クラクション
クラクションが鳴らされた。
耳と心に障る甲高い音が響いたのは、朝七時台の交差点でのことだった。
音源はバックミラーに映る白い高級外車のSUVであり、右折のタイミングを計る私に対してせっつく意味で鳴らしたのは明白だ。
駅と学校に近いのもあって、かなりの交通量がある交差点だ。通勤通学のラッシュ時間ならなおのことその量は増え、思うように通行することができない事も多い。
私はきわどいタイミングでの右折を避け、矢印灯火が信号機に点灯する数秒を待っていたのだが、SUVのドライバーはそんな私に苛立ったのだろう。
バックミラーを見れば、型落ちの外車に乗っているのはいかにも神経質そうなオバさんだ。
私の乗っている車は明るい色合いの軽自動車なのだが、これがスモーク窓の黒塗り高級車だったりしたら、オバさんは同じようにしただろうか。絶対にそんなことはしないと言い切れる。こういった手合いは卑劣にもちゃんと相手を選ぶのだ。つまり、私はオバさんに「こいつはクラクションを鳴らしても大丈夫なヤツ」と舐められているということである。
なんだか無性に腹が立ってきた。朝っぱらからイヤな気分にさせてくれる。
信号が変わったのは十秒ほど後のことで、その間に二台の対向車が通り過ぎていった。
ささくれた心を自覚しつつ、ハンドル操作に悪い影響が出ないよう慎重に運転するよう努めた。
車に備わった警笛装置を「早く行け」と催促のために使用するなんて自動車学校で勉強し直した方が良いんじゃないか?
やたらと車間距離を詰めてくる後続のオバさんに対しそう思った。
当たり前なのかもしれないが、通勤のために家を出る時間が同じだと、似たようなスケジュールで行動する誰かと毎回同じような場所で遭遇することになる。
まったく嬉しくないことに、私とクラクションおばさんの通勤時間は被ってしまっているらしい。あの日以前は白いSUVを特に意識していなかったので気づかなかったが、ずっと前から遭遇していたのだろう。
その日は一台の車を間に置いた前方に、見覚えのある白のSUVがいた。
交差点内で白のSUVは、私にそうしたように前にいた黒い軽四に向かって短い警笛で急かしていた。そうまでして稼いだ数秒の時間にどれほどの価値があるのかまったく疑問だ。
クラクションで先頭の軽四を行かせたオバさんは、対向車が接近する中、勇敢にアクセルを踏み込んだようだった。
なるほど右直事故が減らぬはずである。
オバさんのパーソナリティを想像するが、どう考えても好意的な人物像が浮かばない。よく見てみれば、SUVも薄汚れている。誇り高き欧州車のエンブレムのくすみがなんとも哀れであった。
もしかしたらこのオバさんは、単調な毎日に飽いていて、通勤でギリギリのスリルを楽しむことで生きている実感を得ているのかもしれない。そんなしょうもないことに付き合わされる周囲のドライバーは不幸だ。
数日後。
ワイパーなしではまともに前が見えないほどの強い雨の中、いつもの交差点で、もうすっかり見慣れてしまった例のSUVと遭遇してしまった。
私との間に二台の車を挟んだSUVは直進対向車の進路を塞ぎそうなほど交差点に車体を突き出し、右折のタイミングを計っているようだった。迷惑過ぎる。
しかし、朝からライトを点けなければならないほどの強い雨の中である。恐れ知らずのオバさんもさすがに今一歩の踏み出しができぬようであった。
まあ、この交差点は無理をせずとも待っていれば確実に右折をさせてくれる良心的な交差点だ。焦る必要などどこにもない。
私がそう考えてハンドルを握る手から力を抜いている間に、進路の邪魔になっているSUVを避けるために大きく右によれた対向車が何台もすれ違っていく。対向車の方々はまことにお気の毒様だ。
三分とかからず、歩行者用の信号が点滅をしはじめた。もうじきに右折用の矢印が点るだろう。
と、その時だった。
不意に思ったのだ。
オバさんは他人に向かって正当な理由なくクラクションを鳴らすような人物だ。
――クラクションを鳴らして良いのは、鳴らされる覚悟があるヤツだけだ、なんてね。
まあ、たとえ外野からクラクションを鳴らされてせっつかれても、以前の時の私のように安全運転を心がけていれば問題ないはずなのだ。
魔が差した、とも言えるかもしれない。己に対する言い訳を入手していた私は、ハンドルの真ん中に右手を置き――――ほんの少しだけ力を込めた。
