ポスト祭の夜
糸男こと北野誠光は、暇が出来ると掃除をする。
この日も縁側の床をピカピカに仕上げ、満足げに額の汗を拭っていた。
田舎の大気に蝉の声が充満する昼下がり、かすかな風が風鈴を揺らし、独特の清涼感を運んでくる。
そんな糸男宅の庭に、一つの影が降り立った。
「やぁ、精がでるな」
影の主は糸男にそっくりな糸目を持ちながら兄妹ではない、糸子こと香月花梨である。
あまりに自然体で侵入してくるクラスメイトに、糸男は呆れた声をあげる。
「もう玄関も通らないのな」
「固いこと言うなって。親しき仲にも礼儀ありって言うだろ」
「?じゃあ玄関通れよ」
どうやら糸子は格言を間違って覚えているらしい。
あまり深く追求すると面倒なので、糸男は早々に次の話題へと移ることにした。
「そのスイカ、どうしたんだ?」
糸男が指をさしたのは糸子の抱えた大きなスイカだった。質問するなという方が無茶な存在感を放っている。
「いつもいく八百屋で貰ったのさ。ここんところにちょっと傷があるから、売り物にならないんだと」
糸子の案外に細くてしなやかな指。なぞる部分を見やればなるほど、亀裂のような傷が入っている。 だが、食べるぶんには全く問題なさそうだ。
「で、何故に俺のところへ」
「スイカ割りでもしようかなってな。こういうところでやった方が風情があるじゃないか」
糸子の返答に糸男は額に手をやった。
わざわざそんなことの為に電車で遥々やって来たというのだからさもありなん。
しかもうら若き乙女が大きなスイカを抱えているのだから、車内はさぞかし異様な光景だっただろう。
「桶に入れて井戸の水に浸けときな。昼を過ぎたらスイカ割りしよう」
折り返しスイカ女を出没させる訳にもいかない。
しかたなく付き合うことにした心優しい糸男であった。
「ごちそうさま」
糸子がちゃぶ台に皿を置き、手を合わせる。
昼食がまだだというので、糸男が作った炒飯を御相判となったのだ。
「悪いな、催促したみたいで」
「いや、はっきり催促しただろ」
糸男の脳内に流れる30分前の回想シーンで、糸子は腹へったを連呼して手足をバッタバッタとやっていた。
(少しは遠慮しろよ)
みんなの溜まり場と化した自宅で食事を提供するのは慣れっこであったが、糸子は特に遠慮というものを知らない。 今日もお代わり三杯を要求し、涼しい顔である。
「俺はお前の彼氏かっての」
突然やって来て好きに振る舞う有り様にツッコんだのだが、糸男は言った瞬間にまずったと思った。
みるみるうちに顔が赤くなっていき、滝のような汗が流れる。
「いや、お前は私の彼氏ではないぞ」
対してこんな時ばかり真顔で返してくるのだから、ミス・天然は性質が悪い。
「はい、そうですよね」
純情な少年はそう答えて萎れるしかないのであった。
ブルーシートにスイカが鎮座している。
糸男宅の庭にて、何に使っていたか分からないが手頃な棒を手にした糸子は、腰に手をあてて言った。
「さて、準備は万全だな」
腹も満ちて元気100%である。 そこに嫌な予感がした糸男は、こんなことを言い出した。
「目隠しする前にそこの地面を叩いてみろ。軽くな」
「ここか?軽くでいいんだな」
その意図は分かっていなそうだが、基本素直な糸子は言われた通りに棒を振り上げ、そして振り降ろした。
爆弾でも埋まってたのかとまがう程の風が巻き起こり、思わず糸男は両手で顔を守る。
風が止んだと思ったら、今度はパラパラと土砂が降ってきて、それが収まるころに漸く晴れてきた砂煙の中から、棒を振り降ろした姿勢の糸子と、ぽっかりあいたクレーターが。
「折れてないとは棒スゲェェ!一体何に使われていたんだ!」
いや、そうじゃない。
我に返った糸男は急いでつけ加える。結果、ノリつっこみみたいになった。
「そうじゃなくて、中止だ中止!」
「えーっ、なんでだよ」
