ポストリフレイン
朝がやってくると、梓さんは半分の覚醒を完全な覚醒へと移行させる。立ち上がり、一晩じゅう監視していた引き戸をノックする。
「起きてる?」
「ああ、入れ」
入るなり、梓さんは妙な顔つきになった。寝床の横に座る籠乃は、手際よく編針を動かしながら、「分かっている」と言った。
「似合わないと思っているだろ」
「いえ、そんなことは」
砂漠なのに、と思っただけよ。多少言い訳がましく、梓さんは言う。
「ここは空間的にも外とは若干の隔たりがあるからな。日本と同じでちゃんと四季がある。今のうちに冬支度しておくのだ」
完成すれば子供用の手袋だろうか。梓さんは「あったかそうね」と目を細め、ついで、母の膝で眠る女の子を微笑ましそうにみた。
「お寝坊さん」
「そう言ってやるな。今の状況では寝つけぬのも無理はない」
「あなたはちゃんと眠っているの?」
「ああ。信じるに足る人間が守ってくれているからな。条件がどうとかではなく、護衛が梓で本当によかった」
籠乃に言われ、梓さんは少し赤くなり、それから申し訳なさそうに肩を落とす。
「もうじき私は護衛の任を解かれる。迫島さんが前線にでろと言ってきたの」
「仕方ないな。お前の刀は振るわれてこそ、ということだろう」
今度は里のみなを守ってくれ。籠乃は里長の顔でそういった。
敵、味方。辺りには死体が散乱している。
すまない、私が浅はかだった。古木の下で、籠乃が目の前の二人に謝罪する。屋敷を守っていた善三とその相棒は、敵が侵入してくると、母娘をこの場所へ誘導した。里全体を覆う結界と違い、物理的な防護能力を持つ避難場所は、しかし何者かによって術を解かれていた。
「梓のような人間ばかりではないと、分かっておったのだが」
我々はそれでいいのですよ。善三の相棒が、後ろ姿でいう。
「里には疑心というものがなかった。だからこそ、仲間を信じて心置きなく散ってゆける。里長――」
梓殿に伝えてください。一目見たときからあなたのことを。
告白はそこで途絶えた。血しぶきがあがり、ドサリと崩おれる向う側に、軍刀を振り切った迫島が現れる。
「続きは直接つたえるといい。みな最後は同じ場所に行くのだから」
おや。カラリと軍刀が地面に落ち、迫島は自分の肩に刺さる小太刀に気付いた。目の前には最期の一撃を放った姿勢のまま、死体がうつぶせに倒れている。
「流石は腐っても月の民ということか。しかし、ああ、神よ。ふふふ、この痛みこそ、神の園へと至る試練なのですね」
次第に恍惚となる迫島を籠乃の目はうつしている。
こやつ、誰かに操られているのか。そんな考えが浮かんだ時、善三が刀を構え、倒れた相棒に視線をやる。
「ったく、抜けがけしやがって。だったら俺も、言うこと言っとかないとな」
彼ら里の人間達、特に男は、敵襲に備え、昔から鍛練を欠かさなかった。しかし相手は日本という先進国からやってきた、近代戦闘術を体現する軍人である。
善三は既に、覚悟を決めていた。
「里長、いや籠乃。そして京子ちゃん。俺はあんたらのこと、本当の家族のように思ってましたぜ」
迫島の靴がダンっと地面を踏むと、爪先から仕込み刃が飛び出す。上段の空を巻き込む蹴りは、蟷螂の腕の如く、善三の首筋をかききらんと迫る。
それでも善三の足は、止まらなかった。
「善三っ!」
父のように慕った男の最期は、京子の意識を「現在」に呼び戻し、瞳の中で、友人の姿と重なる。
「ラーメンっ!」
グシャリ、栞の蹴りが頭部に食い込み、彼の身体はまるで人形のように吹き飛んでいった。
へ、へへ。心配するなよ、京子。ラーメンは月に手を伸ばす。悲鳴のように、自分の名を呼ぶ声がさっきから聞こえている。
お前、大変だったんだな。さっき一瞬だけお前の記憶が見えたんだ。目の前で親父みたいに大好きだった人を失ったなんて……つらいよな。忘れたくもなるよな。でも俺は大丈夫だ。俺は死んだりしない。なぜなら俺は……。
潰れた顔面の下で、赤いレンズが怪しい光を放っている。ラーメンはユラリと立ち上がり、口角を上げた。
「ゴーレムだからな」
額にEMEの文字が浮き上がり、それを見た栞はぶるりと身体を震わせる。月の民の本能が鳴らした警鐘に、彼女の声は掠れた。
「な、なによその文字。こけおどしってやつじゃん」
女を殴るのは気がひけるが、奴の正体は既に見抜いている。友人の古傷をえぐられ、彼のうちにわき上がる怒り。思うままにぶつけてやろうと、ラーメンは鋼の足に力をこめた。
「ここでその力を使っては駄目よ。ラーメンくん」
「糸子」
いつの間にか。眼鏡の奥の吸い込まれるような大きな瞳が、ラーメンの非人間的な横顔を見つめている。
糸子はさも当然のように、空間から拳銃を引っ張り出すと、いった。
「額の文字をおさめて。協力して戦いましょう」
ざわりと風が吹き、あたりに満ちていた黄緑の光が一層あざやかに輝きだす。それは、月光に導かれし者たちの戦いを鼓舞するような、あるいは嘆いているかのような。過去と現在の混沌とする情景の中で、つっこは密かに、京子のいる場所へ接近を試みていた。
幸い記憶の映像は時間を経るごとに鮮明さを増し、古木は既に透過性を失っている。つっこは栞に見つかることなく映像の裏に身をひそめると、そこで京子の独り言を聞いた。
「ら、ラーメン、大丈夫、なのか?あいつやっぱり忍者マン……恰好だけ同じって、そんなわけないよな。でもあの身体は……」
「そうだね。雪尾は人間じゃない。でも怖がらないで」
「つっこ」
後ろから声をかけると、驚く顔が見返す。しかし親友の姿を見ても、京子の瞳は惑い、揺れ動くばかりであった。
「つっこは知っていたのか、ラーメンのこと」
「うん。前に偶然、火事があって……」
知っていて、教えてくれなかったのか。突然、京子の声が責めるような色を帯び、つっこは彼女をまじまじと見た。
「だって雪尾の気持ちもあるじゃない。そういうのは本人が」
「私が怖がると思ったからか?私ってそんなに弱く見えるのか?友達だったらどんなになっても怖がるわけないだろ!」
「ちょっと京子、落ち着いて」
肩に触れようとした手が払われる。怯えた瞳にうつるのは、灰色の肌、特徴のない無機質な顔立ち。
あろうことか京子には、つっこがマス・マンに見えていた。
おっほほー、まるでルドヴィコ先輩になった気分。周囲に数体のマス・マンを具現化させて、栞ははしゃいでいた。
「マス・マンと出くわしたことあるなんて、そりゃトラウマにもなるよねー」
やっぱあの子の心って、恐怖と怒りでまっくろ――。言いかけた横でパンと破裂音が鳴り、マス・マンの身体を一瞬で光の粒へ還す。
「なんで一発!?なんの月器か知らないけど、月光溜まり+ブランクメーカー+闇闇京子ちゃんなのよ!?何を対価にすればそんな威力」
目をむいてわめく栞に糸子は冷めた目を向けると、手のひらを開き、ポツリといった。
「知れたこと。糸男がデートすっぽかすくらいのものよ。この『メモリアルバレット』の対価はね」
手のひらから数センチ離れた空中に、一発の弾丸が浮いていた。




