十の話
「来い」
牛頭法士は野太い声で言うと、両手を広げて仁王立ちになった。どこにでも打ち込めそうで、どこにも打ち込めない。それはヒナノにも分かった。離れているのに押し潰されそうだ。
ゴウは半身になって拳を構えながら動かなかった。自分の倍近い巨躯を相手するのだ。向かい合うゴウはヒナノ以上の圧力を感じているのだろう。
「あの大きな懐には俺達二人がかりで、尚且つ不意打ちだからこそ飛び込んでいけたんだ。餓鬼一人じゃ無理だ」
テンは空気に向かって語りかけるようだった。
クレハ婆は、テンユウ兄弟の戦い方はゴウよりも上だと言っていた。そんな人が実際闘って言うのだ。牛頭法士の実力は本物なのだろう。
突然、ゴウの体が大きくなった気がした。深い呼吸をしている。あれは・・・・。
「あの餓鬼、氣法を・・・・」
テンが驚きの声を漏らす。
氣法? 確かシメグリの一族の中でもクレハ婆や何人かの大人が使えた。だが、鍛錬の足りない者や子供には、それはどんなものかすら教えてもくれないはずだ。
「ほう、あの年頃で氣法を使えるのかい。だけど、あれじゃ、不安定過ぎるねぇ」
ユリという女がゆるりと言った。不安定かどうかまではヒナノには見抜けない。
だけど、ゴウは確かに誰からも教わってもいない氣法というものを使っている。あれは見様見真似で、自己流で使えるものなのだろうか?
ゴウが動いた。そう思った瞬間、その拳は牛頭法士の腹に到達していた。
「地の型、正突」だ。まるで大岩を叩くような重い音が、ゴウの拳と牛頭の腹の間から鳴る。
だが、牛頭法士は踵を後ろへ一尺ばかり滑らせただけで、その眉根すら動かさなかった。反対にゴウは驚いたように目を見開いていた。
「そんな。ゴウの正突がまるで効いてない・・・・」
「・・・・確かに効いちゃいないが、あの餓鬼かなりやる」
テンの声は驚きの為なのか、押し潰したように震えていた。
「ああ、俺が氣法を使って思いっ切りぶっ叩いても、牛頭法士は一歩も脚を動かさなかったからな」
ユウの表情からも驚嘆が読み取れた。
「マサクニ、あの餓鬼、ゴウって言ったか? あのゴウなのか?」
「そうだよ。あのゴウさ」
「そうか。どうりでな」
テンユウ兄弟はゴウのことを知っている様だった。ヒナノとゴウが小さい頃に、このテンユウ兄弟が一族から追い出されたのだから、知っていてもおかしくはない。
しかし、その口ぶりからすると単に知っているだけではなさそうだ。ゴウは小さい頃から目を付けられていたのだろうか? 有り得ないことではない。
とにかく、ゴウはこの兄弟を驚嘆させるほど強い。
だが、ヒナノは気付いてしまった。牛頭法士を僅かに動かしただけで強さを証明されるのだとしたら、逆を言えば牛頭法士の強さは計り知れない。
ゴウに目を戻す。彼は僅かに間合いを取ったが、今度はすぐに動いた。
踏み込みながら牛頭の膝へ前蹴りを放つ。と思った瞬間、ゴウは腰、みぞおち、胸と、牛頭法士の巨体を蹴り登っていた。
「風の型、揚雲雀」
牛頭の顔の高さに達したゴウは、その大きな顎を蹴り上げた。天へ向いた牛頭の顔の真ん中で、その眼だけがゴウを捉えていた。
牛頭法士はまだ空中にいるゴウを掌で払い落とした。
小石、砂、土が舞い上がり、ゴウは地面に叩き付けられる。
が、ゴウはすぐにその砂土の雨を抜け出して、牛頭に拳を打ち込んだ。
牛頭法士は石の塊のような前腕でそれを防ぐと、暴風を巻き起こしながら膝を突き上げる。
ゴウは風に乗るが如く、それに片手をつき逆立ちになると、倒れる勢いをのせて牛頭の肩口に踵を落とした。
「ふん!」
牛頭法士は低い唸り声を上げながら半歩踏み出し重心を前に移動させると、ゴウは三丈ばかり吹き飛ばされた。
ゴウは宙で身を丸め後方へぐるりと回り勢いを殺すと、辛うじて地面に足を付いた。
「蹴りを当てたゴウの方があんなに吹き飛ばされるなんて、水の型みたい」
