十五の話
「ん? なんだい、これは?」
クレハが再び肉の切り身に手を伸ばそうとした時だった。
「よく焼けていませんでしたか?」
ミズキが小さな憂慮を含んだ眼をクレハに向けた。
「いや、そうじゃない」
「婆様、これは・・・・」
ムロも気付いたらしい。
「ああ、人の氣が現れてすぐに消えた。しかも、まるで位置が分からなかった。氣法士、広目を使え! まだ近くにいるかもしれん!」
広目を使える者達が立ち上がり、合掌をして目を閉じた。クレハの勘が働いてしまう。
「皆構えよ!」
クレハの指示に、皆身構えて腰元のウメガイの柄に手をかけた。焚火の揺らめきが大きくなる。クレハは声を上げながら、どうか杞憂であって欲しいと願った。
「婆様、南東だ! こいつは人じゃねぇ! もう来る!」
一族の男が叫んだ。願いは短く散った。それの放つ歪んだ氣はクレハの皮膚を大きく震わせた。風のように凄まじい勢いで迫って来る。
「魔物だ! 術士、援護せよ!」
言い終わらぬうちに駆け出す。が、それの影は既に眼に映っている。
「こやつ、速い!」
瞬く間にそれは炎の灯りに照らされて形を成した。四つ足で地を駆け、顔は赤く全身黒い毛で覆われている。
猿。大猿だ。四つ足でもクレハより背丈がある。二の足で立ち上がればその倍は超えるだろう。速さだけでなく剛力も兼ね備えていそうだ。
躊躇は無しだ。何もさせない。一瞬で仕留める。
クレハは深く呼吸をした。纏う空気が揺らめきを帯びる。大猿までの距離はクレハの脚で十歩ばかり。間合いだ。
「風の型、瞬影!」
クレハはウメガイを抜くと同時に、その姿の残影が生まれる。瞬時に間合いを詰め、刃で大猿の喉元を切り裂いていた。だが・・・・。
「浅いか」
大猿の丸太のような腕の一振りがクレハを襲った。クレハはそれを、身を退け反らせてかわした。
苦し紛れの反撃だ。これは当たらない。だが、クレハの刃が到達する刹那、大猿が身を数寸動かして致命傷を避けるのが見えた。
大猿に見えていたのか? いや、これが野生であり、これが魔物なのだ。勘の類なのだろう。甘かったか。
「石雨!」
雨のように石の礫が大猿を襲った。魔術士達が放ったのだ。
石雨は初歩の地の魔術だ。一人で放てば、この大猿なら意にも返さないだろうが、幾人もの魔術士で放てば石の豪雨となる。
大猿は身を縮め両腕で頭を抱えて動きを止めた。クレハはその隙に一旦距離をとった。
「よし、続けろ!」
ミズキが目を閉じて集中しているのが見えた。その頭上に光の塵が集まっていく。大きな魔術を使うつもりだ。
良い判断だ。あの大猿は強力な魔術でなければ倒せないだろう。
だが、強力である分魔術を練り上げるのに時間がかかる。その間、放つのに時間が短い術で足止めをする。常套手段だが、最も効果的で最善だ。
「婆様、今度は東からです! 数が多い!」
ムロが叫んだ。
「何だと!」
クレハは広目を用いてグルリと周囲に意識を飛ばした。
瞬時にクレハの肉体に魔物が放つ歪みが伝わって来た。東からだけではない。南、北、西、全方位からやって来る。数は全てで百に達するか。
どうなっている? 長く生きたが、こんなことは初めてだ。しかし、嘆いている暇はない。
「今のうちに馬を山に放て! 人と一緒にいるよりマシだ」
一族の者達が迅速にクレハの指示に従う。
「術士、まだ魔物が来る! 魔術はそちらへ放て! 大猿はワタシがやる!」
クレハは再び大猿との間合いを詰めた。
石の豪雨から解放された大猿は一つ咆哮を上げた。
クレハの肌が痺れたように小刻みに震えた。多少は効いたらしい。この魔物から怒りを感じる。
「それで良い。さあ、その怒りをワタシにぶつけな」
大猿は後ろの二足で立ち上がり、前の二足を振り上げた。その巨躯の目方を全て前足に乗せ、クレハを押し潰さんと倒れ込む。
クレハには大猿の力の流れが見えていた。怒りが込められるとそれはより鮮明になる。
大猿の力が集約しクレハに向かう。その刹那、クレハは大猿の懐へ潜り込んだ。
「水の型、水鏡」
傍目にはクレハが軽く腕を振り上げたようにしか見えなかっただろう。だが、ウメガイの刃に触れた途端、大猿は木っ端のように吹き飛んだ。そして、木々をその巨体でなぎ倒しながら森の闇に消えて行った。
「ふむ、大分飛んだね。大した力だ。人じゃ、ああはいかん」
水鏡は相手の力をそのまま返す。故に相手の力が強ければ強いほどその威力を増すのだ。
クレハは広目で大猿の氣を探った。今の一撃で絶命したらしい。大猿の氣が完全に止まった。
「おお、流石、婆様!」
一族の者達から感嘆の声が上がった。
「よし、皆魔物を迎え討つぞ!」
「おお!」
今ので士気を上げてくれたようだ。
クレハの頭にはそれと相反するように最悪が過ぎった。どのくらいもつだろうか? 何人が生き残るだろうか? もしかしたら全滅も有り得る。
しかし、最悪が浮かぶのならそれを避けることも可能なはずだ。最悪から最善を導き出せ。
「六花!」
そのクレハの合図で、一族は魔術士達の周りに円を成した。更にその外側を六人が六角形を成すように立つ。その六人はいずれも氣法が使える一族切っての猛者達で、クレハはもちろん、ムロもその六角形の頂点の一つを担った。
戦闘能力に優れる前衛の六人で迎え討ち、分厚い中衛でそれを補助すると共に後衛の魔術士を守り、守られた魔術士は時間をかけて強力な魔術を練り上げて放つ。シメグリの一族が敵に囲まれた際に用いる陣だ。
「来るぞ! ミズキ、まず一つデカいのを頼むよ」
ミズキは目を閉じたまま頷いた。いつでも放てるようだ。他の魔術士達も魔術の準備を始めていた。
魔物の群れの臭いと音が空気を通して伝わる。そして影が見え、姿を現した。巨大な猪、大百足、大蛇。周辺の魔物が全て集まって来ているのか?
