ポストVSマス・マン
携帯のダイヤルを押し、画面を見る。しかししばらくそうやっていても相手が出ないので発信をきり、ポケットにしまう。
梓さんはさっきからこれを繰り返していた。
「娘さん、出ませんか」
サイレントが気遣うそぶりを見せると、彼女は悪い予感を打ち消すように笑って返す。
「ええ。でもいつものことなのよ。携帯が苦手みたいで。女子高生にしては珍しいでしょ」
「ですが街の状況は危険です。ここは見ていますから探しに行かれては」
「私と一緒にいるところを見られたらかえって危険よ。私はルドヴィコに顔を知られている。幸いあの子のことは誰も知らないし、親友の力は受け継がなかった。ただの人間だから、奴らに目をつけられる心配はないわ」
「でしたらうちの組織から人を出しましょう。敵に存在を知られていない、偵察専門のやつがいます」
「お願いできるかしら。娘は雪尾さんの息子さんと友人関係だから、顔はきっと知ってるはず」
「ええ、そりゃ間違いないでしょう。あの人の親馬鹿は筋金入りで、翼君の身辺は漏れなく把握していますから。えっと、名前は京子ちゃんでしたよね、直ぐに手配します」
「あ、ちょっと待って」
「何です」
「京子は私の姪ということにしてくれないかしら。あなたの組織を信用していない訳じゃないのだけど」
「あー、分かりました。姪ですね」
「怒らないの?」
「俺のことは信用してくれてるってことですから」
ゴーレムにとっては何よりも嬉しいことです。
サイレントは噛み締めるように言う。
「ええ、勿論信用しているわ。あなたがどんな風に生きてきたか、何を一番大切にしているか」
知っているから。梓さんがそこまで言った時、遠くの夜空が黄色く光った。
「何の光!?」
慌ててサイレントの立つフロアの際まで駆け寄ると、そこから見えたのは、空から街の一部に吸い込まれていく一筋の閃光。
サイレントが重苦しい声で言う。
「波刃木さん、悪いが娘さんのことは後回しにさせて貰いますよ」
「あれは?」
サイレントは街に背を向け、階下へと歩きながら敵の名を告げる。
「ランスギフター。結界の力を持つ槍を、対象に与えるゴーレムです」
空気が変わったように感じたのは、普段の稽古で磨かれた直感であっただろう。
京子は突然駆け出すと、男子トイレから廊下へ出る。そしてますます強くなる違和感を胸に、近くのシアターの前まで走った。扉を開け放ち中へ。
やっぱり。
そのままスクリーンの前に立った京子は、自分の直感が正しかったことを知る。
「おい、一体どうしたんだ」
後を追って入ってきた猿に、京子はスクリーンの反対側を指差してみせた。
並んでいるのは無人の客席。
「この映画、めちゃくちゃ人気ないってことないよな」
京子が見上げたスクリーンでは主人公の男をドラゴンが追い回している。彼の危機は観客へスリルを与える為にあるはずだが、見る者が無ければなんだか滑稽であった。
しかしこんな状況は本来あり得ないのである。
「馬鹿言え。この夏一番話題のファンタジーだぞ。何で誰もいないんだ?」
「さっき急に人の気配が消えた。多分、映画館全体、誰もいないと思う」
異界。
社畜星人から発せられた言葉は彼の表情も相まって、あまり良くない状況を窺わせるものであった。
「この空間を構成している物質は元の世界と僅かに違う。誰かが我々を閉じ込める為に造り出したものです」
漫画のような話に、猿は京子の顔を見る。無言の質問に、京子は「まぁ、お前の肩に乗ってるやつが一番、非現実的な存在だからな」と応えた。
「でも何の為に。俺達を閉じ込めてどうしようってんだ」
「恐らく狙いは私です」
巻き込んでしまったことに責任を感じているのか、うつむく社畜星人を見て京子は頷いた。
「そうか、お前には未来予知があるもんな」
「確かに悪党が知ったら絶対欲しがるよな。よし」
猿は肩にいる社畜星人を掴むと、顔の前まで持ってくる。次に彼が言った台詞に、社畜星人は驚いた。
「早く俺と同化しろ。未来予知を使ってこの場を切り抜けるんだ」
「何故そんな危険を冒すんです。相手の狙いは私だけなんですよ?」
社畜星人を差し出せば安全に出られる可能性が高い。だが既に猿の頭には一つの筋書きしか浮かんでいなかった。
「俺と京子、あとお前が揃って脱出するには、それしか方法がねーだろ」
ああ、どうして私がこの人を選んだのか思い出した。
光の粒に身体を転じ、猿の身体に自身を重ねながら、社畜星人は今までに見た猿の行動、猿の言動を思い返していた。
私は、この人みたいになりたかったのだ。
『未来予知には起こる現象によって精度に差があります。この空間では確率が分散していて予測が難しい。正確な予知が出来るのは3秒前が限界です』
と、猿が自身の脳内に響く社畜星人の声を京子に伝えたのが少し前。
今は京子が先頭に立ち、廊下の角で相手を待ち伏せている。角からこの空間の主が現れることは分かっているが、正体は3秒前にならないと不明だ。二人は緊張の面持ちでその時を待った。
(来た!)
