ポストクラス会議①
「この前、男二人に女一人という三人組を見たんだが、男の一人は女と手を繋いでたんだ。この状況をどう思う?俺がもう一人の男だったら一歩ごとに脳内で『死ね』って言うけど」
昼休みに食事をとりながら、本屋がそんなことを訊く。真剣なパーマ少年に対してつっこは呆れ顔であった。
「さぁ、どうも思わないけど。分かるのはあんたの器がミジンコ並みってことだね」
かぁっ、これだから女子はっ!
本屋は額に手して天を仰ぎ、今度はバナナを食べていた猿に話しかける。
「なぁ猿。お前なら分かるだろ、このやるせなさ」
「んあ?」
猿はめんどくさそうな顔つきでバナナを飲み下すと。
「そんなん女を真ん中にして三人で繋げばいいだろ」
「どんな関係だよそれ…貼り付けた笑顔すぎるだろ」
と、こんな下らない会話が飛び交うくらいには、1年2組は高校生活に慣れ始めていた。
それはもちろん良いことだが、弊害もある。
「でさぁ、そいつ泣いて頼むわけ。なんでも買ってあげるから捨てないでって。マジでサイテーっつうか~キャハハハ!」
「サイテーだね…」
「ま、バッグ買ってもらって捨てたんだけどね~」
「ははは…」
周りの人間が眉をひそめるような雑談で馬鹿笑いをあげるのは、押杉真理音という女子。愛想笑いで話を合わせている方を橘美咲といった。
この押杉は、入学当初こそ大人しくしていたものの、最近ではこのように自己中心的な本性をさらけ出すようになった。性質が悪いところは、こういうタイプほど周りに人が寄ってきて、集団のトップへと担ぎ上げたりすることであり、橘美咲も押杉を取り巻く一人である。
もちろん押杉をよく思わない人間は多かったが、進んでそれを指摘するのは勇気がいった。その後にイジメ、ハブられる、という単語がちらつくからであり、押杉自身もそれを盾に立ち回っている気風があった。故に、誰も彼女に楯突くことは出来ない。
しかし、教室に何十人と集まれば、例外もいるものである。
「さっきからうるさいぞ。雑談するのはいいが少し音量を落とせ」
その小柄な眼鏡少年の発した声は体格に反してよく通るもので、教室にいる全員の耳に届いた。代わりに一瞬で教室から音が消えたのは言うまでもない。
「あ?」
当然、押杉のような女子がはい、そうですかと黙るわけはなく。
「あんた今なんつった」
「静かにしろって言ったんだ。周りの人間に迷惑だろ」
「そんなこと言ってんの、あんただけだと思うけど」
「俺一人だけで十分理由になるだろ。いいから静かにしろよ」
「だったら私もあんたのそれ、見てて不快だわ。昼休みにプラモとかまじキモイんだけど」
驚くことに、眼鏡の少年は堂々と机の上に戦艦を鎮座させて、組み立てに勤しんでいた。加えてその服装も科学者の着るような白衣であり、押杉に物申すだけあって間違いなく変わり者であった。
そして、その異端ぶりを指摘されても不敵に笑っているばかりである。
「俺は創作活動の一環として担任に許可を貰っている。お前もバカ騒ぎしたいなら許可を貰ってくるんだな」
もちろんバカ騒ぎの許可など担任から下りるわけはないので、押杉は返す言葉に詰まり、せいぜい「担任出して来るなんてマジ反則だわ…」などとぶつくさ言うのみで引き下がった。
どうやらこの場は一応おさまったようであり、教室に安堵の空気が流れる。
ただ、それはあくまで形の上での解決だった。こういう人物はあっさり引き下がって見せたところで、後から裏で色々と悪さをするものである。
翌日、最後の授業のこと。
ロングホームルームと冠されたこの時間は、クラス全体に関わる取り決めを話し合ったり、何かお題を決めて討論したりする。今日の議題は何にするか、まずそこから決めようと、各々隣近所でざわざわしていたところ。
「今日の議題は俺が決めさせてもらう」
突然、例によってよく通る声が教室中に響いた。なんだなんだと一層ざわめきが強まる中、白衣の眼鏡少年は黒板上の天井から吊り下げ式のスクリーンを引き下ろし、投影機材と自前のノートパソコンをあるべき場所に設置する。
「おい黒淵、何する気だよ。議題を決めるって…」
誰かが皆の疑問を代表して問いかけると、白衣の少年、黒淵はニヤリと笑った。
「今日の議題は『俺の上履きを校庭のゴミ箱に捨てた犯人は一体誰か?』だ」
そんなん話し合いで分かるのかよ。
そうだよ、一体どうやって?
