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新生月器ポスリア  作者: TOBE
覚醒編
36/88

ポストあめあきないと海の思い出(後編)

「あいててて」

 

 お婆さんの家は家主と同じく、年月は重ねても品良く清潔な平屋であった。

 縁側から庭の見える客間にて、糸子は手当てをうけている。今は消毒液を塗っているところだ。


「ふふふ、しみるだろうけど、我慢して頂戴ね」

「糸子、お前も普通に痛がるんだな」

「当たり前だろ。糸男は私を何だと思ってるんだ」

「いや、糸子のことだから痛みを感じるまで 5秒くらいかかるんじゃないかと」

「むー」


 二人の様子にお婆さんはコロコロと笑う。


「あらあら、意地悪ねぇ。でも男の子って気になる子には意地悪したくなるものよね」

「……はは。弱いなぁ」


 糸男は頭をかいて赤くなる。つっこ軍団 の中では大人っぽい性格に入る彼も、お婆さんの前では完全に子供扱いだ。


「さぁ、これでもう大丈夫」

「ありがとうお婆さん」


 治療を終え、糸子が礼を言うと「少し待っていて」と、お婆さんが台所から麦茶の注がれたコップを持ってきたので、二人はご馳走になることにした。雨が降っていたとはいえ、真夏に長いこと歩いたのだ、喉を通る冷たさが大変に心地よい。


「ところであなた達はあの木の下で何をしていたの?」


 二人が一息つくと、お婆さんはそんなことを訊いてきた。ちょっとした世間話のつもりだろうが、糸男にとっては少し返答に困る質問だ。


「先日、糸子があそこで貝殻を貰ったんですが、訳あって返すことにしたんです。結局返せなかったんですけど」


 言っても通じる筈がないので、糸男はあめあきないのことは伏せて説明した。買った、という点も、あんなところで売買が行われていること自体が不審なので貰ったことにする。


「まぁ、貝殻を」


 幸い特に疑うそぶりもなく、お婆さんは貝殻という単語に興味を示した。


「良かったら見せてくれないかしら、糸子ちゃん」

「勿論いいよ」

「あ、ちょっと待て!」

「どうした糸男」

「駄目なのかしら?」

「だってそれ、ようか……いえ、何でもないです」


 妖怪が出所の物を他人に触らせることに抵抗がある糸男であったが、ここで止めるのはあまりに不自然過ぎた。


(以前見た時には特に妖術の気配は感じなかった。ずっと持っているなら何かあるかもしれないが、少しなら大丈夫か?)


