ポスト変わるもの、変わらないもの
ガラリと引き戸を開けると、殺風景なコンクリートの灰色が一同を出迎えた。
山へ帰るカラスのように、会社帰りのサラリーマン達が一時の酔いを求めて止まり木としていたパイプ椅子も、いくつものビールジョッキや料理を受け止めた煤けたテーブルも今はない。
プロ野球が放映される時間になれば口の悪い女教師の怒声、あるいは歓声をその身に浴びていたブラウン管テレビ、意外と面白いなと男子学生達がはまった昭和刊行の漫画本、小柄な目付きの悪い猿みたいな少年が時おり宇宙人のマネをやって苦笑いされていた扇風機。
一同の瞼にはいまだ焼き付いた光景だったが、どれも幻に過ぎず、その定食屋はがらんどうであった。
「よく来たな。カウンターしかないが、まあ、座れや」
そんな侘しい場所で一人、自らの教え子達を待っていた宝蔵槍子が、この空間で唯一残った席へと本屋、猿、ラーメンを誘導する。
「コーラでいいか?最後の三本、氷で冷やしといたんだ」
宝蔵槍子は厨房に入ると、引き払われた業務用冷蔵庫の代打を勤めるバケツから、コーラの瓶を三本、自分用には缶ビールを取り出してきて、栓抜きと一緒にカウンターに置く。
席についた少年達は、黙ってこれに頷いた。
「そう神妙な顔をするなって。バァさんも明るい方が嬉しいに決まってる。あ、最後くらいタダで飲ましてくれるよな、バァさん?」
彼女もそんな時代があったのだろう。宝蔵槍子はニヒヒと悪ガキのように笑い、一つの遺影が「しょうがないねぇ」とばかりに笑い返している。
厨房からカウンターに料理を渡す際に使う台。そこからなら、店内を見渡すことが出来るだろう。
遺影の中のバァさん、この定食屋の店主がずっと見ていた景色を最後まで、という宝上槍子なりの気遣いであった。
「それじゃ、乾杯」
プシリと缶ビールが開けられ、傾けられると、少年達は困惑の表情を見せる。
「先生それは」
「いいんだよ。不謹慎て言葉は禁止だ」
「そうか、そうだな」
チラリと遺影を見ると何か聞こえたのだろうか。
ようやく納得した少年達は、各々の瓶を開け。
「乾杯」
がらんどうに4つ、乾杯の声が響いた。
「プハーッ。昼間ッから飲む酒はいいねぇ!っと、悪い、悪い、主役に何も無しってのはあんまりだよな」
既に五口も飲んでしまった缶を、宝蔵槍子は遺影の前に置く。
なんだか大変に無礼のようだが、それが彼女と店主の関係なのだろう。
「先生は長いんですか。この店」
「中学の時からだから、ひぃふぅ、みぃ、と。かれこれ16ね」
自分で指折り数えてから、何かがバレると気付いた彼女は理不尽に本屋の頭を小突く。
「私の歳はいいっつーの。お前らは今年の春から通い始めたんだって?」
別に先生の歳を訊いたわけじゃないんだけどと思いながら三人は頷いている。
「短い付き合いだったろうが、お前らのことはバァさん、よく話してたよ。近頃、店を開ける前にやってくるアホガキがいるって」
アホガキか。
そう言えばここに来る度にアホなことばかりやっていたな、と三人は思い返す。
それぞれの脳裏に少し前まで続いていた日常の風景が広がっていった。
「悪霊退散、悪霊退散!」
「ナンマンダブ、ナンマンダブ」
店に入るなり徐霊を始める本屋と猿を、ラーメンが呆れ顔で見ている。
そこへバァさんが雷を落とすのがお決まりの流れであった。
「こりゃ、縁起でもないわ!毎度毎度、人の顔みて念仏唱えるでないよ!」
「生きてるババァはもっと怖いっと」
「ったく、失礼なガキ共だねぇ。ラーメン屋の息子、あんたも見てないで注意したらどうなんだい」