未来予知によって標的の出現を察知した猿が京子の肩を叩く。
出会い頭で狙うは当身。正確に急所へ突きが入れば、竹刀でも意識を刈り取る一撃と成りうる。
京子の全膂力を乗せた竹刀が、角から現れた何者かの腹部に迫った。
貰った。京子が勝利を確信した、その時。
腰のあたりをグイと、攻撃の方向とは反対のベクトルへ引かれ、身体の重心が後ろに移っていく。
一体何が。そう思った矢先、彼女の目の前を黒い影が上から下に、通りすぎた。
廊下に投げ出されつつ見た物は、床に深々と突き刺さる拳。そしてその凶行を成したモノトーンの男。
裏投げのようにひねりを効かせて京子を投げた猿は、自分の身体を盾に、砕けた床の礫から彼女を守る。
「っぶねぇっ!」
「あれは……なんだ。人間の形をしているのに、全く気配を感じない」
「ああ、あいつは竹刀なんかじゃ無理だ。一旦逃げるぞ」
……幸いなことに、モノトーンの男は走って追ってくることはなかった。しかし、二人の逃げた方向に出口はない。
「非常口くらいあるはずだろ!」
走りながら京子が叫ぶと、猿が苦々しげに否定する。
「いや、ここは俺達を捕まえる為に作った空間だから、そんな親切なものはない」
仕方なく、二人は先程ファンタジー映画を上映していたシアターに入る。袋小路だと分かっていても、時間を稼ぐ為のやむを得ない選択だ。
打開策を練るべく、彼らは階段状に席の並ぶ通路に身を隠した。
「おい、あいつは一体なんなんだ」
京子の問いには猿が答える。社畜星人が実体化すれば直接話せるのだが、そうすると未来予知が使えなくなるので、猿が伝言するしかないのだ。
「あいつは社畜星人のように、一時的な実体を持つ存在だそうだ。だけど普通あれほど強固な実体は、出たり消えたり出来ないらしい。それを可能としているのはあいつが欠片も魂を持たないせいだって、社畜星人は言ってるぞ」
「つまり、感情を持たない殺戮マシーンてことか。それが何で社畜星人を狙う!」
「吸収して進化しようとしてるのかも。進化に感情は必要ないんだと」
またしても地球外生命体の出現か、はたまた研究施設から逃げ出した実験体か。
ああ、もう、どうなってんだこの街は。
非現実的な出来事の連続で夢と片付けてしまいたくなる京子だったが、既に異星人と遭遇している事実がある。投げやりな行動はむしろ現実逃避、それは猿も同じ考えであった。
「この空間はあいつを中心に展開されているから、あいつを倒さないと」
「でもどうやるんだ。竹刀じゃ倒せないんだろ」
一つだけ手はあると、猿は言った。
何の感慨もなく、シアターの扉がギィと開かれる。革靴の鳴らす音はコツコツと、秒針よりも規則的であった。
黒のスーツ、白いシャツ、灰のネクタイ。全ての色は霞んでいる。顔は少年のようにも、老人のようにも見え、確かにそこにいるのだけど、気のせいにも思える。
そんな漠然とした存在、知る者にはマス・マンと呼ばれるモノトーンの男が、猿に向かって最短を歩いていた。
スクリーン前で折り返し、上段席へ続く階段に至る。
社畜星人の予想が正しければマス・マンは精神生命体を関知することができる。ならば隠れていても無駄だと、猿は腕を組んで階段上部に堂々と姿を現した。
階段の上と下。ただの高校生と、殺戮マシーンが対峙する。銃口を向けられるのはこんな気分かもしれない。一撃を貰えば終わりと言う緊張感が、彼の鼓動を速める。
そんな状況で相手の動向を見逃すはずはないのに、猿はその初動を掴むことが出来なかった。マス・マンは何ら前触れもなく、突発的にコンクリートの床を蹴る。
虚を付かれたハンディを埋めたのは、第三者の一声。
「跳べ、猿!」
京子の声に応じ、猿は身体を捻って後方宙返りでマス・マンの頭上に逃れる。加えて足先が一番高い所にくると踵の部分から光が噴出、推進力を得た猿の足先は半円を描き、マス・マンの延髄を刈る。
猿のいた場所に強烈な拳を向かわせていたマス・マンは、後ろからの衝撃に顔面から階段にゴシャ、とめり込んだ。
