ポスト犬鎚のゴーレム
夏休みに出勤。これは教師にとってとりわけ特別なことではなく、数学教師である二ノ宮鋼児も、自分のデスクで休み明けのテスト作りに勤しんでいた。
隣の席には国語教師。普段は無理矢理飲みに付き合わされたり、やたら彼を振り回す先輩が、サンドイッチを前にボーッと黄昏ている。
「食べないんですか」
「ああ、食欲出なくてな」
「あの、先輩は親御さんから彼女の病状を……」
宝蔵槍子は黙って頷く。膝の上で強く握られた拳が、震えている。
「ニノ先。私は駄目な教師だ。涙など見せてはならないのに」
「ここに生徒はいませんよ」
彼女の弱さを知る者は少ない。
そのうちの一人である二ノ宮が肩に手を置くと、「うっ、ううっ」と、圧し殺したような嗚咽が漏れ始めた。
「午後は俺も出ましょうか?」
「いや、最後まで私がやる。私の生徒だ」
「……そうですね。先輩」
「うん」
「頑張れ」
「うん」
泣きながらサンドイッチを頬張る姿に頷く彼は、宝蔵槍子の真の強さを知る一人でもあった。
私の幸せに特別なものはない。有名な場所やお洒落な場所に行ったり、高価な買い物をしたり、世間で楽しいと言われている遊びをしたり。そんな、他人が決めた価値観の中に、私はそれを感じられない。
大切な人達と営む、ありふれた生活。
朝起きて学校に向かうと、道の途中に京子とビッちゃんが待っていて、ビッちゃんが振ったドラマの話題に京子がチンプンカンプンな感想を返す。それを笑いながら歩いているとあっという間に教室に着いて、そこには朝っぱらから難しそうな本を読むメガネの姿や、何やら怪しげな企みを話す猿と本屋に、ラーメンと糸男が苦笑いしている。おはようと挨拶を交わしていると、そこへ糸子が駆け込んできて、「すみません、困っているお婆さんを助けてて」なんて言う。私は大笑いしながら、「見え透いた言い訳しなくてもまだ遅刻じゃないよ」と言うと、みんなも一緒に笑い出す。
こんなのが私の幸せ。他の人にはつまらないと思われるかもしれないけど、大切な宝物。だけど一番後ろの空席を見る度に、それはまだ完成してないって思い出す。
私は、私達は、最後の一人が加わる日を心から願い、待ち続けています。
「終わ、り」
つっこは少し恥ずかしそうに原稿用紙を置いた。
くつ箱を出て、子供達が帰っていく。まるで昔から輪の中にいたかのように、彼女もまた笑顔だった。
煙草をふかしながら。屋上から見下ろす宝蔵槍子の顔も綻ぶが、それも長くは続かなかった。煙と一緒に溜息が吐き出される。
「帰って来れるわよ」
突然横から声をかけられても、驚きはなかった。屋上のドアからここまで、靴音一つ無しに近付ける人物は、宝蔵槍子にとって旧知なのだから。
波刃木梓にチラリと流れた視線が、また下界へと向けられる。
「信じたいが、気休めだ」
「可能性はあるでしょ。人生綱渡りの私にとっちゃ、まだ諦める段階じゃない」
「嫌味のつもりか?言っとくけどうちは私立の学校だ。私は公務員ではないぞ」
「嫌味じゃないわ。励ましているのよ」
昔、近いところにいて、別々の道を歩んだ片割れはふ、と笑う。
「お前よっぽどヤバイ仕事やってんだな。可能性があるから大丈夫なんて、なんつーか励ましの尺度がズレてんぞ」
「ズレててもいいわ。どれだけ裏に足を踏み入れようと、私はこの街を守る。だから」
梓さんはここに来て初めて宝蔵槍子の顔を真っ直ぐに見た。
「あなたは子供達の心を守って」
昔、同じ道場に通った姉貴分は、親の顔になっていた。
家の前で、母親はまず娘を抱きしめた。それから今日一日を一緒に過ごしてくれたクラスメイトを一人ずつ、抱擁する。心情を察してか、彼らは驚きつつも、それを受け入れていた。
「こんな日が来るなんて、ありがとうございますっ……」
母親の涙声が聞こえてきて、通行人のふりをした彼女は足元に話し掛ける。
「グッと来ますよね、こういうの見ると」
まるで人間の言葉を理解するように、リードに繋がれたダックスフンドが吠える。
「分かってますよ。任務に私情は挟みません。この前のアレだって別に感情的になったわけじゃ」
「ワン!」
「あー、もう、街の修繕費がなんだっていうんですか。というかクラッツさんは私の分身ですよね?何で組織のお小言みたいなこと言うんです」
