三十二の話
イビは目の前の光景に苛立ちを感じていた。
たった一人だ。たった一人の女をテイワの正規兵が束になっても仕留めることが出来ない。仕留めるどころではない。このユリとかいう魔術士に軽くあしらわれている。
その柔らかな身体で何百の刃をゆるりとかい潜り、その大鉄扇で屈強な兵をなぎ払う。
遊んでいる。先ほど遊んではいられないと言ったのは何だったのか?
イビは苛立ちを己の内にも向けていた。認めてしまっているのだ。この女の美しさを。
どこが鬼ユリなのだ? 無数の戦場で魔術をふるって来たが、このユリのように、戦場の中央で舞い踊り戦いを楽しむ術士は見たことがない。それ故、唯一なのだ。
嫉妬だ。内なる苛立ちは自らの嫉妬心へ向けられていた。
§ § §
イビはテイワの南方の取り立てて特色もない小さな町の生まれだった。
その容姿は、男児にも関わらず同じ年頃の女児達と比べても抜きん出て美しく、その上魔術士としての才は幼い頃から神童と言われるほどだった。
それ故、凡庸な者達を理解出来ず、何気なく発した言葉も辛辣なものとして他人の心を抉った。
イビは孤独であった。その孤独な時間の全ては魔術の鍛錬と探求に当てられた。
気付くと、十代半ばにしてその名は周囲の町にも轟くほどになっていた。
当時、北と南に分かれ内乱の始まったテイワにおいて、強き者を求められていた。当然のように引き立てられたイビは、その後頭角を表し、若くして術士千人を率いる将にまで上り詰めた。
イビは傲っていた。自らを「テイワで最も美しい術士」などと称したこともある。
だが、日に日に増大していく傲りとその魔術の才に端麗な容姿も相まって、身に浴びる嫉妬は憎悪となって膨れ上がり、遂にはその座から引き摺り下ろそうと画策する者達まで現れた。
戦の折、イビの率いる隊は故意の誤った情報伝達により壊滅の憂き目に遭う。
その責を負わされたイビは、自刃せよと命が下されることとなった。
しかし、それを救ったのがタヂカであった。
当時、堕龍人のタヂカには絶大な権力が与えられていた。それは戦ごとであるならば、王の勅でさえも翻すことが出来た。「面白そうな奴だ。俺の元へ来い」それだけだった。それだけのタヂカの言葉で、イビは責を免れタヂカの配下へ加わることとなった。
イビに関して、タヂカがふるった権力はもう一つあった。
それは、イビを陥れた者達の粛清であった。いや、実際は虐殺だった。その者達を呼び出し、拳一つで砕いて殺す。
何とも単純だが、あれはタヂカにとってほんの戯れに過ぎなかったに違いない。それ故にタヂカに対して凄まじい狂気を感じたのだった。
以来、イビの傲りは恐怖と共に消え、タヂカへ絶対服従を誓わざるを得なかった。
タヂカが自分を配下へ加えた理由が、特異な趣味嗜好によるものであった、と知ってもだった。
更にイビは、同じ理由で先に配下に加えられたオボロに対し、最初に湧き上がった感情に打ちのめされる。
嫉妬だ。タヂカに寵愛を受けるオボロに、嫉妬を抱いていたのだ。
イビは気付く。元来自分は臆病で卑屈な性質であったのだ。
美しさなど、自分の内にはない。だが、そう思うほどに美しい者に対して嫉妬を深め、また憧れもする。その相反する感情がイビを最も苛立たせるのだった。
§ § §
「絡水!」
イビはユリに向けて魔術を放った。対象の足元から口へ水を這い上らせ、身体の動きと呼吸を封じる術である。
「甘いねぇ」
ユリはフワリと跳び上がるとその術を造作もなくかわした。
替わりにユリへ突進して来た兵に魔術の水が絡みつき、もがき苦しめることになった。
「クソ・・・・」
イビは小さく悪態を吐いた。この程度の術を当てられないとは、思った以上に苛立っている。やはり嫉妬などろくなことでは無い。
「おい・・・・悪態を吐いている場合では無いぞ」
隣でオボロが空を見上げていた。その表情は巨大な龍か鬼でも見るかのように恐怖を示していた。イビも釣られるように空を見上げた。
「何だ、これは・・・・どうして気付けなかった」
凄まじいばかりの巨大な鈍い光の収束、練魔だった。宙高くにそれは既に始まっていた。
「と、とめろ! 速くその女を・・・・」
イビは兵達に向け声を張り上げた。
「もう、遅いのさ」
ユリが言った次の瞬間、鈍い光の収束は雲の如き巨大な炎の塊となった。
暴虐的なまでの熱と光にその場にいる者達は空を、太陽が落ちて来たかと見紛うそれを見上げていた。中には悲鳴を上げ逃げ出す兵もいた。
「恐怖に泣き咽びな」
ユリが手を振り上げる。その加虐の笑みに歪んだ顔は、鬼に見えた。
「や、やめてくれ!」
イビは懇願の声を意識することなく発していた。
「炎炎轟轟!」
炎塊の雨霰だった。
だが、その一つ一つは雨粒と言い表し難く、あまりにも巨大過ぎた。一抱えもあるであろうそれは、上空の炎の雲から降り注いだ。
炎塊を身に受けた者は、燃える暇もなく灰塵となっていった。耳をつんざく炎の猛りと、それから逃げ惑う兵達の悲鳴が混じり合い、鼓膜が破裂せんばかりだった。
「イビ、掴まれ!」
イビはオボロが差し出した手を反射的に掴んだ。
瞬間、目の前の光景が炎の地獄から緑の安らいだ森の中へと切り替わる。
瞬転移か。オボロのそばにいて助かった。あれは障壁を厚く張ったところで防ぎ切れるものではない。
「何故気付けなかった?」
イビは再びその問いかけを繰り返した。
「人は見たこともないものからは目を逸らせぬ。美しいものなら尚更な」
オボロは責めるでもなく淡々と言った。それが余計に突き刺さる想いだった。
「すまん。俺も下らぬ男ということか・・・・」
「いや、あれは女である私も目を奪われた。加えて氣法を結んでいる間は魔術が放てぬという常道、いや、思い込みだ。あのユリとかいう女はそれが通じぬ相手だった」
「それらを全て利用して、あの巨大な練魔を気付かれずに行ったということか。あれはこちらの想定、想像を上回っている。あの数の兵では話にならん。全滅だろうな」
「間違えなくな」
「あれに勝てるか?」
「勝てはしない。が、タヂカ将軍の命だ。私達に引くことは許されない。死ぬと分かっていてもな」
「お前は安易と言ってくれる。流石、シノビだな」
イビは堪らず笑みをこぼした。心が安定せぬ証拠だ。
「私もお前もタヂカ将軍に拾われた身。どうせ死ぬ運命だった。それが今に伸びただけのこと」
「そうだな。タヂカ将軍に感謝せねば。独りで死ぬのを、共に死ねるようにしてくれた」
「イビよ。死ぬ時は誰もが独りだ。だが、最期身に刻むのに、その言葉は悪くない」
オボロはイビに手を差し出した。その顔はどこか和らげだった。美しい顔だ。一度、この女を抱きたかった。だが、お互い、タヂカに身を捧げたのだ。それは許されなかった。
イビはオボロの手を取った。練魔が始まる。心なしか、いつもよりその時間は長く感じられた。