ポスト神の漁船
きょう地面の上に書かれたのは虫の絵ではなく、一つの数式だった。
1+1。女の子は真剣な顔つきで指を折り曲げ、地面と交互に見比べている。やがておずおずと枝を拾い、=のあとに書かれた数字は2。梓さんの顔がほころび、女の子の頭をなでた。
「正解よ、京子さん」
「へへ、このくらいは楽勝だよ」
「じゃあこれはどうかしら」
新たに書かれた数式は1+0。梓さん的には「0の概念は果たして?」といった意味が込められているが、彼女の予想に反して、枝は先ほどよりも早く手に取られた。書かれた数字はまたも2。
「どうしてそうなるのよ」
梓さんが訊くと女の子は得体の知れないオーラを発し、せいいっぱいの低い声で言った。
「0にも1にも100にもなり得る。それが逆鵺の力である。ならば逆鵺の理において、それらは全て同一のものとみなされるだろう」
「……それってお母さんが言ってたの?」
「うんっ」
彼女はきっと、数学が苦手ね。目を泳がせながらベラベラ言い訳する里長を想像して、梓さんは思わず吹き出しそうになった。
「楽しそうだな」
ギクリ。不意を打たれて硬直する梓さんの横を通り、里長は女の子のもとへ歩み寄った。
「おお、算術を勉強していたのか。よい心がけだぞ」
「うん、梓さんが教えてくれたんだ」
「ほう。では梓には私から礼をいうとしよう。お前は頑張った褒美にスモモを食べてもよいぞ。善三に言って、もいで貰え」
わーい。歓声と共に女の子が去ると、里長はすぐに梓さんを見る。娘と話していた時とうってかわって、表情はジト目に変わっていた。
「さっき失礼なことを考えていただろう?」
「なんのことかしら、籠乃さん」
籠乃と梓。二人はこの数日間で、互いの名を呼び合うほど仲良く(?)なっていた。
「おらあっ」
「せいっ」
割と本気にしか見えない稽古、という名目で二人が竹刀を打ち合っていると、女の子がトテトテと戻ってくる。はいこれ。といって差し出されたのは、それぞれ一つずつのスモモ。
「善三が釣りにいくって。ついていってもいいよな?」
「夕方までには帰るんだぞ」
「大きな魚、期待してるわよー」
まかせとけ。女の子は全然浮き上がらない力こぶを見せつけ、走ってゆく。梓さんは手を振って見送り、貰ったスモモをみた。
こんな毎日を、こころから願うよ。梓さんの心を読み取った籠乃は、手の上でポンポンと跳ねさせていたスモモを高く放り上げる。
青く広がる空。しかし、同じ空の下、結界の外では、着実に危険の手が迫っていた。
一人の男が霞んだ空に手を伸ばす。彼は致死の傷を負い、倒れ伏していた。砂漠では様々な人々がそれぞれの目的で徒党を組み、独裁政権への抵抗、己の利益を侵そうとする敵対勢力の排除など、激しい戦闘を繰り広げている。
つまり彼はならず者の一人であり、今まさに、自分が殺してきた者たちと同じ末路をたどろうとしているのだ。
そんな、死にゆく砂漠の敗北者の耳に、近くで砂を踏む音が届く。
(ま、まだ仲間が生き残って……)
薄れゆく意識でなんとかそこまで考えた時。
グシャリ、彼の頭は革靴に踏み抜かれた。
「な、なんだあいつ」
これにいっそう驚いたのは勝者側の武力集団。敵を殲滅したと思ったら、突如わきでるようにスーツの男が現れたのだ。とうぜん敵の生き残りと思われたが、奴はなんの躊躇いもなく、倒れた敵の頭を踏みつぶし、こちらに近づいてくる。
「うおおおおおっ」
ぼおっと見ていた武力集団だったが、そのうち一人が雷に打たれたように、機銃を掃射しはじめた。
「お、おい。同志かもしれ――」
「そんなわけないだろ!」
止めようとする仲間に血走ったまなこを向け、彼は叫んだ。
「あいつの顔を見てみろ。あれは、人間の顔じゃねぇ!」
全ての人間の平均をとったような顔立ちは全く掴みどころがなく、そこにいるのにそこにいない錯覚を抱かせる。
灰色の肌は肌の色と言うより材質の色であり、どう見ても人間の身体をしているのに真逆の存在、いや、生物かも怪しい無機なる者の究極形。
そいつが、建物の影という影から次々と這い出してきて、兵士たちは口々に絶叫した。
「撃て撃て撃て撃て撃てーっ!!」
マス・マンの群れに銃弾が殺到する。
恐怖にかられてか、武装集団に残弾を考慮するそぶりはなく、殺傷する嵐が砂漠に吹き荒れる。
カチカチカチ。弾切れの音がするまで彼らは撃ち尽くし、そこでようやく、彼らは理解する。
こいつらに通常兵器は効かない。
