ポストいつか見た瞳、目の前にある背中
屋敷までの道程は、凄惨なものだった。死体と殺し合いのあとが散見され、たまに生きている人間に会えば、梓さんに刃を向けてくる。里に滞在して数日、なかには挨拶を交わすくらいには、親しくなった者もいた。
彼女はそれらを全て斬り捨て、駆けた。
返り血にまみれた修羅は、道にふらりと若い女が現れると、獣のごとき吠え声をあげる。
「邪魔するなら、斬るっ!」
幸い女に襲ってくる様子はなく、僅かに横へずれて、道を譲る。梓さんはそのまま直進した。
――ルドヴィコ・ドーミエ。
「は?」
名前のようなものが聞こえ、一瞬だけ振り返ると、相変わらずのフラフラした後ろ姿が遠ざかっていく。何の意図も感じられない、幽鬼のような背中。
ほんの刹那に抱いた不気味さは焦りにかき消され、梓さんは再び前を向いた。
屋敷の中は、外と同じく、箱衆や国相部隊の死体がところどころに転がっていた。ただ気になったのは同士討ちの形跡がないことで、彼らは頭など身体の一部を破裂させたり、首をねじ切られたりと、明らかに人の力では成せない殺され方をしていた。
梓さんは注意深く歩き、里長の部屋に辿り着く。扉を開き、「籠乃!」と呼ぶと、返事の代わりに何かが動いた。
「な、なに、あんた」
特徴のない灰色の顔を持つ男が、首だけを動かしてこちらを見ている。「籠乃と京子さんをどこへやった!」梓さんが叫び、同時に、目の前から男が消えた。
「!!」
危険を察知して後ろへ跳ぶ。すると、今まで彼女が立っていた場所に黒い影が落ち、木の床をぶち抜く。
梓さんは刀を構え、一枚の和紙を取り出す。
「我逆鵺の理を借り受ける者也。堅牢を裂くは虚空の刃。その名も『飯綱』」
穴の縁に手がかかり、頭が出る瞬間を、真空波が襲った。
「なっ……」
梓さんは声を失う。男は頭を真っ二つにされたにもかかわらず穴から這い上がり、しかも完全に立ち上がった時には、傷はほとんど再生されていた。
まずい。梓さんは急いで部屋から脱出し、出た先の廊下で横っ飛びに跳んだ。バリバリと音を立て、廊下の壁が拳に薙ぎ払われる。
「私の知ってるゴーレムは、会話くらいは出来たものだけど」
冗談を言いつつも、彼女は逃げられないと悟っている。そのくらい、身体能力に差がある。
「よし」
覚悟が決まり、刀が青眼に構えられる。と、ここで始めて、灰色の男は無機質な声を出した。
「アナタノ、オナマエ、ナーニ」
あまりにも見た目にそぐわない言い回し。梓さんは肌に粟を感じながら、油断なく敵の動向を見ている。
「ワタシガ、コワイカ」
明らかな挑発だった。裏家業のプロが負うはずのない、名前を知られ、つけ狙われるというリスク。しかし彼女は挑発にのる正当な理由を求め、リスクという言葉を千客万来、商売繁盛に置き換える。
そのくらい、ここまでの経緯は彼女を怒らせていたのだ。
「波刃木、梓」
「アラタナキョウイ、ハバキアズサヲトウロク。キョウイレベル『チョットハアソベル』」
いいわよ、存分に遊んでいきなさい。格上を倒す為に鍛えられた鋼は、相手の侮りを逃さない。
灰色の男が動く前に、明らかな死角から首筋へと、銀の閃きが空を走った。
「……」
鋭く細めた双眸が剣先を睨み、そこにはもう、何もない。まるで誰かに回収されたかのように、灰色の男は忽然と姿を消していた。
急速に熱が冷めてゆき、「ふん」と忌々しげな息がつかれる。梓さんは刀を毒鞘におさめ、足取りは屋敷の外へ向かった。
避難場所として知らされていた木が見えると、梓さんの足はますます速度を上げた。呼吸は乱れ、鼓動は早く、頭の奥がジン、と痺れている。
あずさぁ。京子が涙目で見上げた時、彼女は全てを悟った。来るのが、遅すぎたのだと。
木の根に座り込む籠之の腹部は、夥しい血で染まっていた。それでも籠之はすがりつく娘の頭を優しく撫で、穏やかな顔を梓さんに向ける。
「何という顔をしておるのだ」
「だって、あなた……」
「ふふ。あのルドヴィコとかいう女、とどめを刺さないとは、一体何が目的であろうな。だがまぁおかげで、私は私の責務を全う出来る」