サンタイ水の型の技は、相手の力を利用して闘うことを主としている。使いこなすには相手の呼吸や力の流れなど即座に読み取り、適切な力の流れと加減をもって技を繰り出さなければならない。それ故、サンタイの型の中でも難度は一番高いとされている。
「ありゃ、剛力だけの化物じゃねぇな。底が知れねぇ」
テンが舌を巻いた。
「うむ。さっきの蹴りは中々良かった。俺の氣法も少し見せよう」
牛頭法士は深く息を吸った。
その瞬間だった。凄まじい空気の膨張か嵐が巻き起こったようだった。
牛頭法士の発するその何かに、ヒナノは喉を締め上げられたかのように息が止まった。
「ななななな、なんだこりゃ! 冗談じゃねぇぞ! これが・・・・」
テンが目を剥きながら叫び声を上げる。
「そう。これが牛頭法士の氣さ」
ユリはポンと軽くヒナノの背中を叩いた。途端に空気が肺に流れ込んで、それに驚いたように喉の奥から咳が溢れ出た。
「嬢ちゃんはもっと下がってな」
ユリは気遣って言ってくれたのだろう。それは分かっていたが、ヒナノは何故か酷く腹が立った。
「だ、大丈夫ですぅ。これくらい、ワタシだって」
「そうかい。なら、一瞬も氣を緩めるんじゃないよ。すぐに終わるだろうけどね」
気を緩めない? どうすればいいのだろう? ユリに訊けば分かりそうだったが、それも何か癪に障る。ヒナノはとにかく目の前の光景に集中することにした。それしか思い浮かばなかった。
ゴウが拳を構えながら牛頭法士との間合いをじりじりと詰めている。何かをするつもりだ。目が獲物を狙う獣のようだ。
でも、これでは猫が熊を仕留めようとしているようなものだ。それくらい力の差は歴然なのに、どうしてゴウは立ち向かえるのだろう? そうまでして何を得たいのだろう?
下手をしたら怪我では済まない。止めたいが、今の自分にはそんな力はない。ヒナノは苛立っていた。ゴウにも自分にも。
牛頭法士が腕を振り下ろした。
牛頭の風情からそれはほんの軽い感覚に思えたが、手首から先が見えないほどに凄まじい速さだった。
咄嗟にゴウは横に跳んだ。と同時にゴウのいた地面が弾ける様に、土と小石とが舞い上がった。
「ふむ、避けたか。では、いくぞ」
牛頭法士は立て続けに幾度も腕を振り下ろした。その度に地面が弾た。
「あれは、魔術なのか?」
マサクニが口を開いた。
「いや、空気をつかんで投げてるのさ。牛頭法士は『空弾』とか言ってたね」
「空気を、つかむ・・・・氣法ってそんなことも出来るの?」
ヒナノは言いながら血の気が引いて行くのを感じていた。
「あれ自体は俺でも出来るぜ。思い切り腕をぶん回せばな。けど、ああやって小石を投げるように軽々とやれる芸当じゃねぇ。畜生、どこまでもデタラメな野郎だぜ」
そう言うユウもかなりの巨躯であるはずなのだが、身が縮んで見えた。
ゴウを空気の弾が襲う。身を捻り、跳び、地面を転がってそれをかわしている。
「ゴウにはあれが見えているの? ワタシには全然見えないけど」
ヒナノはゴウから眼を離さず言った。
「あれは俺らにも見えねぇさ。おそらく、牛頭法士の腕の振りや空気の震えなんかを感じ取ってかわしてるんだろう。あの餓鬼、とんでもなく勘がいい。牛頭法士は化物だが、あのゴウも充分に化物だ」
確かにゴウはあの空気の弾を避けている。だが、ずっと避け続けられるものじゃない。ゴウの頬や、腕や脚に血が滲んでいた。
空気の弾がゴウの肌を掠めているのだ。直撃するのも時間の問題かもしれない。
「そうか、やっとつかめた」
ゴウがそう呟いたように聞こえた。
牛頭法士が腕を振り下ろす。それに合わせてゴウも腕を振り下ろした。
その瞬間、牛頭法士とゴウの狭間の空間から凄まじい破裂音が鳴り響いた。
「なにが起きたの?」
「あの子、空弾を見ただけで! 間違いない。これは思わぬ者を引き寄せちまったみたいだね」
そのユリの横顔を見ると興奮して上気しているようだった。楽しんでいるのか?
ヒナノにはそんなゆとりなど無かった。ただ自分がよく知っていると思っていた奴が、自分の知らない力を発揮しているという驚きしかなかった。
「牛頭法士さん。俺の負けだよ」