そんな声があちこちで上がるが黒淵はそれを右手で制す。
「まぁ、見ていろ。とりあえず今日の議題はこれでいいな?」
黒淵は隅の席で腕を組んで傍観していた女教師が頷くのを確認すると、投影機材とノートパソコンを起動させた。
しばらくしてスクリーンに映し出されたのは学校の化学室にブルーシートを敷いて、その上で上履きに刷毛で何かを塗りたくっている黒淵の姿、その写真であった。
「おいおい、これって…」
別にその道の知識に明るくなくとも、刑事ドラマをよく見る生徒は何をやっているのか感付いた。そして、その誰もがこう思った。そこまでやるか、と。
「そう、指紋を採取した。あとはこの教室の人間すべてから指紋を採取して照合すれば犯人は特定できる」
この教室に犯人がいるとは限らないじゃない。
そうよ、それに時間もかかるし…。
その女子の声は誰のものであったか。しかし、それに対しても黒淵は、その不敵な笑みを深めるだけであり。
「なーに、こっちの指紋はスキャンだけでこと足りるから時間はかからない。やましいことがなければ出来るだろ?」
と、何もかも見透かしたような言い方をする。その発言に再び教室は喧騒に包まれるのだが、その中から席を立って歩きだす人物がいた。腰に竹刀を差した女子、三剣京子はつかつかと歩き、黒淵の待つ教卓の前に立つ。
「面白い。で、どうすればいいんだ?」
「ここに右手の親指を押し当ててくれ」
実に堂々とした京子の態度に満足げに頷くと、黒淵はコードと端子でノートパソコンに繋がった、卵を輪切りにしたような機械を差し出す。断面から赤い光が漏れ出ており、スーパーやコンビニのバーコードリーダーを思わせるような代物だ。
言われた通り、京子が親指を押し当てるとピッという機械音が鳴り、スクリーンに二つの指紋の拡大映像が並んで映し出される。一方は黒淵の上履きから採取されたと思わしきもの、片方は今しがたスキャンされた京子の指紋だ。
皆が固唾を飲んで見守る中、二つの指紋はスクリーンの真ん中で重なる。
「ほう、指紋とはこれ程までに個人差があるものなのだな」
京子が感心する程に、二つの指紋は見た目からして別物であった。
スクリーン上にも赤い文字で「不一致」の文字が点滅している。
「これで三剣京子は犯人ではないと証明された。協力に感謝する」
京子が席に戻ると、つっこ、本屋、ラーメン、猿が、続いて黒淵のもとへ向かう。あれくらいのことで自分の無実が証明されるなら、という考えからであり、それは教室中に広まってゆく。生徒達の列が出来るのに、時間はかからなかった。
そして。
「どうした。スキャンを受けてないのはお前達だけだぞ」
黒淵がニヤニヤと笑いながら声をかけたのは、押杉と、とりまきの女子達であった。まるでこの中に犯人が居ると言わんばかりの黒淵の表情に、押杉は目を吊り上げて反論する。
「なんであんたの命令に従わないといけないの。スキャンする、しないじゃなくて『やって当たり前』みたいな態度が気に食わないんだけど」
「そうだな。確かに義務じゃあないよ。だけどスキャンを受けなきゃ無実は証明されない。俺の上履きを捨てたのはお前じゃないかもしれないし、お前かもしれない。ふふっ、悪魔の証明ってやつだな」
「なっ…そんな屁理屈!」
押杉が叫んでみたところで、既に教室にいる人間の心の中には、あるものが芽吹き始めていた。それは疑惑というもの。これは簡単に成長を遂げ、そして簡単には枯れない。
既に、スキャンを拒絶する人物は怪しい…という構図が出来上がっていたのだ。
「な、なに、あんた!」
教室じゅうが押杉に注目しているのだから、何も彼だけがジロジロ見ていた訳ではないが、押杉は近くにいた男子に喰ってかかった。
「私が犯人だって言いたいの?」
押杉の威圧にたじろぎ、あわれな男子は慌ててかぶりを振る。
「そ、そうは言ってないよ。だけどスキャンくらい受けたらいいんじゃない?本当にやってないならすぐに証明されるんだし…」
宥めるように気弱な笑いを浮かべる彼の後ろに、押杉は何人もの自分を見つめる瞳を見た。そのどれも、彼の意見に同意の色を発している。
「分かったわよ!やればいいんでしょ、やれば!」
ガタガタと乱暴に席を立つ押杉。
あ、待ってよ押杉!
私も、私も行く!
