ポストどこかの研究施設にて
朝が来ると、栞はインスタントコーヒーと、ミルクココアを淹れる。大型のテレビをつけ、トースターで食パンを焼いていると、寝ぐせ全開の母親が二階から降りてくる。まだ半分しか開いていない寝ボケ眼が栞の横を通り、ミルクココアをとって自分の椅子に座った。
「ふつー逆じゃん?イメージ的に」
自分はインスタントコーヒーに口をつけ、栞が言う。彼女は女子中学生、母親はとある研究所の研究員だった。
見た目もさることながら、栞は、自分の母の中身は自分より年下が入ってるんじゃないかと思うことが多々あった。今もベッと舌を出し、ふくれ面でそっぽを向く仕草が目の前にある。
「頭のいい人はカフェインより糖分なんですー」
やれやれ。栞が呆れているとテーブルにココアが置かれ、母親は慌ただしくトースターからパンを引き抜いた。
「じゃあ、行ってくるわね。世界を救うお仕事に」
パタン。ダイニングの戸が閉まる。「寝ぐせくらい直せばー?」と愚痴る栞の隣で、つっこは母親の出て行った方向を見ていた。
「可愛いお母さんだったんだね」
大人になれなかっただけだと栞は言う。それから、何が世界を救うお仕事なんだか、と溜息を吐いた。
「研究所に籠もりっぱなしのお父さんも、夫婦そろって一つのことしか見えなくてさ。お母さんの実家の夜乃目家は回生家の血縁にあたるから、お母さんにもヒーラーと同じ月器が精製できるはずだって。今思えばほんと馬鹿じゃん?現代科学じゃ説明できない力に、DNAとか、現代科学を根拠に挑もうなんて、超矛盾ってかんじ」
「でもお母さんは本気で世界を救おうとしてたんだよね」
「……一人娘の孤独も救えないくせにね」
「それでもあんたは、純粋な心を持つ母親が好きだった」
「……」
静かになったダイニングに、ピンポーンとインターホンの音が響く。
「栞、起きてるかー?」
玄関のカメラと連動する液晶画面は、釣り目に金髪の女子中学生を映していた。「彼女は?」つっこがきくと、「あれがヒーラーの持ち主、回生穂積。この時はまだ本名を隠していたけどね」栞は複雑な表情をする。
世界を救う力を持ちながら、穂積は自身の存在を世に示そうとはしなかった。つっこは頷き、もう一度液晶画面を見る。
「きっと、力を手にしてはじめて分かることもあるよ」
栞、寝てんのかー?親し気な声はまだ呼び続けている。
第七実験室の入り口で、栞は穂積とすれ違う。「ごめんっ、手遅れだった……っ」涙まじりの声が耳に残り、栞は当時とまったく別の感情がわくのを感じた。ヒーラーは肉体を再生させるが、魂までは戻らない。そうだろうし、それでいい。大それたものを望むべきではないと、今の彼女は事件が起こる前の考えに戻っていた。
中に入る。よく分からない機材以外に余計なものはない、殺風景な部屋は色も単調な白一色だったが、中心の床だけ大きな赤いシミができている。
二人は少し離れた場所から、しばらくの間それを眺めていた。
「よくこんなところに子供を通したよね」
やがてつっこは視線を変えず、ポツリと切り出す。栞の方も惨劇の跡から目を離さずに答えた。
「事後検証はもう済んでて、あとは清掃待ちだから。あ、倫理観の話ならここの奴らに言ったって無駄っしょ。両親と一緒で『一つのことしか見えてない』連中だから」
栞はそこで、クスリと笑う。
「お前はどうなんだって思ったっしょ。復讐ばかり考えてるだろって」
「それは」
「分かってるってー。でもなんか頭が冷えたっていうのかなー?奪われるって分かったら、自分の間違いが客観的に見えてきたっていうかー」
客観的だってー如何にも科学者の娘ってかんじー。ケラケラ笑う栞は次の瞬間、つっこの発言にギョッとなった。
「いま、なんて?」
「私はあなたの力を奪わないって言ったのよ」
「え、ちょっと待ってよ。じゃあなんで君はここに……『時間と記憶の混じる空間』に私を呼んだのかな」
「選ばせるためよ」
栞の顔色は一気に悪くなった。精神的なリンクにより、彼女はつっこが何者であるかを理解し、あがなえない相手であると諦めていた。だからこそ他人任せの気軽さがあった。