もう一吠え返って来そうなところで、彼女の携帯が鳴る。
「はい、こちらスマッシャー。ええ今、対象の自宅付近です。はぁっ!?まだ何も壊していませんよっ。私ってそんなに……ああ、はいはい、分かってますって、今回はビルダーさんを儲けさせるようなことはしませんから!」
チラとダックスフンドを見ると、ほら言わんこっちゃないとばかりに見返してくる。少しイラつきを帯びた声で彼女は電話を続けた。
「で、対象について報告ですよね?まぁ、見た目は平気そうにしてますけど、大分弱ってますよ。情報部でも原初の波動が再び乱れ始めてるって言ってましたし、今夜がヤマってところじゃないですか?それで、私の配置は……」
いくつかの頷きの後、「了解です」と言って彼女は電話を切り、下を向いた。
「このまましばらく周辺待機。夜には大学病院に移ることになりそうです」
まるで分かったとでも言うように、ダックスフンドは一つ、「ワン」と吠えた。
白紙になったとしても、これは持って行かなきゃいけない気がする。慌ただしく、本屋は鞄に出逢い物語を詰めた。
自覚できる程に速まった呼吸は、頭を過る嫌な予感を強めていく。
「親父、あと頼むぞ!」
店内に一声掛けて自転車に跨がる。そこへ何とも間が悪く、見知った顔が現れた。
「やぁ、そんなに急いでどこ行くんだい?」
「崎原……」
修志学館高校サッカー部、期待の新人、崎原快人。以前メガネと一悶着あった人物である。
本屋としてはあまり関わりの無い故、近くも遠くもない、一クラスメイトの認識であったが、メガネと同じグループに所属してる点ではマイナスの印象を抱かれてるだろうな、くらいに思っていた。
それがにこやかに「ちょっと欲しい物があるんだけど」と言ってくる。
「悪いけど今ホントに急いでて。中に親父がいるからそっちに聞いてくれ」
「つれないなぁ。わざわざクラスメイトの店に来たんだから、君に対応して貰わないと」
近付いて来て、自転車のハンドルに触れる。それだけでタイヤはビクリとも動かなくなった。
本屋はマジマジと崎原の顔を見る。
「な、すぐ済むからさ」
「……分かった。入れよ」
渋々と店内に招き入れると、店先に貝柱作の姿は無かった。
「まだ奥で注文リスト作ってんのか……まぁいい。で、崎原。何が欲しいんだ」
「万年筆さ。こういうとこじゃ文房具売ってるとこもあるだろ」
「ああ、特にうちは親父の趣味で好んで扱ってる。ただ、いい値段するから学生の手の届く物となると……これなんかどうだ。それでも一万はするけど」
「へぇ、綺麗だね」
受け取った崎原は、店の入口から見える月にかざしてしげしげと眺める。クルリと指先で回すと、胴軸が鮮やかな群青の線を描いた。
「気に入ったよ、これにする。一万円だっけ」
「ああ。今、ケースを用意する」
程なくしてケースに入った万年筆と一万円札を交換すると、崎原は満足そうに頷いた。
「ありがとう。いい買い物したよ。じゃあ、これ」
「は?」
買ったばかりの万年筆を差し出されれば、怪訝な顔になるのも当然である。本屋は崎原の意図が全く理解出来ず、固まってしまう。
「以前俺が黒渕に襲われた時、助けようとしてくれただろ。そのお礼だよ」
「いやでも」
「俺は恩は返すんだ。それに君だけじゃなくて友達には結構プレゼントとかしてるんだぜ」
「はぁ、そうなのか。じゃあ有り難く貰っとくよ」
理由を聞いても何となく府に落ちないというか、ちょっと気味悪く思いながら本屋はカウンターの引き出しに万年筆を入れようとした。
「出かけるんなら持って行きなよ。そういう物は常に身に付けとくものだろう?」
「あ、ああ。そうだな」
言われるままに万年筆のケースを鞄にしまうと、「それじゃあ俺はこれで」と、本屋は逃げるように出入り口に向かう。
「崎原、ありがとうな」
「いえいえ、どういたしまして」
店を一歩出た所で。内心はともかく、持ち前の礼儀正しさが、彼に一応の礼を言わせた。崎原は小さく手を振り謙遜すると、道に出て、去っていく自転車を見送る。
「いやいやホント。一万円くらいどってことないさ。同胞の尻拭いして貰うと思えばね」