 自身を納得させる糸男の耳に「懐かしいわ」というお婆さんの嘆息が届く。彼女は掌の貝殻を愛おしそうに見つめていた。


「知ってるかしら。巻き貝はこうやって耳に当てると」


 言いながら、お婆さんは自身の発言通り貝殻を耳に当て、目を瞑る。


「ああ、やっぱり海の音がする」

「海に何か思い出でも?」

「いいえ、違うわ。あれは」


 お婆さんは耳から貝殻を離し、開いた目を幾分遠くしながら語り始める。

 ――あれは、病室で芽生えた、小さな恋の思い出。




 スケッチブックを鉛筆が走る音が止む。病床にありながら穏やかな色を湛えた瞳が細められ、青年は、病室を仕切るカーテンの隙間に声をかけた。


「そんなところから覗いてないでこっちにおいで。見せてあげるから」


 逃げ出したい衝動をなんとか堪えた少女は、顔を赤くしておずおずと青年のベッドに近付く。


「絵に興味があるのかい?それとも海に」


 初めて青年の領域に足を踏み入れた少女は、「海に」という問いかけの意味をすぐに理解する。

 壁じゅうに貼られたもの、無造作に立て掛けられたもの、幾重にも重ねられたもの。全ての絵が同じテーマで描かれていた。

 青年は、海の中で寝起きしていたのだ。


「は、はい。とても、綺麗ですよね」


 鮮やかな青はとても素敵だと思ったが、本当に見惚れていたのは絵を描く青年の姿だとは口が裂けても言えず、少女は当たり障りのない言葉で返す。


「そうなんだ。とても綺麗で、それに……自由だ」


 絵のことになると途端に周りが見えなくなるタイプなのか、少女の後ろめたさには微塵も気付かずに、青年は熱っぽく語り始める。


「こっちの絵は学生のころ、イタリアに行った時に立ち寄った海なんだけど……」


 病に倒れる前の青年は旅人であった。世界中を旅して、世界中の海を絵に描き、今もこうして光景を思い出してはスケッチブックにしたためているのだと、彼は語る。

 少女は夢中で聞いた。青年は話が上手かったし、何より語っている時の情熱的な表情が彼女を魅了したのだ。

 それ以来、二人は仲良くなった。青年は毎日海の話をして、少女は聞いた。そうしていると、無機質な病室に潮風が吹き、青く透き通る水と白く輝く砂が満ちたのだ。

 それは過去に青年が一人で巡った路を一緒に辿る、二人旅であった。




 それで、その後お二人はお付き合いを?糸男が訊くと「残念ながら、そうはならなかったわ」と、お婆さんは寂しげな笑みを浮かべて首を振る。


「しばらくして、私の病気は回復に向かったの。そして後から聞いたのだけど、彼の病気は悪くなった。退院した後にお見舞いに行った私が見たものは、空になったベッドだけで、あの鮮やかな青はどこにも残っていなかった」


 看護婦さんの口から、青年は別の病院に移ったと聞かされたお婆さんに、その病院を訪ねる勇気はなかったという。


「だって私だけ元気になって、どんな顔で会えばいいのか分からなかったのよ。でも今になって思うわ、それでも会いに行くべきだったって」


 駄目ね、この歳になってもグズグズと後悔してしまう。自嘲するように言うお婆さんに、二人は何も言えなかった。

 お婆さんは目尻をそっと拭うと、再び手元の貝殻を見つめる。


「彼と海の話をするとき、よく貝殻を貸して貰ったの。耳に当てて音を聞くと、本当に自分が海にいるような感覚になれた」


 だけど、と言い。お婆さんは貝殻を耳に当てる。


「今この音を聞くと、浮かんでくるのはあの人の顔」


 目を瞑り、静かに静かに。波音の運ぶ面影を瞼に焼き付けるかのように、お婆さんは聞き続けた。

 やがて目を開けたお婆さんは「あら、ご免なさいね。私ったら一人で思い出に浸っちゃって。貝殻お返しするわね」と、恥ずかしそうに糸子に貝殻を手渡す。

 受け取った糸子はじっと貝殻を見て何かを考えていたが、しばらくするとお婆さんがしていたように貝殻を耳に当て「本当だ。海の音がする」と、言った。


「優しくて、穏やかで。お兄さんもきっとそんな人だったんだろうな」

「えっ、糸子ちゃん?」


 お婆さんが驚きの声をあげたのは、糸子が包むように握ってきた自分の手の中に、貝殻の感触があったから。

 あれほど大切にしていたのに、あれほど返すのを渋ったというのに。

 糸子は屈託なくこう言ったのだ。


「貝殻はお婆さんにあげるよ」




 糸男と糸子は川沿いの、土手の上を通る道を行く。

 別れ際、糸子に礼を言うお婆さんは本当に嬉しそうだった。なのに、何故か帰り道の糸男は黙りこくっている。


「なんか怒ってるか?」

「いや、別に」


 そっけない態度の糸男の前に出て、くるりと振り向くと、糸子は糸男の顔に指を突きつけた。


「我々糸目族は、いつものほほんとしなければならないのだ!」


 立ち止まり、ポカンと呆気に取られる糸男。だがすぐに笑いが込み上げてきて、ついには腹を抱えて「あはははは」と爆笑する。しこたま笑い、ようやくおさまった頃には、糸男はすっきりとした顔をしていた。


「ごめんごめん、俺がガキだったよ。なんだか悔しくってさ。俺一人が空回りしている気がして」

「何で糸男が空回りってことになるんだよ」

「え」

「私が勝手に変なことしてるだけだろ。つっこ達もそうだけど糸男は特に優しいよな、こんな私を心配する必要なんてないのにさ」


 こんなことを言うので、糸男は最近板についてきた、額に手をやる苦労人のポーズになる。


「なんだよ、その溜息は」

「いや、お前ほんとに天然なんだな」

「むー」


 と。

 糸子が、糸男には結構頻繁に見せる脹れっ面をしたところに、遠くから叫び声が聞こえてきた。

 切羽詰まった色を含んだ声は、川から発せられたもの。思われ川という名を持つ中規模の河川は、ここ何日かの雨で増水し、激しい水の勢いが、頼りなく浮かぶ板切れと、それに掴まる声の主を弄んでいる。


