ポスト彼女の中の、一番の恐怖
ゴッディ・トローラー。網にかかった獲物を連れて、神の漁船は砂漠の空をゆく。冠した名を冒涜だと糾弾するならば、地上より彼の月器を繰る男は「とんでもない」と笑うだろう。
曰く、死神だって、神には違いなかろうと。
空を見上げた梓さんは強烈な不快感に襲われた。現在、国相軍および里の人間たちは、結界の境界付近にて砂漠のゲリラと交戦中である。その最中、彼らの立っている場所に、さっと落ちた大きな影。見上げれば、金属質の光沢を放つ、謎の飛行物体があった。
(なんて禍々しいの)
梓さんが眉をひそめると同時、隣からなんだかおぼつかない、吐息じみた音が聞こえてくる。
「お、俺も、やり、ます。かかみの、そそ、そのへ」
里の若者は空を凝視して、口からは唾液がこぼれている。「大丈夫?」梓さんが声をかけようとした次の瞬間、若者の手が刀の柄に伸び……結局のところ、抜かれず終わった。背中から胸にかけてズブリと突き出た刃が引き抜かれると、彼は「忝い」の一言をもって地面に倒れ伏し、老兵はただ静かに「未熟者めが」と吐いた。
梓さんはとっさにとった迎撃の構えを解き、「いったい何が」と問う。
「洗脳系の月器ですな。心の弱いものは魅了され、操られる。ワシの孫のように」
「そんな……お孫さんを斬ったのですか!」
「こやつも承知の上じゃよ。ワシらには生まれながらにして課せられた箱衆としての使命がある。それは肉身の命よりも重いのじゃ」
「里長……ですか」
「正確には里長の中におる化け物じゃな。あれを外に出さないことこそ、ワシらの本懐」
老兵は遠い目で、戦場を見渡す。至る所で上がる悲鳴。味方だった者から突然の攻撃をうけ、周囲は既に地獄絵図であった。
「里はもう、駄目じゃろうて。こうなればせめて、里長だけでも脱出させねば。刃波木さん、託せるかの」
――ワシらの使命、生きた意味を。
梓さんは屋敷までの道を疾走する。籠乃は最優先防衛目標だから。老兵の思いを汲んでやりたいから。
いや――。
「友達だから」
お願い籠乃、無事でいて!梓さんはひた走る。
あの時の感覚は、まどろみの中でもはっきりと、頭の奥深くに残っていた。
「籠乃っ!」
目を覚ますと、目の前にビールの空き缶が並んでいる。横から手が伸びてそれらをさらい、ビニール袋に入れた。
梓さんはまだ残っているカップ酒を掴もうとし、指先が触れる瞬間、空振りする。見上げれば宝蔵槍子が腰に片手をあて、睨んでいた。
「もうやめときな」
夕方頃とつぜん押しかけてきて、酒盛りを始めた梓さんは、普段あまりよろしくない飲み方をする宝蔵槍子からしても、よろしくない飲み方をしていた。理由を聞けば、あまり話したがらない様子であったが、どうもここ数日、家に帰ってないらしい。
京子と顔を合わせてないらしい。
「で、誰なんだ。籠乃ってのは」
しばらくの沈黙があった。無表情が宝蔵槍子を見つめ、そのままの顔で、口が開いた。
「京子さんの、実母」
一瞬固まった宝蔵槍子から、長い長い溜息が出る。彼女は掃除の手を止めて、ドッカと胡坐をかいた。梓さんの前、テーブルの上に、先ほどのカップ酒が帰ってくる。
「飲め」
トクトクトク。二人分のコップに酒が注がれる。「あんたも飲むのね」梓さんが呆れているうちに、宝蔵槍子はさっそく一口流し込んだ。いつも数学教師の二宮にたしなめられる、おやじ臭いプハァっをやると、彼女の視線はチラと壁に向けられる。刀が一本、立てかけてあった。
「斬ったことが、あるんだよな」
「……」
「見られたのか?」
またも返事はない。宝蔵槍子は苛立たしそうに煙草に火をつけ、彼女の部屋に煙が漂う。
「私はずっと、お前の仕事に反対してきた。なんでか分かるか」
「危ないから。それに、京子さんに悪い影響を与えるから」
「違う。そうやって、仕事を理由に三剣から逃げるだろ」
「……私は別に」