ゴホッ。咳き込み、血を吐く。もう喋らないでと懇願する梓さんに、籠之は首を振って言った。
「私はもうすぐ死ぬ。死ねば私の中の化け物が外に出てしまう。だから梓、分かるな?」
もちろん梓さんは分かっていた。何しろ国相部隊から受けた命令の中に、緊急事態の対処法として、それは含まれていたからだ。だからこそ彼女は涙ながらに首を振る。
「分からないわ」
「お前の刀は精神生命体を貫くことができる。そうだろう?」
「でもあなたの肉体も傷つける。私の手で、京子さんの目の前でなんて、そんなこと。背負えるわけないでしょう!」
籠乃の瞳から光が失われていく。彼女は残された力を振り絞り、縋るように言う。
「化け物は世界を破滅させると伝わっている。私は京子の未来が欲しい」
里という狭い世界の中で、ただ娘だけを生き甲斐として生きた女の、最後の我儘であった。
お母さん、お母さん。段々と呼吸の浅くなる母を、娘は声を枯らして呼び止めている。その後ろで刀は静かに抜かれ、嚙み締めた唇からツゥっと血が流れた。
近づいてくるアルトに、京子はもはや悲鳴もあげず、枯れた瞳がただそれを見ている。全てを思い出した彼女は育ての親を恐れ、憎み、そんな自分を憎んだ。
醜い自分から逃れるにはもう、別の人間に変わるしかない。もう一つの人格と融合して、背負ってもらうしか道はない。
京子の隣には籠乃の映像があり、アルトは梓さんの姿をしている。当時と全く同じ光景は、彼女にこう、思わせる。あの時、気絶させられるまでの短い間、自分はきっと、請うたに違いない。お母さんと一緒に、逝かせてくれと。
諦め、受け入れ、京子の瞼が落ちる。いま起ころうとしている現象は、前に栞が仕掛けてきた攻撃と同質のものであろう。身体の中に「閉じ込めていた」時と違い、融合すれば、アルトは完全に肉を得ることになる。世界が終わる。それもいいかと思った。
投げやりな気持ちで待つ京子だったが、しかしその時はなかなかやってこなかった。ノロノロと目を開けてみる。そこには京子が諦めた未来を、守ろうとする背中があった。
「あずさ、さん?」
「あなたには私がこう見えていたのね。そして籠乃の中にいたものは、あなたの中に移っていた」
背中は悲しげに語り、それから力強く言い切る。
「私は私にこれ以上、京子さんを傷つけさせない」
「お前が傷つけたのではない。京子が勝手に傷ついたのだ」
その甘やかしは罪だぞ。アルトは黒刀を片手に、フワリと踏み込む。とっさに刃を合わせた梓さんの口から、「あ」と声が漏れた。
家伝の刀が粉々に砕け散り、月光を受けてキラキラと地面に落ちてゆく。
「子は親ほど強くなれない。レプリカであるお前の刀が、無辜の剣に敵わぬようにな」
ズブリ、肉を貫く音が聞こえ、京子の目の前にある背中から、黒い切っ先が飛び出す。梓さんは血を滴らせながら後退し、なんとか京子の横に座り込む。
実の親と育ての親が、子を真ん中に並んだ。
子は親ほど強くなれないですって?身体から急速に力を失いながらも、梓さんは最後の一滴まで女傑であった。
「子は親を超え、親はそれを望むものよ。ね、京子さん」
京子を見つめる優しいまなざしが少しずつ、下がっていく。
「あなたは強い」
その言葉を最後に、梓さんは動かなくなる。京子には、何が起こったのか理解できなかった。
「あずさ?」
手を伸ばして肌に触れるとまだ暖かい。幼いころから慣れ親しんだ暖かさだった。この温もりは不快だろうか。彼女と過ごし、笑いあった日々は、偽りとして色褪せてしまっただろうか。
京子は気づいた。憎しみや恐れは確かに存在していても、比べれば些末で、下らぬものであったと。
……やはり自分は、波刃木梓が好きなのだと。
この段になってようやく気づけた大切なものが、彼女の手からどんどんこぼれていく。涙の膨れ上がった目が、大きく開かれる。
「あずささん、あずささん。あずさ、ねぇ、あずさ」
月光に照らされた木の根元で、母を揺する娘の声。
それはやがて、絶叫になった。