「この前の河童?あいつ何してるんだ」

「馬鹿、溺れかかってるんだよ!」

「あっ、糸子、待っ……」


 糸男が手を伸ばす先、土手を下った川縁から早くもドボンと飛沫が上がる。彼女の行動はまたしても、殆ど条件反射のように成されたのだ。

 糸子、お前はどうしてそんなことが……。


「そんなことは、俺には出来ない」


 だから、自分に出来ることを。

 糸男はシャツのポケットから和紙を1枚取り出した。




「女河童殿!た、助けて下され!」


 運のいいことに河童の掴まった板切れは橋脚に流れ着いた。河童は橋脚にしがみつき、糸子の助けを待っている。

 激流の中を衣服を身に付けたまま泳ぐのだ。河童の元に辿りつくことすら至難の業であった。


「がふっ、が、頑張れ」


 運動能力の高い糸子は水泳も得意であり、持ち前の根性も手伝ってそれを為し遂げる。しかし、体力の消耗はやはり大きく、橋脚に取り付いた時には息も絶え絶えであった。


「はぁ、はぁ、も、もう大丈夫だ」

「女河童殿……」


 無理に作られた糸子の笑顔に、河童は悟る。もはや彼女に自分を助ける余力は残されていないと。必死だったとは言え、こんなところに助けに来させてしまったことを、彼は深く後悔した。


「お、お止めくだされ!手前を置いていけばなんとか帰れるかもしれませぬ」


 自分を背負おうとする糸子を、河童は必死に止める。

 糸子はニコっと笑顔だけで返す。言葉を発する余裕すら今の彼女には残っていないのだ。

 それでも糸子に、河童を置いていくという選択はなかった。




 向かい合わせた掌と掌の間に、和紙は不可思議な力を帯びて浮いている。

 糸男の両腕に文字が浮かび上がっては、腕を伝い、空中を通って和紙に流れ込む。

 和紙は自らを折り、徐々にその姿は生き物だと知れる。魚だ。和紙で折られた魚は文字を身体に取り込む度に、より本物へと近付いていく。

 術を使う糸男の額には汗が浮き、大量の妖力を和紙に込めていることが伺われた。


「くそ、結構キツイな。水神への供物だから当たり前だけど、問題は」


 糸子達を見るとまだ橋脚にしがみついている。かなりきつそうだが焦って術を失敗させてはもとも子もない。


(頼む、もう少しの間頑張ってくれ)




 つっこ軍団に入る前、糸子は一人で生きていた。一人で何でも解決出来るとか、一匹狼を気取っていたとか、そういう訳ではない。家族以外で手を差し伸べてくれる人物がいなかったのだ。だから、無鉄砲な行動のツケは、全部自分で被ってきた。不遇を受け入れ、耐えることこそが、彼女が持つ唯一の処世術だったのだ。


「ごめん、河童みたいな人!」


 泣いている時でさえ笑っていた糸子の糸目が、初めて悲痛な形をつくる。


「もう身体に力が入らない。戻るのは、無理だ!」

「よ、良いのです、良いのですよ女河童殿、申し訳有りませぬ申し訳有りませぬ」

「ごめん、本当に、ごめん……ね」


 意識が遠のいていく。

 橋脚から手を離せば、自分はまず助からないだろう。

 ああ、糸男は私のこと危なっかしいって、本当だったなぁ。周りに合わせないと誰も助けてくれないのに、私は私の生き方を変えられなかった。全部自分で被って自分だけ傷つけばいいやって思ってた。でも、だけど、本当は。


「助けて、糸男、助けて!」


 本物の魚そっくりになった和紙に最後の文字が送られる。それは「目」。同時に式神の主は普段開けない切れ長の目を開く。あまり好きではない父親が教えた文言を唱えれば、術は完成する。