「なんでって粉々だろーよ」
yesスイカ割り。noスイカ粉砕。
縁側に腰掛け、綺麗な三角に切られたスイカを手に持つ糸子は仏頂面であった。
食べ物を前に彼女が不機嫌なのは珍しいが、既に3きれ目であるところが彼女らしい。
「割りたかったのに」
ブツブツいいながら3きれ目も完食し、無言で手を出すと、4きれ目が渡される。庭に投げ出された素足がパタパタと振られ、徐々に機嫌が直っていく様を表していた。
「食べられなくなるよりはいいだろ」
その様子を微笑ましく思い、苦笑いを浮かべながら糸男は自分もスイカをかじる。
甘い。傷はあっても当りの一品だったようだ。
(姉さんにも少し残しておくか)
この時糸子はおろか糸男でさえ気づかなかった。
糸子がスイカを得るために手を差し出している方向と、糸男が座っている位置は真逆だということに。
夕方になって糸子を玄関まで見送った糸男。
帰ってきてさて残ったスイカはどうしようかと縁側を見ると、和服の幼女がスイカをかじっている。日は傾き、随分低いところを陽光がさしているが、彼女の体からは影が伸びていなかった。
「姉さんいつの間に」
「さっきからいたよ?」
「さっきっていつから」
「あの子とせーちゃんがスイカ食べてる時から」
溜め息を一つ吐き、糸男は説教モードに入る。
「俺にも見えないくらい気配を消すなっていつも言ってるだろ」
「だって見えてたら他所に行けって言うでしょ」
「当たり前だろ。人間は何かの拍子で霊感が強くなったりするんだぞ。万が一糸子に感づかれたらどうすんだよ」
「せーちゃんに見えない状態なら誰にも見えないわよ」
「あのな、親父が言ってただろ?存在に気づく手段は何も『見る』だけじゃないって。実際京子なんかは視覚以外で姉さんの存在を察知してるふしがあるし……とにかく、俺の監視が届かないところで勝手をされたら困るんだよ」
「はいはい、どーせ私はひとりぼっちですよーだ」
それを言われたら弱い。
膨れっ面の幼女である姉は間違いなく確信犯であるが、そうと分かっていても糸男の説教はいつもそこでストップだ。
困った時の癖でポリポリと頬を掻くと、口から出たのは幾分柔らかい、宥めるような声。
「今夜は祭だろ。そろそろ浴衣に着替えておいでよ」
ずるにはずるを。
お祭りという単語を出せば姉の機嫌は直ると彼は知っている。
「そうだったそうだった、今日はお祭りっ!」
私、着替えてくるね!
スキップ混じりで箪笥のある部屋に向かった姉を見送りながら、糸男は「大人になったなぁ」と独りごちる。
横を見やれば縁側と広間の境界線上に1本、柱が立っていた。いつからか止めてしまった背比べ。その名残が今になると随分低いところに刻まれている。片方はずっと同じ位置、片方は刻まれる度に高さを増していき……。
お祭りの日がやって来る度に、糸男は一抹の寂しさを抱くのであった。
大して待たしてもいないのに、幼女姿の姉は見た目相応に待つのが苦手である。
「も~う、せーちゃんおっそ~い!どこ行ってたのよ」
「鎮守様にスイカを供えてきたのさ。向こうはもう始めてるみたいだったぞ」
「だったら早く行こうよ、はやくぅ」
体全体を使って急かしてくる姉に苦笑して、浴衣姿の糸男は提灯に火を入れる。 闇に塗られた庭にそこだけオレンジが広がった。
私が持つと言って聞かないので、木綿の芯を倒さないよう注意しつつ提灯を姉に渡すと、糸男は森に向かって歩き出す。
一見すると森はいつも通りただ静かに佇んでいるだけだが、そよ風の中に微かな笑い声、酒の杯を打ち合う音、ひそひそと交わされる噂話。森の住人達の息遣いが混じっている。それを感じられる者だけに、今宵の祭は開かれているのだ。
森の境目までやって来ると、二人はしきたり通りに目を瞑る。昼間なら百兎の森とかろうじて読める石碑の横を抜けると、糸男の耳にトトトンと太鼓番の鳴らす拍子が聞こえてきた。