本屋の知らないところで浮かべた笑みは、爽やかな優等生とはかけ離れたものであった。
心電図の音は生の証であるはずなのに、聞く者に重苦しい不安を与えている。呼吸を助けるマスクと、管の繋がれた姿を見ると、二人のうちどちらともなく「昼間はあんなに元気だったのに」と声が漏れた。
父親と母親は精一杯の笑顔を糸子とビッちゃんに向ける。
「来てくれて、娘もきっと喜んでますわ。さっき男の子達も来て下さって……本当にありがとうございます」
「あ、あの。蜜柑ちゃんは……」
大丈夫ですよね、と言いかけたビッちゃんの手を、母親は優しく包む。父親もただ微笑んでいるだけで、何も言わない。つっこが二人の肩にそっと触れると、彼女達は静かに病室を出るしかなかった。
廊下に出ると、つっこは長椅子に沈むように座る。青ざめた顔が虚空に向けられ、視線は宙をさまよっていた。
「私のせいだ。私が学校に呼んだりするから」
「つっこ……」
そんなことない、と。否定の言葉はいくらでも思いつくが、どれもつっこの心を救うには不十分な気がして、二人は歯痒くも黙りこんでしまう。
こんな時、廊下の角から買い物袋を提げて現れた担任は、やはり頼もしい存在であった。
「むしろ逆、だな」
「逆……どういう意味ですか」
放られたペットボトルのお茶を受け取りながら、つっこが問う。
「今、水無月神無の命を繋いでいるのは、今日一日で生まれたお前達との絆だ」
宝蔵槍子はつっこの横に座ると、「なぁ、海原。お前は聞いていたか?」と続ける。
「あの子の症状には特に病名がないそうだ。患部が見当たらないのに身体が衰弱していく原因不明の病。治す方法は分からないが、医者が言うにはとにかく今は生きる気力が必要なんだと。だから」
つっこの頭がワシャワシャと撫でられる。雑に見えてもこの人の場合、愛情だと分かっている。文句も言わずに見返すと、やはりニッと白い歯が見えた。
「お前はあいつに力を与えたんだ。闘う力をな」
つっこが視線を向けると、ビッちゃんと糸子も力強く頷いた。
一方その頃、病院の屋上では、京子が一人、夜の街をぼうっと眺めていた。夜景を楽しんでいるでもなく、ましてや何かに哲学している訳でもない。強いて言えば、自分の心を探っていた。
「私は、嫉妬しているのか?」
幼馴染であるラーメンを除いては、自分が一番最初につっこと出会った。自分は、特別だと思っていた。
「いや、あいつはみんな特別なんだ。一人一人をちゃんと見てくれるから、私達はあいつに惹かれる。そんなこと分かっていたのに」
蜜柑ちゃんは自分の知らないつっこを知っている。そう思った時、京子の中でほの暗い感情が蠢いた。このまま蜜柑ちゃんが、回復せずに病院にいてくれたら……。
「くそっ、馬鹿か私はっ」
「悔いているのね。破廉恥な考えだったと」
「梓さん」
どうして。と質問が出かかったが、家伝の刀を携えた彼女がここにいること自体、答えであった。
「何か起こるのか。危険な何かが病院で」
「ええ。水無月神無は狙われている。彼女の病気について聞いたかしら」
「ああ。原因不明だって」
「その原因を、手に入れたがってる者達がいる」
「何かにとり憑かれているのか、猿の時みたいに。でも病気の原因なら奪われた方がいいだろ」
「いいえ。それが奪われる時は、彼女の命が尽きる時よ。彼女はとり憑かれているんじゃなくて、守っているの。病気はその代償よ」
「……ずっと闘っていたんだな。そんな奴を私は……」
項垂れる京子の手に、何枚かの紙片が渡された。
「これは、飯綱!?隅住みもある」
本当はこっちの世界に関わらせたくないのよ。
紙片の正体を知って驚く京子の横を通りすぎ、梓さんは後ろ姿で語った。
「でもあなたにはチャンスが与えられるべきだわ。人は間違えるけど」
言葉を区切り、振り返る。澄んだ色の目と、微笑が、京子に向いている。
「挽回も出来るから」
「……」
腰の竹刀が、強く握りしめられた。
「一つ聞こう、お前ら」
神社の境内へと上る長い階段に腰掛け、メガネは仲間達を見渡した。
「どこまで知ってる?」
代表して、糸男が答える。
「全部だ」
一緒に、ラーメンと猿も頷く。男子の中で本屋だけが「えっ、どういうこと」と、狼狽えていた。