「我、逆鵺の力にて新たな理を紡ぐ者なり。水神に供するは静寂を纏いし者、その名を『鎮め魚』」


 鎮め魚は糸男の手元から空中を跳ね、荒ぶる水面にその身を投じる。そして、水に触れた部分から音もなく溶け、蓄えられた文字が波をかき消しながら広がっていく。

 一石の波紋が水神の怒りを束の間呑み込んだかのように。数瞬後の川は、普段よりも一層動きを止めていた。

 妖力の使いすぎによりふらつく身体に鞭を打ち、糸男は静まった川縁へと近付く。

 シャツを脱ぎ捨て、鍛え上げられた上半身を露にすると、疲労に構わず水に飛び込んだ。

 掻く水が、重い。万全でない身体では、穏やかな流れでも泳ぐのはかなりの重労働になる。だが、そのことがかえって糸男の闘志を焚き付けていた。


(糸子は激流の中を行ったんだ。このくらい!)


 平泳ぎで糸男は橋脚へと泳ぎ進む。

 息継ぎの度に糸子と河童の姿を確認するが、二人は橋脚にしがみついて動けない様子だ。特に糸子はぐったりとしていて、糸男は焦る気持ちを必死に抑える。


(後一回息継ぎをしたら、残りは一気にいく)


 橋脚まであと10メートルあるか、というところでそう決意し、顔を水面から出した。

 何か、河童が騒いでいるのが視界に入る。

 河童は必死の形相で、水面下を指差している。

 そして、糸子の姿が、ない。

 糸男は、迷わず水中深くへと潜っていった。




 術で流れが遅くなったとは言え、川の水量は依然として多い。日光が完全に届ききらず、薄暗い川底を糸男が懸命に探していると、頭の中に男の声が響く。


『こっちだ、北野の倅よ』


 思念の流れてきた方向へ首を動かすと、そこも薄暗い川底。一見他と変わらぬその場所へ目を凝らすと、突然、川底に開いた目が見返してきた。

 暗いのではっきりとは見えないが、糸男にはそのシルエットが龍に見え、思わず緊張の面持ちになる。相手は言わずもがな、神の域にいる存在なのだ。あまねく妖怪とは対等の立場である糸男でも、気軽には立ち会えない。


『水神様ですか?』


 糸男も昔父親に習った技を使い、思念を飛ばす。


『そうだ、我の流れを止めたのはお前か』

『すみません。友人を助けるためだったのです』

『良いのだ。石の漆喰で我の身体を固める人間どもに力を見せてやろうかといつもに増して荒ぶってしまった。我ながら幼子のような所業であったわ。ところで、お前の探している友人とはこの娘のことか』


 一瞬、白い牙が見えた気がするが、口を開いたのだろうか。そこから大きな泡が浮き上がって来て、糸子はその中に横たわっていた。

 水中にも関わらず、糸男は思わず「糸子!」と叫びそうになる。思念を感じとった水神は『心配するな』と言った。


『中には空気を入れてある。このまま上まで送ってやろう』


 泡が糸男の横まで上がってくると、糸子の姿がよりはっきりと確認出来た。たおやかな胸が呼吸により上下に動いている。糸男は心底ほっとして『ありがとうございます』と水神に礼を言う。


『礼には及ばぬ。久方ぶりに良い供物を貰ったからな』

『鎮め魚のことですか』

『それもあるが、それだけではない』


 細められた川底の目は、糸子を見ている。その意味を理解して、糸男は静かに頷いた。

 明るく揺らめく水面へと浮かんでいく糸子。後を追う糸男の背中に、川底から呟きのような思念が届く。


『相手が何者であろうとも、窮していれば助けに行く。そのような人間が、まだおったのだなぁ』




 重みを感じ、糸子はうっすらと目を開ける。

 目の前に大きな背中があった。見慣れた短髪の後頭部が、なるべく波を立てないよう小さく上下している。


(私にしがみついているのは河童か)


 二人も担いで泳いでいるという事実が糸子を驚かせた。糸子は思う。彼はなんて強いのだろう。そして、私はなんて弱いのだろう、と。悔しさはなかった。ただ、守られているという幸福感に満たされ、糸子は目を閉じた。