慌ててあとに続く取り巻き達。
「そんな、押杉…」
その中で上がった小さい悲鳴に押杉は一瞬だけ振り返るそぶりを見せたが、すぐに冷たい顔を前に向けて黒淵のもとへ向かうのだった。
果たして、スキャンの結果は。
「これで君達の無実は証明された。協力ありがとう」
ほんと、無駄なことに協力させられたわ。
ってゆーか謝罪とかないわけ?
さっき私達のこと疑ってなかったっけ?
取り巻きたちがここぞとばかり騒ぎ、そして何故か一番ギャーギャー言いそうな押杉は無言で黒淵を睨み付けている。
しかし、黒淵の興味は既に彼女達にはなく、視線は教室の後方、項垂れて今にも泣き出しそうな女子に向けられていた。
「さぁ、お前で最後だ。橘美咲」
黒淵のよく通る声が教室を駆け抜け、全員が一斉に彼女を見る。怯えるように強く目を瞑った彼女に、察しの悪い押杉の取り巻きが声をかけた。
何やってんのよ美咲、あんたもさっさと…まさか…あんた…。
言ってる途中で気付くという間の悪さは、まるでそれを強調する演出のように、教室に渦巻くその考えを纏めてしまう。
おいおい、マジかよ。
俺、橘のこと結構かわいいと思ってたのに…。
上履き隠すとかサイテーよね。
黙ってればバレないと思ってたの?性格わるっ!
「お、押杉…」
ざわざわと起こり始めた非難や嘲笑に耐えられなくなり、橘美咲は押杉に助けを求めた。なぜ押杉一個人に助けを求めたのか。単に彼女が一番信頼する人間が押杉だったのか、はたまた別の理由があるのか。
そんなことに考えを巡らす者は一人としていなかったが、当の押杉は顔を強張らせ、目は何かを恐れる色を滲ませながら。
「ほら、何もしてないんだったらあんたも来なよ、美咲」
と、軽い口調で言った。それはよくよく注意すれば、努めて何でもない風を装っている態度に見えただろう。
そして、その台詞は橘美咲の表情を絶望に変えた。
「あくまでも確定していない前提で問おう。俺の上履きを校庭のゴミ箱に捨てたのはお前か?橘美咲」
確定していないと言っておきながら、断定的で容赦ない黒淵の追求が飛ぶ。
「……」
橘美咲は黙って俯いていた。その態度そのものが彼女への疑惑を更に深めていく。
しかし、そうと分かっていても、彼女は本能的に冷静な判断を下しているのかもしれない。もはやどっちにしろ自分は犯人と断定されるだろう。ならばスキャンによる指紋照合で視覚的に事実を晒すよりは、このまま座してやり過ごす方がまだ曖昧に済むのではないかと。
だが黒淵はそれを許さなかった。
「この段になってもお前は、頭上を面倒ごとが通り過ぎるのをじっと待っているのだな。だがそういう訳にはいかない。他人様の上履きを校庭に捨てるという行為は、軽いとはいえ明確に犯罪行為だ。つまり…」
そこまで言って、黒淵は演技じみた大きな溜め息をつく。いやはや残念だと、思ってもいない意思をそれに滲ませながら、続けた。
「上履きの指紋を警察に提出しようと思う。幸いツテがあるのでね」
「そ、そんなっ、その程度で。そんなの…そんなの捏造かもしれないじゃん。警察がとりあってくれるわけない!」
「なんだ?まるであの指紋が自分の物だと分かっているような言い草だな。くく…しかし捏造ときたか。この期に及んでもお前の頭の中には保身だ。保身、ほしん、自分の立場が少しでも良くなるなら何だって言う。実に自己中心的な見苦しいふるまいだ」
散々に言葉の刃を飛ばしてから、そこから継いだ黒淵の次のセリフは、今日一番暗く、底冷えするような低いトーンであった。
「最後の警告だ。今すぐにその態度を改めないのなら、お前は大いに後悔するだろう」
ここまでの黒淵の、ある意味狂気じみた徹底ぶりを鑑みるに、その言葉を単なる脅しだと笑える者は一人としていなかった。教室を、冷たい沈黙が包み込む。
「だ、だから捏造だって…」
「謝る気はないのだな?」
ま、別に謝罪を求めているわけではないんだけどな。
黒淵はポツリと呟くと、卵を輪切りにしたような機械に、自分の親指を押し当てた。ピッと音が鳴り、スクリーンに二つの指紋が並ぶ。やがてそれは真ん中で重なり…。
「っ!!!」
スクリーンを見た生徒たちは皆、声なき叫びをあげた。
完全一致。赤の文字でそう表示された画面を、彼らはしばらく呆然と眺めていた。