一の話
その道は、彼らと共に在った。
ジン大陸の秘奥シヨウ山地。深い森と険しい山々の間を伸びるその道は、山
間を巡る彼らシメグリの一族によって切り拓かれ、踏み固められていた。
木々が手を組み長く延々と天井を成す元、数百の人と数十の馬とが細く長く隊を形成し、自らが作った道をひたすら歩んでいた。
その身なりは皆一様に柄のない草色で、腰帯に木製の鞘に納められた鉈か短刀の様なものを差し、まだ寒さが残るのか熊や猪など獣の毛皮を纏う者もいた。
彼らの口にする言葉は、荷を背負う馬が時折発する嘶きよりも少なかった。
「あーあ、退屈だなぁ」
その甲高い声に一同の目が向けられた。だが、その目に侮蔑や哀れみはなかった。皆の目はどこか暖かで、微笑む者すらいた。
その声を発したのは一人の少女であった。栗色の髪に眼は丸く黒目がちで、小型の犬を思わせるような人懐っこい顔立ちであった。身体は丸みを帯びつつあったが、まだ果実と呼ぶに相応しい実りの時期は迎えていないように思われた。
「またそれ言ってるの? ヒナノ」
彼女と同世代であろう少女達が言う。
「だって退屈でしょ。歩くだけなんだもん」
「ヒナノ 。この道を私達シメグリの一族が歩くことは、ただ歩くことじゃないのよ」
その少女、ヒナノ をたしなめたのは一見すると妙齢の女性であった。
だが、口の両脇を走る線の深さや歩く歩幅から、辛うじてその実年齢を伺えることが出来た。丸い目や和らげに目立つ頬骨が彼女を若く見せているのだろう。
「分かってるよ、母さん。祈り、なんでしょ? だから退屈なんだって。毎日毎日同じような景色の中をさ、黙って歩くんだよ。ねぇ、ゴウもそう思うでしょ?」
ヒナノ は振り向いた。高く積み上がった荷が歩いているかのように錯覚した。ヒナノの目方の数倍はあるだろう。
同意を求められたその少年、ゴウは、巨大な荷を背負いながらも汗一つ掻かず平然と足を進めていた。
肩までたくし上げられた袖から伸びる日に焼けて引き締まった腕や、吊り上がった目元から野生的な印象を受けるが、その深淵の様な濃い黒眼からは物憂げな、寡黙な性質も想わせる少年であった。
「俺はそうは思わないよ、ヒナノ 。この荷運びは鍛錬になるし、結構楽しい」
ゴウの答えにヒナノ は頬を膨らませて見せた。最も、ヒナノ もゴウがこう答えることは分かっていたし、まるで怒ってはいなかった。一つ年下の、いつも素直で正直で可愛い弟のような奴。それを確かめる為に声をかけただけだった。
「ねぇ、ゴウはここを出て行くとしたら何がしたい?」
ヒナノはゴウの隣へ並んで歩く。母が苦笑いするのが視野の端で見えた。
「俺は、ビャクレイって国にある、フソウっていう世界で一番高い山を見たい」
即答だった。そんな山のことなんてどこで知ったのだろう? ヒナノ は思った。
大方この前立ち寄った町で誰かから聞いたか文献でも読んだのだろう。彼女は自分の知らないことを知っている弟のような奴に、感心と嫉妬が混ざった感情の揺らぎを覚えた。
「山を出て違う山を見たいだなんて変わってるよ。ゴウは」
「俺は大きなものを見たいんだ」
「どうして?」
「自分が小さいって感じられるから」
「やっぱり、ゴウって変わってるよ」
ヒナノ はそうなじりながらも、どこかで感嘆している部分もあった。
それは自然の中で暮らし、自然の中の恩恵を受けているからこそであった。自然の中にいるとどうしても自分の小ささや脆弱さを意識せずにはいられない。
だが、ゴウは更に自分の小ささを感じたいと言う。そんなこと自分は考えたこともない。
「そう、俺は変わり者だ」
ゴウはその言葉を一寸も否定せず受け入れている。それはゴウが人並み外れた怪力だからだろうか?
馬以上に重い荷物を背負って山道を歩き続けられるなんて、そんなこと出来るのは一族でもゴウだけだ。でも、それだけではない気がする。
時折、一族の誰でも考え付きそうにない突破表紙もないことを言うし、纏っている空気も皆とどこか違う。
ヒナノ は思っていた。羨ましい。ゴウに比べたら自分なんて、都へ行きたいただの田舎者だ。
母親や一族の大人達に聞いたが、ヒナノ ぐらいの歳になると一族を離れて山を出たがる者がよくいるのだそうだ。自分は普通のシメグリの一族の子供だ。
「ヒナノ は都へ行きたいんだろ?」
「そ、そう。でも、行きたいのはこのアマツ国の都オウキョウだけじゃないよ。サラサって国の千里浜や、テイワの山脈城壁とか、ナンヨウの緋色街道とか、後、このジン大陸だけじゃなくて西や南の大陸にも行ってみたい」
「西や南の大陸か。海も渡るんだね」
「そうだよ。航海だってしたい」
「ヒナノ はすごいな」
ゴウのその言葉に抑揚はなかった。だが、本気で言っているとヒナノ には分かっていた。ゴウは嘘をついたりご機嫌取りをしたりすることが出来ない性質なのだ。
それに対して自分はどうだ。年上の威厳かゴウへの対抗心か、本当はきらびやかな都へ行ってみたいだけなのに、本心でないことを言ってしまった。ヒナノ は顔が熱くなるのを感じた。
「もうそのくらいにしないかい? 今は歩む。祈りの時間だ」
一人の老女だった。白髪で背丈はヒナノ とあまり変わらず華奢であったが、弓の弦の様にまっすぐな背筋で、眼光は鋭く目元や口元に刻まれたシワは、ただの加齢ではない経験や思慮の深さに起因するものだと感じさせた。
「クレハ婆。だってさ・・・・」
「ん?」
その老女の、クレハの威圧はほんの僅かだったが、ヒナノ の言葉を詰まらせるのには充分だった。
「ほら、ヒナノ 。一族の長には従うんだよ。すみません婆様。私がもっとちゃんと教育しますから」
「いや、ミズキ。子供の心は森羅万象が育てるもんさ。親は見守るしかない。ワタシの注意に耳を傾けてくれたんだからそれでいい」
クレハはそう言うと隊の先頭へ戻って行った。
ヒナノ は一族の大人達には言い返せる。だが、クレハに対してはそれが出来なかった。ヒナノ は歩いていくクレハの背を見ながら思った。小さい背中だけど、大きく感じる。
クレハ婆はいつも厳しく、そしていつも優しい。だから逆らえないのかもしれない。今の自分でははっきり分からないけどそんな気がする。
突然、クレハは足を止めた。