ああ、今年も招かれた。わすがな感慨と共に目を開けば、きらびやかな灯りの道が森の中を煌々と続いている。この社まで続く灯籠の道を中心に、蛍火のような提灯の灯りが、そこかしこにゆらめいていた。その灯りの数だけいるのだ。さっそくとばかり糸男達に話かけてきたでかいカエルのような、人外の者達が。
「これはこれは若旦那にお嬢さん。今年もよう来られた。百兎の森は貴殿らを歓迎しますぞ」
妙に大仰な口振りは衣装にも表れており、でかいカエルの妖怪は侍のような出で立ちであった。
「やぁ、ガマか。たまには見回りだけじゃなく、酒でも飲んだらどうだい」
「いやいや、このように皆が浮かれている時にこそ間者は入り込んで来ますからな。祭は拙者が守る故、安心して楽しまれよ」
因みにガマが間者を捕まえたことは一度もないし、誰も警備など頼んじゃいないのだが、まぁようするに妖怪にも中二病はいるということだ。
「だけどお前の刀は竹光じゃないか」
「竹光でも拙者の体からとれる油で磨いでありますからな。よう切れるのです」
ガマガエルは鏡に写った自分の顔を見るとあまりの不細工ぶりに脂汗をかくという。これがガマの油の逸話である。
自虐ネタかよ!と、糸男はツッコミたいところだったが、こいつは大真面目で言っているのだから傷付く発言は控えた。
「そうか、それじゃあしっかり励んでくれよ」
「ぬかりなく」
本人が満足しているならそれでいいのだろう。森の住人は人間よりも自由を好む。 祭の楽しみ方もそれぞれというわけだ。
「あれはもう、一生ああなんだろうねぇ」
去っていくガマの背中を見送りながら、純な顔つきでサラリと毒を吐く姉。
もはや癖になってしまった苦笑いを浮かべ、糸男は灯籠の道を再度歩き始めた。
「まぁ、若旦那がいらっしゃったわ」
「おじょぉ、今年は酔っぱらって暴れないでくださいなぁ」
「これはこれは若旦那、炒った椎の実はいらんかね」
歩みを進めるごとに糸男達に向けて数々の声がかけられる。
森と人間界に結ばれた絆。それを守る家の長男である糸男は、ちょっとした有名人であった。
露天――人間の祭ではあまり見られない品々を売っている店からは、当然のように「いらんかね」が飛んでくる。中には何も言って来ない店もあるのだが、こちらは正体の怪しい商売なのか、コソコソ目立たないよう振る舞っていた。
良くも悪くも古い付き合いの鴉天狗などは、このコソコソ組の代表である。今年も隅の方に姿を見つけた糸男は、一言注意してやろうと近付く。
ああ、またやってるな。
毎度ながらナンコと呼ばれるギャンブル紛いの店を開いており、今も客という名の鴨を相手に、黒いビジネスに勤しんでいた。
まぁ、妖怪の世界で化かし化かされは常なので、糸男も軽く咎めるつもりだったのだが。そうもいかなくなったのは、その客があまりに意外な人物であったから。
「糸子!?」
さっき別れたはずの姿がそこにある。
しゃがみこんだ彼女は背後の糸男に気付きもせず、鴉天狗の翼に向かってウンウン唸っていた。ナンコのルールにのっとって、翼の中に幾つの木の実が隠されているか、当てようとしているのである。
「ややや、北野の倅殿。こ、こちらの御狐様はお連れ様で!?」
一方鴉天狗は大慌てだ。糸男の知人に手を出したとあれば、どんな制裁を受けるか分からない。
糸男は普段より幾分剣呑な色を湛えた糸目を鴉天狗に一睨みさせてから、糸子の肩を叩いた。
「糸子、こんなところで何をやってるんだ!」
「おー、糸男じゃないか。いや、帰りにちょっと森に寄ってみたら面白そうなことをしてたんでな。今はナンコってゲームをやってるんだが、この鳥みたいな顔したおじさんが強いのなんの。景品の白い羽根がなかなかとれないんだ」
鳥みたいな、ではなく鳥そのものである。まぁ、妖怪だと気づかないなら糸男にとっても都合が良い。