 再び目を開けると、やはり、糸男の心配そうな顔が覗きこんでいた。


「おい糸子、大丈夫か」

「意識はあるよ。残念だったな、マウストゥマウスできなくて」

「な……」


 言葉を失った糸男は身体を起こし、後頭部を掻く。彼の次なる口癖が「これだもんなぁ」で定着しそうになる後ろで、河童は「ああ良かった。本当に良かった」と涙を流していた。

 安堵にそれぞれのリアクションをとる二人を眺めつつ、糸子は仰向けから少し身体を動かし、横向きになった。そうするとたわわな胸元が強調され、尚且つTシャツは濡れているので、かなり悩殺的な光景になる。そんな、糸男殺しなポーズのまま、糸子は悪戯っぽく言った。


「意識はあるけどするか?マウストゥマウス」

「ば、馬鹿やろう!」


 今度こそ真赤になった糸男は魅惑の谷間から強引に視線を引き剥がすと、明後日の方を向く。


「糸男って私でもたぶらかせそうだよな。駄目だぞ、変な女についていっちゃ」

「なんだお前は、ビッちゃんのお株でも狙っているのか。ポストビッチか」


 次回からタイトルがポストビッチになってはとんでもない。糸男が話題を変えたのはファインプレーであった。


「ところで糸子は河童が見えてるんだよな。河童がいる場所に真っ直ぐ助けに行っていたし」

「ああ、見えてるよ。そういや何でなんだろうな」

「何か妖力の高まるようなことをしたか?あの貝殻には何も感じなかったし……いや、待てよ」




 糸男達のいる場所の対岸に、姿の見えない二つの存在があった。

 片方が、女性の声で言葉を発する。


「貝殻の音は思い出。長い間思われた思い出は、力を持つのです」


 もう片方が見えない相槌を打つ。


「私が思うにあのシステムは老婆の手に渡って初めて作動するものだった。だから北野氏は気付けなかった。違いますかな?」

「全ては逆鵺の導き通り。私は必要なものを売り、その後押しをするだけです」

「N粒子は万物の理に通ず、ですか。かの物質の自然状態に近い、精神生命体である私ですが、ピンと来ませんね」

「だからあなたは仲間と融合できなかったのでしょう?感情が芽生えてしまえば変化の可能性は薄まり、個の確立が進む。あなたという存在は励起し、絶対具現に向い始めたのですよ、社畜星人さん」


 社畜星人は「お恥ずかしい限りで」と嬉しそうに笑う。


「これからどうするのです」

「それは勿論、宿主のもとへ帰ろうかと」

「彼はいい迷惑ではありませんか」


 知りませんなと社畜星人は言った。


「私はやりたいようにやるのですから」

「まぁ、それもいいでしょう。それではお元気で」

「お元気で」


 社畜星人は猿こと洋介・ブラウンの元へ向い、あめあきないは新たな商売を求めて立ち去った。




 一体何度その行為を繰り返しただろうか。お婆さんは貝殻を耳から離し、ほぅ、と息をついた。瞼の裏に彼の姿が残っている。絵を描くときに見せたあの眼差し。絵の先に何か違う物を見ているかのような、独特の雰囲気。

 これからはいつでもあの人に会える。

 思いがけず譲ってくれた糸子に感謝しつつ、お婆さんは貝殻を愛おしげに眺める。もっとよく見ようと目の高さまで持ってくると、あることに気付いた。

 小さく、文字がある。


「晶代さんへ」


 思わず息を飲んだ。何故、なぜ、自分の名が。


「動かないで、君の姿を描いているんだから」


 青年は縁側に片膝をつき、スケッチブックの向こうから少女を咎める。

 少女が何も言えないでいると、穏やかな色を湛えた瞳が優しく細められた。


「相変わらず、海のような人だ」


 少女は頬を染めつつ、おずおずとポーズをとった。


「綺麗に、描いて下さいね」




 海辺の田舎町を夕日が染め上げる。もしかすると雨は、美しい夕日を作り出す為に降るのかもしれない。

 人々がそれを望むから。それともただの偶然か。出来事が全て繋がっていたのかは、誰にも分からない。

ただ、彼女は願い、願いは叶ったのである。


「こんにちはお姉さん」

「いらっしゃい、糸子ちゃん」


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