁を張るんだ。タヂカ相手に気休めかもしれないが、あの柏手程度なら防げるはずだ」
「はい」
ミズキとヒナノの返事にクレハは軽く頷くと、一つ息を吸い猛烈な速度で走り出した。濃い霧にその姿はたちまち溶けた。
「ヒナノ、俺にも癒しの術を頼むよ」
マサクニだった。腰帯に刀を挿していた。何だか、いつもと違う人間に見えた。刀のせいか? いや、その引き締まった顔付きのせいだとヒナノは気付いた。見たことのない顔だ。それ故、覚悟を決めているのだとすぐに分かった。
「死んじゃダメだよ」
ヒナノは癒しの手をマサクニへ向けた。
「ああ」
マサクニは短く強く言った。