「いや、孤独な老人と若者のふれあいを邪魔しちゃ悪いと思って」
「……あんたが一番失礼な気がするよ」
そんなことを言ってる間にも猿が壁に何かを張り付けようとしている。
「ちょっとそこ、裸の金髪なんて貼るんじゃないよ。ここはそんな、ロックンロールな場所じゃないんだから」
こんな具合に、少年達がやってくると店内が騒々しくなるのもいつものことであったが、それは彼らなりの意思疏通、挨拶がわりみたいなものであり、バァさんだって本気で怒ってはいない。
それを証拠に、一通りの挨拶が済めば、バァさんはこんな風に言ってくる。
「それで、何食いに来たんだい?」
「そんなの決まってるっしょ」
「唐揚げくれよ、バァさん」
性格はひねくれていても胃袋は正直なもの。少年達はバァさんが作る唐揚げの虜であった。
バァさんは目を輝かせた食べ盛り達をニンマリと見渡すと。
「あいよ、ちょっと待ってな。大盛り食わしてやっから」
割烹着を整えながら厨房へと引っ込んでいく。
そして、暫くするとテーブルに出されたのは本当に山盛りの旨そうな唐揚げ。
「おほっ、これこれ!」
本屋と猿は手掴み、ラーメンは一応料理屋の躾か、備え付けの箸でもって取り皿に唐揚げをよそう。
「それじゃ、いっただっきまーす!」
元気に食材と、作ってくれたバァさんに感謝の手を合わせると、大きくガブリとかぶりつく。
「うんめぇ~」
一口食べれば止まらない。大皿に盛られた大量の唐揚げは、瞬く間に少年達の胃袋へと納められていく。バァさんは満足そうにその光景を眺めながら一服するのであった。
やがて 一本のタバコが灰になり、そう時間も経たないうちに、大皿はきれいさっぱり空になる。
いつもこのタイミングでバァさんは湯飲みとやかんを持ってきて、お茶を振る舞ってくれる。 ちょっと渋い、放課後ティータイムの始まりだ。
「は~うまかったなぁ。でもこれで一人100円は完全に赤字じゃないのか?」
「準備中に入ってきて今更変な気を遣うんじゃないよ、本屋の息子。年寄りの料理人つーのは若もんの食いっぷりが何より嬉しいんだから。それにジイさんが生きてたらタダにしてるところだよ」
「ジイさんはいい男だったかい?」
「そりゃもうね。若い頃は商店街でも有名だったよ。女殺しが板前で、絶世の美女が看板娘やってる定食屋ってね」
「絶世の美女って、さりげなく自分を格上にしてるな」
「そりゃジイさんの方が修行先で声かけてきたのがあたしだったんだから。ああ、今でも覚えてるよ。あの燃えるような情熱的な夜を」
うっとりと思いを馳せるババァに三人はオエッという顔をする。
「そりゃどういう意味だい?」
「いや、唐揚げ食う前に聞かなくてよかったなって」
「ったく、つくづく失礼なガキ共だね。いいかい、あたしは若い頃は和製ヘップバーンて言われてたんだよ」
「ヘップバーンとはまた盛ったなぁ」
「ババァの場合は老後の休日って感じだよな」
あっはっはっは。
店に笑いが響き渡り、次いで拳骨の音が3つ鳴る。こんな感じが少し前までこの店にあった、日常の一幕。
「ふ、ふひっ、ろ、老後の休日って、誰うま」
「先生、ウケすぎですよ」
「やっぱ俺らかなり失礼だったかもな」
第三者の目で見ると気付くこともある。
爆笑する宝蔵槍子を当時の自分達に重ね、何となく自責の念に駆られる三人だったが。
「いやいや、そんなこと気にするな」
宝蔵槍子は「ああ、おかしい」と、目尻からそっと涙を拭うと、シュンとしてしまった少年達を優しく諭す。