銃創を回復しながら迫るマス・マンから、一人、また一人と逃げ始め、逃げた者から順番に、彼らは絶望した。
反対方向に現れたもう一つの群れに。いつのまにか自分たちを囲んでいる多くの気配に。
どこかから聞こえてきた、甲高い女の笑い声に。
いやはや物々しいですな。善三の言葉に籠乃が頷く。
「これほど多くの人間がやって来たのは、里が始まって以来だろう」
現在、国相部隊から派遣された分隊およそ150名(国相部隊は本営を表すため、分隊も相応の規模となる)が、防衛準備のため里の中を動きまわっている。
その様は実際、戦場であった。
「なんか、ごめんなさいね」
「なぜ梓が謝るのだ」
「雇われだけど、私も今の所属は彼らと一緒だから」
キュラキュラキュラ。戦車がキャタピラを回して横を通りすぎていく。うわぁ、かっこいい!はしゃぐ女の子の頭をなで、籠乃はいった。
「あのくらいなくては敵と……ゴーレムや月の民とはやりあえんだろう」
「先遣隊には普通の人間、つまり私なんだけど、そういった条件をつけたそうね。ゴーレムを護衛につけることも出来たのに、どうしてかしら」
「裏切られた時のことを考えると恐ろしくてな。私達もいちおう月の民ではあるが、祖先はもっとも家格の低い、下弦民だったと伝わっておる。全員の力をもってしても、ゴーレムを止めるのは困難だろう」
「それで里の中には普通の人間しか入れないと……でもねえ」
いやいや、英断ですよ。梓さんが渋面をつくると、そこへ、軍服をまとった壮年の男が自信に満ちた笑みを浮かべて歩いてくる。
「国相部隊は日本国主相の直属部隊。背後に国が控えている我々の兵力をもってすれば、たかが一組織に後れを取ることなどありえません。刃波木くん、君だって地球で生まれた技術でもって、やつらと戦ってきたのだろう?」
「……」
だからこそ、やつらの恐ろしさを知っています。梓さんは心の中で呟いたが、口には出さなかった。傭兵である彼女が何を言っても、ここでは無意味だろう。
沈黙を肯定と受け取ったのか、男は満足そうに頷くと、今度は籠乃に向き直る。
さてと、自己紹介がまだでしたな。丁寧に整えられた口ひげにふさわしい、気取った声が名前を告げた。
「分隊長の迫島です。里と、里長殿の身柄は国相部隊が死守しますゆえ、ご安心を」
おそらく籠乃は国相部隊も、目の前の男も、あまり信用していないのだろう。それでも彼女がとれる選択は、にこやかに手を差し出す以外にないのだ。
「里長の御剣籠乃だ。われわれ箱衆のこと、よろしく頼むぞ」
「ええ、神に誓って」
迫島は胸を反らす。なんだか日本の軍人らしくない言い回しだと、梓さんは思った。
ええ、神に誓ったんですよ、彼らは。
「神に尽くし、神のもとへ参じると。あれは、そういう『列』なんです」
砂漠の気候に日焼けした、現地民であろう男は、同種族の人間達が並んで歩く様を指さした。銃の所持をみるに、どこか武装集団の一員だったであろう彼らは、ただ黙々と砂の上に新たな一歩を踏んでいく。
「神々しいでしょう?」
「あいつらの顔を見たらそんな印象わかないわよ」
ルドヴィコのいう通り、列をなす人々の目は一点を……上空を凝視しており、口からは唾液が流れるままになっている。
神の園へ至る道、というよりは、地獄への一本道をゆく彼らの頭上には、得体の知れない飛行物体。想像力を膨らませれば船に見えなくもない金属の塊を、男は「ゴッディトローラー」と呼んだ。
「神の漁船っておいおい……なんか西洋のおとぎ話を思い出すわね」
「ハーメルンの笛吹きでしょ?あんなのと一緒にしないで下さいよ。あれって最後は子供たちを洞窟に閉じ込めて終わりですよね。私の月器は信者が役目を果たせば、ちゃんと船に乗せてあげますから」
そうやってあれは、大きくなったんです。
ぐふふ、と笑う男にルドヴィコは表情を変えず、冷めた目を列の向かう先へ向ける。彼女はここ数日間、情報集めに奔走させられた。高位の月の民である彼女でも、一目では見破れない強力な認識疎外結界。現地の人間が決して近づかない場所、という間接的な認識が結界の力を弱め、ようやく里へたどり着く算段がついたのだ。
守っているものを考えれば仕方ないとはいえ、高慢な女にとっては屈辱的な時間の浪費であり、ついつい投げやりな声色が口をつく。
「ま、役に立てばなんでもいーわ」
「役に立ちますとも」
またしても男はぐふふと笑い。堪えきれないように更に笑って、言った。
「例えば里の内部崩壊、とかね」