「豪雷・煽!」
ミズキが腕を払うと同時に雷が地と水平に走った。劈くような音と眩むような光が魔物の群れを襲った。雷の帯はそれに触れたものをことごとく焼き貫いた。魔物の黒く焼け焦げた骸の山が一瞬にして築かれた。
雷を呼び、更にはその軌道を自在に操る。そんなことが出来るのは一族でもミズキただ一人だけだ。都を探してもそうはいないだろう。見事なものだ。クレハは心の中で褒め称えた。
「まだ来る!」
焼け焦げた死骸の山を魔物が乗り越えて来る。怯む様子はない。これが魔物の恐ろしいところだ。
人でも、野生の獣なら尚更、命を守る本能を持っている生物なら今の魔術で脚を止めてしまうか逃げ出すだろう。しかし、魔物は別だ。勇敢はもちろん蛮勇ですら当てはまる言葉ではない。もっと命の在り方、その本質が通常の生物と違うのだ。
クレハは長い人生の中で幾度となく魔物と対峙している。その中で気付き、それを確信へと固めていることがある。
魔物は人を、他の命を害することそのものが目的で生きているのだと。
北からやって来た大猪の魔物達へ、クレハは斬り込んだ。数の多い相手に対しては最小限の動きで相手の力を利用して急所を狙う。一体、二体、三体・・・・と拍子を刻むように魔物の屍を築く。その早い拍子で生まれた隙を使ってぐるりと見遣り戦況を確認する。
流石この一族は強い。押されることなく迎え討っている。皆日頃から鍛錬を怠らない。易々と魔物などにやられる者などいない。
サンキを用いた刃が煌めく。魔術の大岩が飛び、風が槌を為す。魔物の牙と爪がそれらとぶつかり合った。
「魔物に情けも容赦もするな!」
魔物は命の一雫でも残っていれば人に喰らい付いて来ようとする。クレハは長年の経験により身に染みて分かっていた。一族の者達もそれは理解している。皆己が持てる最大の技と術で魔物の命を消していった。
だが、人の持てる力は無限ではない。どれほどの時間が経ち、どれほどの魔物を討っただろうか? それを数え忘れた頃だった。
「むっ、南が圧され始めたか」
南の前衛を務めていたのはムロであった。ムロのサンタイ地の型は、おそらく一族で最も強力な破壊力を誇る。それを持ってしても圧されるか。長引けばこちらが不利になるのは確実だ。
「術士! 北はいい。南へ魔術を向けろ!」
指示通り魔術が南へ向けられる。クレハはウメガイを鞘に納め直立不動になった。
「さてと、しょうがない。大技いこうか。氣法、三の輪・・・・」
クレハが息を深く吸い込むと、見る間に彼女を包む空気の揺らぎが拡大していった。さしもの魔物達もそれに何かを感じ取ったか、一瞬その動きを止めた。
「水の型、槍水面」
クレハが両手を広げ前方へ突き出すと無数の小さな光の槍が水しぶきのように飛び広がった。魔物達はそれに刺し貫かれ、蜂の巣と成り果て動かなくなっていった。
「これでこちら側は粗方片付いたか・・・・」
息を一つ吐く。途端にクレハの鼓動が速くなり、息が乱れた。
「三の輪でこれか。歳はとりたくないね」
再びウメガイを抜く。南だけではない。六花の陣にほころびが生じている。皆疲れている。振るう刃は鈍く、放たれる魔術の数も減っている。
対する魔物もその数を減らしてはいるが、疲れなどはまるで見られない。それどころか、人の血を見るたび激昂しその力を増しているようにも見える。
やはり厳しいか。何人か命を落とすことを覚悟しなければならないのか?
「いや!」
魔術士の女の悲鳴が上がった。大百足がその眼前まで迫っていたのだ。大百足の足元にはその突進に倒されたのか、何人かの男が地面にうずくまっていた。
「しまった!」
クレハは声を上げると同時にウメガイを振りかぶっていた。だが、これでは遅い。