「ここいら商店街の連中だってガキの時はみんなそんなもんだったさ。そうやってバァさんから教えてもらっだんだよ。イタズラで済むことと済まないこと、越えちゃならないラインってのをな。バァさんはそういう教育者としての立場を大切に思っていたし、同時に楽しんでもいた。悪ガキ代表で今は教師の私が言うんだから間違いない」
「先生はバァさんを本気で怒らせたことがあったんですか」
「まぁ、な。バァさん自体、本気で怒ることは少ない人だったから、これは苦い思い出になっちまうんだが……」
宝蔵槍子が大学2年生になった頃。
接客業を経験するのも大切だろうと、バァさんの定食屋でバイトすることになった。
「意外と似合うじゃないか」
エプロン姿をバァさんが誉めてくれた初出勤の日を、彼女は今でも鮮明に覚えている。
もともと頭の回転が早いこともあり、給仕を卒なくこなせるようになるまで一週間かかっただろうか。
容姿もいいので「こりゃあ看板娘はヘップバーンから交替だな」などと常連が軽口を叩くくらいには店に馴染んでいた、そんなおりのこと。
「よ~う、邪魔するぜ」
最後まで残っていたサラリーマン達も帰り、そろそろ店を閉めようかという時刻、少々ガラの悪い5人組の男が来店した。
「悪いね、もう閉店だよ」
テーブルを拭きながら宝上槍子が言うと。
「ああ!?客がわざわざ足を運んでやったんだぞ!?客商売が入店拒否んのかよ」
客という立場を笠に着て勝手なことを言う男に、気の強い宝蔵槍子はカチンとくる。
「表の札に準備中って書いてあったろうが。無理矢理入ってきて無茶苦茶言ってんじゃないよ」
「なんだとこのあま……」
そこへ、一触即発の雰囲気を察したバァさんがやって来る。
「いいよ、そんなにウチの飯が食いたいってんなら座んな」
男達はフンっ、と鼻をならし。
「最初から大人しくゆーこと聞けっつの」
宝蔵槍子に「店員の分際が」という睨みを入れながら乱暴に席へとついた。
そこからは宝蔵槍子が注文をとる際に「しけてるメニュー」だの「ブス」だの、煽ってくるばかりであり、彼女が聞き流して料理と酒を運べば、後は仲間内でばか騒ぎが始まる。
まぁ、他に客がいるわけでもなし。このまま飲み食いを済まして帰るのならば、暫くの間嫌な経験として宝蔵槍子の胸中にくすぶるだけであっただろうが。
しかし、彼らは大量に酒を注文したのである。
「おい姉ちゃん、酒のお代わり持ってこい」
「それで最後だって言っただろ。もう冷蔵庫は空だよ」
「じゃあ走って買って来いよ!ったく、気がきかねーな」
「あんたらねぇ……ちょっとバァさん、何してんのさ」
見ると、バァさんは車の鍵を片手に裏口から出ようとしている。
「何って酒を仕入れにいくのさ。この時間に開いてる酒屋はちょっと遠くにあるから、免許持ってるあたしが行くしかないだろ?」
「こいつらの言うことなんか聞く必要ないって」
「長年店やってるとね、こういう連中もやってくる。ウチは小さな店だからこそ、大手のチェーン店では出来ないような接客をしたいと思ってるんだよ」
「それが客の我が儘を聞くってことなのか?」
「そうじゃない。まぁ、帰ってきたらあたしがなんとかするから、それまでここを頼んだよ?」
店を出たバァさんはこの時、宝蔵槍子を一人置いていくことに一抹の不安を抱いていたと、宝蔵槍子は後になって聞いた。
曰く「あの頃のあんたはちょっと融通のきかないところがあったからねぇ」であり、その不安は酒を仕入れ、急ぐ帰りの車中でますます強まっていったらしい。
そして車を車庫に入れ、重たいビールケースを抱えて裏口から戻ったバァさんは、不安が的中したことを知る。