出し抜けに、梓さんの携帯が鳴る。画面はスマッシャーの文字を表示していた。
「はい、私だけど、どうかしたの」
もちろん電話は偶然だろうが、宝蔵槍子はなんだか逃げられたような気持ちになって、イライラを収めるためにもう一杯、口にする。目を瞑り、心を静めていると、大きな声が聞こえた。
「いなくなったって……あなた、うちの流派を舐めてるの?ゴーレムだからって気を付けてないと聞き落とすくらいの消音術を……ああっ、もういい。いま出るからあなたも探すの手伝ってちょうだい」
通話が終わる。「槍ちゃん、急で悪いんだけど、少し出てくるわ」梓さんはそそくさと立ち上がり、そこへ、刀が放られる。刀を掴むと、驚いた顔が宝蔵槍子を見た。
「反対してたんじゃなかったの」
「もし振るうことになっても、それは守るためだろ。だったらもう、私は何も言わないよ」
「ふふ。まぁ、すぐに見つけて戻ってくるわ。その時は」
親と担任のダブル説教だな。宝蔵槍子の言い草にクスクス笑いつつ、梓さんはアパートから出る。
空には寒気がするほど大きな満月。一瞥すると、彼女は生温い空気の中を、駆け出した。
つっこの指先が額に触れると、栞の身体は細かい光の粒になり、消えた。
「かもめ?」
いったい何をしたんだ。という目をラーメンが向けると、彼女は「帰った」と言う。
「居るべきところ、あるべき自分にね」
「よく分からないけど、消えたってことだよな。それじゃあアレは、なんだ」
京子の前に、黒いモヤのような塊が浮いていた。「京子、早くそこから離れて」つっこが呼びかけるも、京子は殻に閉じこもるように膝に顔をうずめている。
仕方ない、抱きかかえてでも。ラーメンが、京子のいる木の根元に近づく。
「ったく、気味悪いぜ」
まるで不吉の塊だと感じつつ、モヤの傍を通りすぎる。
――来るな。
「は?」
今のは誰が、と思った瞬間、ラーメンに向かって竹刀が矢のように飛んできた。身を捩って避けると、背後でパシっと掴む音。危険を察知した彼は振り返り、そして彼の視界は落ちていった。
両足を切断されたラーメンは地面に手をつき、見上げる。京子によく似た顔の人物が見下ろしている。
「京子の中にいた、精神生命体だ」
彼、または彼女は、問われる前にそう答え、「アルト」と名乗った。
「テラの因子を引くゴーレムよ。貴様の友人にも精神生命体を宿す者がおるだろう。我らは一時的に身体を造り出すことが出来るが、私は力を封印されていた。今の状況はこの土地の性質と、あの娘の月器、それから増幅された京子の負の感情が重なった、奇跡なのだよ」
「はは、何いってんのかさっぱりわからねぇ」
だけど京子に手を出そうってんなら。這ってでもアルトの足に組み付こうとするラーメンの手を、純黒の刃が縫い付ける。
「ぐあああっ」
「気をつけろ。無辜の剣はほとんど万全の状態を取り戻している。そして――」
黒刀が抜かれ、アルトの手がラーメンの首を掴み、持ち上げる。
「この身体をとどめているのは私だが、操っているのは私ではない」
細い腕のどこにそんな力があるのか、ラーメンはアルトによって砲弾のように投げ飛ばされ、つっこの傍に激しく打ち付けられる。「雪尾!」つっこは悲鳴をあげ、すぐに、「京子、早く逃げて!」と叫んだ。
ああ、愛しい君よ。アルトは悲しげに首を振る。
「いくら呼びかけても無駄だよ。さっきも言ったけど起こっている現象は全て、京子の恐怖や怒りが生み出したもの。今や全てを憎み、恐れている彼女には、君の声さえ届かない」
ここを出て、今までの関係に戻れるかどうか、それすらも怖い。
そうだろ?アルトが軽蔑の眼差しを向けると、京子の顔がゆっくりと上がる。虚ろの瞳にアルトの全身が映り、やがてそれは、また別の人物に変化した。
アルトは自分の身体が誰に変わったのかを悟り、笑い出す。
「お前は。お前はなんと弱いのだ。醜いのだ。この世で一番怖いものが、憎いものが」
――育ての親だとはねっ!