それはともかく早く止めさせるべきだと、糸男は鴉天狗に詰め寄った。
「おい、いくらだ」
「は」
「いくら騙しとった」
「はて、なんのことか。ナンコとは負けた者が酒を飲むしきたり。騙しとるようなものなど……い、いえいえ、正直に言いますから妖力をお納めになって。そ、そのう、金の石と銀の石を5枚づつ程……」
いやはや、さすが御狐様はお金持ちでいらっしゃいますなぁ、と鴉天狗は誤魔化し笑いをするが、再び膨れ上がった糸男の妖力の前にすっかり縮こまってしまった。
「因みに今回は何個に賭けたの?」
糸男が鴉天狗に無言の圧をかけている間、姉が糸子に話かける。
「3個だ。0、0と来たからそろそろと思ってな」
「ですってよ、鴉天狗。答えはどうなのかしら。その翼を開いて見せて頂戴」
「あ、いや、倅殿とお嬢の前ではその」
「四の五の言わずに開けるんだ」
糸男は翼に手をかけると「ああっ、ごむたいな」という悲鳴も聞かず、強引に開け放つ。
「木の実が、浮いてる!?」
成る程、翼だから持てないしな、とはならない。
糸子が驚いた通り、浮いてる3つの木の実が意味するところとは。
「いくらでも抜き放題というわけだ。客が賭けた後にな」
糸男が種を明かし、鴉天狗はガクリと項垂れた。
天然の感性とでも言うべきか、実のところ糸子はここまで何回も正解を出していたのだ。それをインチキで誤魔化ししていたことがバレ、あまつさえ今回も正解だったと明かされた。
大切な白い羽根がとられるばかりでなく、今までの稼ぎまで没収されかねない事態である。
そして何よりプルプルと震えている糸子の姿が、鴉天狗に後悔の念を抱かせていた。
(やはり、怒ってらっしゃる!)
何しろ妖狐とは生まれながらにして高位の存在。鴉天狗など相手にならない大物である。
ホイホイ乗ってくるので調子にのって詐欺を働いたが、よく考えれば大変危険な行為だったと、今更ながらに戦慄したのだ。
「あ、あの、御狐様。どうかお怒りを……」
「すごいっ!」
突然糸子がパン、と掌を打ち鳴らし、鴉天狗の口から「ひっ」と悲鳴が漏れる。
翼がもがれてないかキョドキョドと確認するも、何も術を使われた形跡はなく、何より目の前の御仁はニコニコと笑っており。
「おじさんは手品師だったんだな!」
「はい?」
「いやぁ、最近の手品ってレベル高いんだなぁ。糸で釣ってるようにも見えなかったし。それをこんな小銭で見せてくれるんだから、おじさんはいい人だ」
頭の整理がつかない鴉天狗の翼を握ってぶんぶん振ると、糸子は満面の笑みで言う。
「また来年も楽しみにしているぞ」
どこまでも純粋な人間の少女は歩き出し、腹黒い妖怪は呆然と立ち尽くしていた。
「……」
何とも言えない表情でその光景を見守っていた糸男だが、やがて糸子の後を追って歩き出す。 弾かれたように、我にかえった鴉天狗が慌てて糸男のもとへ駆け寄った。
「あ、あの、金の石と銀の石、返します。あとこれを御狐様に」
糸男が手渡されたのは白い羽根。 鴉天狗が大鴉天狗から、褒美として賜る宝物だ。
「……そうか」
いいのか?と糸男は聞かなかった。幼馴染みともいえる友人の成長を、その瞳に垣間見たからだ。
「俺の神通力なんかをあんなに喜んで頂いて……俺、真面目に修業します。来年はもっと凄いの見せるって、伝えて下さい」
毎年大体同じ頃に祭は開かれる。しきたり通り欠かさず顔を出し、それなりに楽しんでいた糸男であったが、今年は特別な一夜になりそうだ。
「えっ、これ、貰っていいのか?あんなに凄い手品見せて貰って」
「いいんだ。あいつがそうしてくれって言ったんだから」
糸男が白い羽根を渡してやると、両手で押し頂くようにうけとり、糸子はほう、と息を吐いた。
「きれいだな」
人によっては詰まらない、ただの鳥の羽根である。