猿は反動でもう一回転すると、スクリーンの前へ着地する。ザザ、勢いに床を滑る身体を、片手をついて静止させた。
直ぐ様、彼を案じる声が届く。
「大丈夫ですか、無茶な動きをして身体への負荷は」
「ああ、問題ない。俺は元々こういう軽業は得意なんだ。着地の衝撃もお前が守ってくれたからな」
見れば猿の脚は、膝の部分まで銀色の鎧の一部のような防具で覆われている。社畜星人の変身した姿で、猿を守るだけでなく人を越えた脚力を与える物だ。
そして社畜星人の変身能力はこれだけではなかった。
脚の防具が光の粒に変わり移動すると、今度は猿の手元に槍が出現する。
猿から京子に目配せがあり、彼女は頷いて準備は出来ている旨を伝えた。
「役割を入れ替えるとは大胆な作戦ですね」
「あいつの勘や動体視力は未来予知と変わらないからな」
猿の脳裏に映画館までの道中で見た光景が浮かぶ。トラックの撥ね飛ばした空き缶に対する二人の反応は、ほぼ同時だった。
「実体化と未来予知を同時に使えない以上、確かにこれ以外の方法はないでしょう。ですが声を聞いてから動くのではどうしても遅れが生じます。少しでも迷えば間に合いませんよ」
迷わないさ、と猿は言う。
「闘うことに関しては京子の方が何倍も慣れてるだろ。俺は信じて動くだけだ」
それがどれだけ勇気のいることか。他人の判断に命を預けるなど、社畜星人が集めた一般的な人間のデータからすれば常識外の行動だ。
加えて一般的な人間なら、この局面にはもう一つ勇気を必要とする。
「……人の形をしたものを、やれますか?」
猿の喉がゴクリと鳴った。自分の危機よりも、彼にとってはこちらの方が重圧のようだ。
それでも社畜星人は、自分を握る手に力を感じた。それは役割を入れ替える時から定まっていた覚悟。
「やるぞ」
猿は槍を構え、走り出した。
階段を全速力で駆け上がっていくと、向かう先には階段に顔面をめり込ませた、マス・マンの背中がある。
「どこを狙えばいい!?」
「コアがあるはず。誘導はおまかせを」
社畜星人の返事と共に槍の石突き部分が変型し、噴射口が出来る。突進の勢いに加え、エネルギーの推進力で威力を増した穂先が閃き、線を描く。
と……マス・マンは腕だけを静かに猿の方へ向けた。
「駄目だ、猿っ!」
京子が悲鳴を上げるも、既に攻撃のモーションに入っていた猿は態勢を変えることが出来ない。
代わりにマス・マンの飛来する拳を防いだのは、穂先を盾状に変えた社畜星人だった。
ガン、という固い物どうしがぶつかる鈍い音がシアターに鳴り渡る。
「ぐあっ」
はね飛ばされる猿。あわやコンクリートの床に落下、というところで社畜星人が再度、姿を変えた。光の粒が猿の背中に回り込み、空気の入った布袋が出現する。
ボフリと猿の身体を受け止めた社畜星人は、クッションの姿のまま猿の安否を確かめた。
「無事ですか!?」
「ああ、手がちょっと痺れてるくらいでなんともない。しかしまぁ……」
猿はムクリと身体を起こし、階段上部を睨む。
マス・マンは射出した拳から光の粒を回収し、手首に再生させているところであった。
「ロケットパンチは反則だろ」
「ええ、人の形に惑わされてはいけませんね。まだまだどんな攻撃手段を持っているかしれませんよ」
「そうだな。正面からいくのはよそう。社畜星人、もう一度盾になれるか?」
それが、そのう。
社畜星人が申し訳なさそうに言うと、猿は自分を支えていた感触が突如消え去ったのを感じた。
「うげっ」
腰をコンクリートの床にしこたま打ち付け、口から呻き声が出る。
「お、おい、どうした……ま、まさか」
『すみません、時間切れ、です』
頭の中で社畜星人の悲痛な声がそれを告げる。
社畜星人の実体化に限界が来たのだ。しかも相当に力を消耗したらしく、いくら呼んでもその後、応答がない。これでは未来予知も使えないだろう。
「マジかよ」
二人の会話を聞いていたとでも言うのか。そんな猿の視界の中で、マス・マンがゆっくりと頭を持ち上げる。コンクリート片をパラパラ落としながら完全に顔を抜いたマス・マンは、そのままのそりと首を動かし、空っぽの瞳に猿を映した。