しかし、彼女の遥か上位に位置する支配者は、それすら許さないと言ってきたのだ。
「君、厳しすぎるっしょ」
項垂れる栞の向こうで、赤いシミから液体が浮かびあがる。月の民の血液は、過去に栞が発したであろう原初の波動を受けて凝固する。形どったのはコンタクトレンズのような膜。そしてこの膜は、黒い煙のような渦をまとっていた。
黒い渦が、栞に近づいてくる。
「あのとき私に聞こえた声は、復讐を望む声だった。月の民を道具として扱う人類を滅ぼせって」
「今は何と言ってる?」
「聞こえない。でも、やっぱりお母さんは、あんなことは言わないっしょ。世界を救うんだって、毎朝目をキラキラさせて出かけて行ったあの人が、人類を滅ぼせだなんて。ねぇ、君には聞こえるんだよね。お母さんは本当はなんて言ってるの」
つっこは目をつぶり、次に目を開けた時、一言だけいった。
「本当の私を見て」
やっぱり。薄っすら笑う栞に黒い渦が接近する。
「こんな簡単なことに今まで……」
栞ちゃん!手を伸ばすつっこの目の前で、黒い渦は栞の瞳に吸い込まれていく。空間が役目を終え消えていく中に、栞の自嘲が一つ、紛れていった。
こんなのひどい皮肉っしょ……。
終電の時刻を過ぎた駅前に、人通りはほとんどない。
「うんうん、元気だよー。そんな、落ち込んでばっかいられないって。色々とやり直さないといけないんだから……うん、分かってる。夢はちゃんと引き継ぐから安心して?」
傍目には何もない場所にニコリと微笑んでから、栞は自分をじっと見る男性に気付いた。彼は眼鏡の縁をずりあげ、首をかしげる。
「誰と話してたんですかな」
「んーちょっとねー」
はぐらかしながら、栞は彼が以前この場所で会った妻子持ちの中年男性だと気づく。身を粉にして働く苦労を家族に分かってもらえない。彼の心には、いまだ大きな穴が見えた。
「おじさん、電車は」
「ああ、残業で終電を逃してしまいましてな。途方にくれていたのですよ」
「家には車、あるんでしょ。家族に迎えにきて貰えば?」
「ありますが、電話に出てくれるかどうか……それにもし出てくれても迎えになど」
「電話、してみなよ」
栞はまっすぐに男性をみる。目があって、疲れ果てた男性の瞳に、少しだけ色が戻った。
「……そう、ですな。やってみます」
あ、ああ、私だ。こんな時間に済まない。実は終電を逃してしまって……い、いやいやいいんだ。どこか適当なところに泊まるから。え?いや、それはまぁ、家の方が疲れはとれるだろうが……ああ、うん。いやそんな、こちらこそ申し訳ない。うん、分かった。それじゃあ後で、ありがとう。
「私は家族を誤解していたのかもしれない。本当にありがとう」
中年男性は何度も礼を言い、手を振りながら、奥さんとの待ち合わせ場所に走っていった。栞もなんだか満たされた気持ちになって手を振っていると、後ろの階段から声がかかる。
「こっちの方が気持ちいいだろ」
「うわっ、穂積。盗み見とか趣味悪いっしょ」
むくれる栞を無視して、金髪つり目の女はニヤニヤと近づき、肩に手をまわした。
「これで回生と夜乃目、癒しの二家が揃ったわけだ」
「別に君とつるむ気はないんだけど」
「そんなこと言うなよ」
穂積は少し真面目な顔になり、「回生に心の傷は治せない」と言った。
「な、頼むよ」
手を合わせる穂積にそっぽを向き、栞は「しょうがないなー」と息を吐く。昔のやり取りが戻ってきたようで、少しの嬉しさを隠しながら……。
「やたっ」
「ちょ、ちょっと抱き着かないでよー。そんな趣味ないってばー」
「私にはある!」
「何をカミングアウトしてんの!」
そんな由利百合しいやり取りの中で、穂積はハタと思案顔になった。
「そういや新しい月器の名は何にするんだ」
「うーん、そうだねー。最初はやっぱブランク・フィラーかなって思ってたんだけど」
「けど?」
インヘリター。人差し指を立て、栞がその名を呼んだ時。
母の夢は娘に受け継がれたのである。