しかし、彼女のいつも笑っているような目は、物事の本質を敏感に感じとる、鋭敏な感受性を有しているのだ。
「ご利益があるからこの袋に入れてお守りにするといいわよ」
「ありがとう、糸男のお姉さん」
姉が和服の生地の余りで作った紐付きのお守り袋を渡すと、羽根を入れて、大事そうに首から下げる。
「俺の姉だって言ったっけ?よく分かったな」
「?だって年上だろ?」
「そうよ、どっからどう見ても年上じゃない」
失礼な弟よねー。
顔を見合わせ、彼女達はクスクスと笑いあう。
あっちに甘酒売っているから、後で行きましょうよ。
おお、あの正月に飲むやつか。好きなんだ私。
いつの間にか仲良くなっている二人は昔からの友人、あるいは姉妹のようであり。
「糸子、お前は凄いやつだな」
「ん、何か言ったか糸男」
「いや……」
照れ臭くて二度は言わなかったが、何となく嬉しくなって、糸男は再び歩き出すのだった。
ほぉ、今年は御狐様もいらっしゃったのか。
化け姿のなんと美しいことよ。
どこぞ名のある姫君であろうか。
社への道中、糸男への挨拶の影に、こんなひそひそ話が飛び交っている。妖怪達が糸子を妖狐と勘違いしている故であるが、まさか糸男以外の人間が紛れこんでいるとは思わないので当然であった。
しかし、こと森の主、鎮守様の眼力はさすがに違った。
「よくぞ参った、誠光、一葉。そして人間の子供よ。スイカは汝の供と聞いた。礼を言うぞ」
鳥居をくぐった先にある社の入り口、普段は近所の老人達が参詣する場所に、鎮守様はどっかりとその巨体を据えている。
酒宴を供する幾匹の眷族達も、今は杯を止めて糸男達に注目していた。
「やぁ、兎みたいなおじさん。私は香月花梨だ。今日は招いてくれてありがとう」
兎みたいなではなく、兎その物なのだが、彼女の世界観はどうなっているのか。
「あ、あのな糸子。鎮守様は……」
「よいよい。ワシの正体なぞ些末なことじゃ。今宵は種族に関わらず、供に祭を楽しもうではないか」
「もちろん、そのつもりだ」
糸子と姉が甘酒を飲みに行き、糸男は社に残った。
当然糸男は糸子の身が心配であったが、あの娘は大丈夫だと鎮守様が呼び止めたのだ。
「謝るつもりだったのだろう?」
「ああ、偶然とは言え、人間を祭に連れてきてしまった」
森の祭は妖怪達の物。そんな糸男の考えに鎮守様は諭すように語り出す。
「ワシが鎮守の座についてからどれ程の年月がたっただろうか。それこそ人間にとっては途方もない時が流れ、今は我らの存在を知る者も少ない」
大兎の赤い目は、悲しそうに細められ、森に広がる灯りを写している。
「昔は違ったのか」
「ああ、昔は、特に年若き子供達は、共に祭りを祝ったものだ」
まだ人間達にとって、世界が未知で溢れていた頃。妖怪、変化、数多の神々は当然のごとくそこにあられ、畏れ敬われると同時に親しまれる存在であった。
「妖怪も、人間も、共に森の恵みに感謝を捧げる。これこそが祭の本意なのだよ」
だから。
今度はその兎面に喜色を滲ませ、鎮守様は続ける。
「久し振りに人間の子と話せる機会をくれたこと、誠光には感謝しておるぞ」
森と外の世界。
妖怪と人間。
北野家に課せられた役目。
少し一人で考えたくなった糸男は、鎮守様に断りを入れて人気のない鳥居のある場所までやってくる。手にした杯からちびりと飲むのは一年に一度だけ飲む、鎮守様に頂いた酒。人間の酒は気分が悪くなるが、妖怪の酒は悪酔いしないのは何故だろうか。
昔からそうだったから、当たり前だから、糸男は考えたこともなかったのだ。
チン、と力ない音と共に古めかしい黒電話が受話器を受け止める。
「良かったの?友達から誘われたんでしょ?花火」
糸男は一瞬ギクリとして、取り繕うように笑顔を姉に向けた。
「いいんだ。今日は姉さんと花火するって決めてただろ」
「私とはいつだって出来るじゃない。付き合い悪いと嫌われちゃうわよ」