ささやかな意地悪。
小さな意趣返し。
鳴らした音は短く小さなものだった。雨とエンジンの音に紛れて消えてしまうかもしれない。オバさんが気づいたかどうかも定かではない。
だが。
SUVは発進し始めた。
まさか、と思った私の血の気が引いていく。
なぜなら対向車線には信号無視気味のタイミングで交差点に進入した高所作業車がいたからだ。
私が鳴らしたものとは比べ物にならないほどの大音量のクラクション。けたたましい轟音が交差点に響く。
高所作業車がクラクションを鳴らしている。ハンドルも切らず、減速をしている様子もない。
――アホか。
背中に妙な寒さを感じながらそう思った。
そう思うだけの冷静さがあったのは、これから起こる馬鹿げた交通事故の発端となったのが自分の鳴らした小さな警笛かもしれない、という考えがあったからだ。
高所作業車が発するクラクションはまだ止まない。長い。
まだ鳴らしているのか。そんな事をしている場合じゃないだろ。どうして。
今すぐエンジンブレーキとブレーキを使って減速し、ハンドルを右に切れば、右折中のSUVを避けられるかもしれない。
そう思っていた時だ。
突然のクラクションに驚き怖気づいたのか、SUVが交差点のど真ん中で停止していた。
よりにもよって、そんな所で……!
思い切りアクセルを踏み込んで曲がり切っていれば、助かっていたかもしれないのに。この交差点にはアホしかいないのか。
かくして。
クラクションの音が長く尾を引いたまま、甲高いブレーキ音が短く鳴った。重量物同士が衝突する音に重なった卵の殻が砕けるような存外に軽い音は、フロントガラスかライトが割れる音だ。
衝突の衝撃でSUVは弾かれたように方向を真逆に変えた。フロントガラスがひび割れで真っ白になっている。高所作業車はバランスを崩し、片輪を浮かせながら私の目の前を滑っていった。
高所作業車がガードレールを突き破り、ひときわ大きな衝突音がした。中途半端な回避行動が逆に良かったかもしれない。助手席側の側面からガードレールに当たったことで、歩道の中ほどで高所作業車は停止していた。巻き込まれた歩行者は見えない。良かった。いや待て。下敷きになっているのかもしれない。嫌な想像ばかりしてしまう。
雨の中、砕けたライトの部品やガラスの破片が道路に散らばっていた。
信号が赤になり、右折の矢印がいつもと同じように点灯する。変わらぬ動作を繰り返す信号機は、今しがた足下で右直事故が発生したことも気にも留めていないようだった。
SUVのすぐ後ろにつけていたセダンがハザードを点けて右折すると路肩で停車した。
ああ、そうだ。目の前で事故が起きたのだ。救護義務があるんじゃないのか。
落ち着かない状態のまま、車を発進させる。セダンと私の間にいたもう一台の軽四はそのままSUVの横を通り過ぎていった。
私は遅い速度で車を前に出すと、ハザードランプを点けてセダンの前に車を停めた。
下車したセダンの運転手、作業服姿のオジさんに声をかける。
「すみません。なにか手伝いましょうか」
本心から手伝うつもりがあるのならば、いちいち他人に確認をとらずに黙って行動すれば良い。
だいたい、そんな事を私から尋ねられても、良心で事故処理を手伝うと決めたらしいオジさんだって困るだろう。
案の定、オジさんは困ったように白くなった頭をかき、
「いやーなんか、大丈夫みたいですけどねえ」
交差点を見ればSUVに乗っていたオバさんは、他の車から助けに出た女性に付き添われ、車を降りるところだった。両手で顔を隠しているが、見たところ大きな怪我はなさそうだ。あらためて外車の頑丈さに感心させられる。
高所作業車の方にもすでに何人かが向かっている。
「ああ、そうみたいっすね……」
少し時間を置いたことによって頭も冷えてきた。
SUVの方も高所作業車の方も大事には至っていないことが周りの人々の雰囲気から伝わってきた。
「じゃあ、すみません。行きますんで」
交通整理を始めたオジさんの背中に小さく声をかけると、私は車を発進させた。
そうして私はいつもどおり、安全運転で出社したのだった。
何事もなかったように。
次の日から私は通勤ルートを変えた。
あの日に事故があった交差点をたまに通りはするが、あれからクラクションは聞かない。
おわり