立ち上がり、淡々とした足取りで。
もはや何の武器も持たない唯の人間の下へ、階段を下って近づいていく。
やめろと猿が言ったのは、こっちに来るなという意味ではなく、マス・マンの背後で竹刀を振り上げた京子に対するもの。
渾身の一撃は人間ならば昏倒するほどであるが、マス・マンは微動だにせず、ただ足を止めた。
振り向くと同時に伸ばされた腕が、京子の顔を恐怖に染める。喉にくらいついた指は鉄のように固く、徐々に彼女の細い首に食い込んでいく。
ただ進路を邪魔する雑草を刈るように。憎しみも愉悦もない無機の目に晒されて、京子は苦しみと恐ろしさに喘いだ。
「く……あ…」
段々と焦点が合わなくなっていくのが、猿の位置からも分かる。
武器がなかろうが、最早関係ない。
たまらず猿は京子の下へ駆け寄ろうとし、そこで不可思議な現象を見た。突如、京子は解放され、ドサリとくずおれると盛大に咳き込む。猿は安堵するも、同時に変だとも思った。
どうしてあいつは京子を放した。
その理由は、荒い息をつく京子の前に転がっていた。
切断されたマス・マンの手。
彼女が端に涙の浮かぶ目を上方に向けると、マス・マンの手首、その断面から覗く機械じみた部品の塊は、何やら禍禍しい紫の光を帯びている。キン、と聞き覚えのある音に隣を見れば、この早業を成した人物が納刀を済ませたところであった。
それは京子が最もよく知る者。
「あ、梓!」
「梓さんでしょ!」
いつものやり取りに、やはり自分の保護者の波刃木梓だと京子は再確認する。
「どうしてこんなところに」
「仕事よ」
「仕事って……何が起こっているんだ。梓さんは知ってるのか?」
「今は話してる暇はないわ。早くそいつから離れて頂戴」
確かに再び掴まれてはたまらない。京子は言われた通り梓さんの後ろに下がった。
マス・マンはというと、紫が滲む手首の断面を転がった手に向けて光の粒を回収しようとしている。
その様を梓さんは鼻で笑った。
「毒鞘の毒を吸った刀は逆鵺の力を分解する。再生はしばらく無理よ」
彼女の言葉通り光の粒はマス・マンの手首に集まることなく霧散して、空気中に溶け消えてしまう。
「命令遂行に大きな障害を確認。データに該当あり。該当名、波刃木梓」
マス・マンの呟きを遠方の元バーでルドヴィコが聞いていた。
「ほうら、ほらほら、面白いのが釣れた。あの波刃木梓が現れたって、アーソンマン」
「噂の妖刀遣いか。人間の癖に俺達と渡り合う術を持っているとか」
「綱渡りだけどね。あの女の力は人間が扱える極僅かなN粒子を何とか運用しようっていう、古代日本人の知恵が生んだもの。北野家をはじめ、多くの修験者がその力をもってゴーレムや月の民と闘い、命を落とした」
可愛いわよね。と、ネジ曲がった評価を下すルドヴィコの笑顔には傲慢さが満ちており、アーソンマンは同僚の狂気にいささか引きつつ、今後の展開を訊く。
「マス・マン一体だけじゃ分が悪いんじゃないか。どうするつもりだ」
「あの女がでばってるって分かっただけでも私は満足なのだけど。そうね、もう少し遊んであげてもいいかもしれないわね」
梓さんは以前にもマス・マンと戦ったことがある。それ故、多数であることが奴等の恐ろしさだとは承知していた。だがどのように出現するかまでは想像の範疇を越えており、この場に次の展開を予想出来た者はなかった。
そいつはいつの間にか壁にもたれ掛かっていた。そいつはいつの間にか席に座っていた。そいつはいつの間にか隅にしゃがみこんでいた。そいつはいつの間にか床から這い出そうとしていた。そいつはいつの間にか天井から顔を覗かせていた。そいつは、そいつらは、一瞬でその場に現れたのだ。
サイレント並の腕力を持つ兵士が十数体、猿の周りを取り囲む。
梓さんの眉根が焦りに険しく寄った。
「まずい」
「猿っ!」
京子の叫びが虚しい程に、絶望的な状況が目前にあった。
――しかし、彼もまた、いつの間にかそこに立っていたのである。