「いいんだ」
少し語気の強まった糸男の言葉に、姉は小さく溜め息をつく。
「臆病だよね、せーちゃんてさ」
しょうがないじゃないか。
俺は、境界線の上に立っているのだから。
それは、いつかの夏のこと。
いつものように諦めた、いつもと変わらぬ日常の一幕。
自分は一体どうしたいんだろうか。森の出口が近づくにつれ、そんな思いが強くなった。
横を見やれば姉が、先程まで提灯を提げていた手を糸子と繋いでいる。
この逢瀬は束の間だ。糸男は、社で鎮守様と交わした会話を反芻する。
「どうして糸子は妖怪が見えるようになったんだろう」
「色々な条件が重なった故であろうな。例えばあのスイカは僅かに妖力を孕んでいたようだが、何か思いあたる節はないか」
「ああ……姉さんが触ったスイカを食べたからか」
「うむ、それも一つ。元々あの娘に素質があったことも一つ。そして今宵の森は妖力に溢れておるからの」
「……妖怪が見えるのは森の中だけということか」
自分と同じ物を見て、同じ物に触れる。かねてより望んでいた時間。さりとて叶うことはないと思っていた時間。それがもうすぐ終わりを告げる。
シンデレラの魔法ってシンデレラの為ではなく、王子様の願望なんじゃないか。本屋が言い出しそうな文学的なことを考えながら、糸男はしきたり通り目を瞑った。
「……」
虫が慎ましく鳴いている。目を開いた時に立っていた庭は、なんだか嫌に静かで、よそよそしく感じられた。
ほんの少しの間、打ちのめされたように立ち尽くしていると、後ろで砂利を踏む音が鳴る。「あ」という姉の声。もう糸男にしか聞こえない寂しげな声に振り向くのと同時、糸子が糸男の側をすれ違っていく。
糸子はそのまま数歩いくと、後ろ姿のまま立ち止まった。
境界線だ。
姉と糸子の中間点に立ち、糸男は思う。
混じりあっていた世界は今、ほぐれてバラバラになってしまった。
人間の世界、人ならざる者の世界、そして――どちらにも居られない境界線上の世界。
糸子の後ろ姿からは感情が読み取れず、焦燥感が、糸男の口から言葉を追いたてた。
「あのさ糸子、姉さんは」
「ありがとう」
ふいに振り向いた糸子はいつもと変わらない笑ったような顔をして礼を言った。それがますます糸男の不安を掻き立てる。
「うん、楽しんでくれたなら嬉しいよ。姉さんにも伝えて」
「伝わってるだろ」
「え」
糸男の糸目が限界まで開かれる。
一瞬糸子が何を言っているか分からず、分かった時に、声は震えていた。
「お前、まだ見えてるのか」
「見えない」
糸子は寂しそうに首を振り、けれどその分力強く、はっきりと言い切った。
「でも分かるよ」
熱くこみ上げてきたものは、報われたような感覚。
こぼれ落ちる前に、糸男は糸子を抱き締めていた。甘い香りは懐かしい香り。今は失われた追憶の香り。
「私はせーちゃんや父さんと同じ世界は見えないの」
「姉さんのことは」
その美しい人は「姉さんもよ」と、心底つらそうな顔をしていた。でも、それに負けないくらいの笑顔でこうも言ったのだ。
「でもちゃんと分かるから。そこにいるって感じられるから」
ああ、そうか。
俺が勝手に決めていただけだ。
「境界線なんてどこにもなかったんだな」
「ん?」
「いや、なんでもないよ。それより悪いんだけどさ」
「別にいいよ。こうしていたいんなら」
お前は本当に凄いやつだな。そんな呟きが虫達の鳴き声に溶け、見守る少女は、自分のことのように浴衣の袖を濡らす。
「良かったね、せーちゃん」
それはとある夏の日のこと。
携帯電話を切る前に思いきって言ってみた、例年とは違う、日常の一幕。
「だったらさ、俺の家でやらない?花火」
いやっほう、家主から許可がおりたぜ!
向こうでみんなの騒ぐ声を聞いた時に、糸男は決めた。
いつか全部うちあけよう。あいつらならきっと、受け入れてくれるから。