「お客さん、待たせたねぇ。でも冷やしてあるビールを何本か譲って貰ったからこいつでしばらく……」
バァさんは絶句した。
カウンターの向こう側が、阿鼻叫喚と化していたからだ。
散乱した椅子と、床に這いつくばる4人の客。
そして今まさに5人目が宝上槍子に胸ぐらを掴まれ、床への直行便、右ストレートを顔面に食らおうとしている。
「槍子、あんたお客さんに何やってんだい!?」
「客……?」
悲鳴に気付いた宝上槍子はゆっくりと顔をバァさんに向ける。その目は、大分据わっていた。
「客だなんて呼ぶ必要無いよ。こいつらは私のサンドバッグになるくらいしか生きてる価値がないんだから」
「何言われたか知らないけどね、その人離して奥で頭冷してきな」
「腰抜けもたいがいにしろよババァ。いつまでこんなやつらに気ぃ遣ってんだ。つまみだしゃいいんだよ。報復が怖いってんなら暫く病院出られないように私が」
「黙んな。いいかい?この店の店主はあたしで、あんたは雇われだ。ルールはあたしが決めんだよ」
ったくこんなこと言わせんじゃないよと、バァさんは渋づらを作る。
「そうかい、勝手にしな」
宝上槍子はつき倒すように男の胸ぐらを離すと、スタスタと厨房から続く奥の部屋へと歩いていった。
バタンと乱暴にドアの音が鳴る。それをやれやれと見送り、バァさんは倒れ臥している男達に声をかけた。
「あんたら、大丈夫かい?」
「ぐ……おいバァさん、どうなるか分かってんだろーな」
「警察呼ぶかい?それとも気が済むまであたしを殴るか。あたしはあの子と違って普通のか弱い老いぼれだ。安心して殴るがいいさ」
「なんだそりゃ、嫌味かよ。店員も店員なら店主も店主だな。糞みたいな接客しやがって、マジでこの店存在する価値ないぜ。潰してパチンコ屋にでもした方がマシなんじゃねーの」
「それをあの子にも言ったわけだ」
「ああっ!?それがどうしたよ」
「いやあの子が自分のことであそこまで逆上するなんて信じられなくてね。なるほど道理で……ま、ムカついたから殴ったってのには変わんないけど。あの子もまだまだ子供なんだねぇ」
「一人で勝手に納得してんじゃねーよ。この落とし前どうつけんだ!」
「だからどうにでもしなって言っただろ。慰謝料請求したっていい。でもあんた達はそれでいいのかい?」
「は、意味わかんねーよ」
「客と店員だから悪いのはあの子だけど、人間としてどっちがみっともないか、あんたらだって分かってんだろ」
「説教する気か、ババァ」
「説教というよりはお節介さね。あんた達のその態度、やり場のないイラつきとプライドがそうさせてると見たんだが、ちがうかい。で、やり場のないイラつきってのは良心の呵責からきてる。さっき飲みながら話してるのちらっと聞こえたんだが、あんたらの『会社みたいなもの』の幹部が刑務所にパクられたらしいじゃないか」
「みたいなもの、じゃねーよ。れっきとした会社だ!……少なくとも俺達はそう思ってたんだ」
しかし、現実はそうではなかったと彼らも分かっているんだろう。言いながら、一様に視線を落としている。
「詐欺まがいの営業するやつらがうろついてるって、この商店街でも噂になってたよ。ねぇ、あんた達本当に何も知らなかったのかい?人を騙してるって自覚はなかったかい?」
「うるせぇっ!金稼ぐには多少汚ないことも必要なんだよ!世の中金だ。金がなきゃ負け組なんだからな」
「金がなきゃ負け組、ね。若い頃はとかくそんなことを考えがちだけどさ。汚ない手段で金をかき集めて、それで幸せになるどころかやさぐれてたんじゃ、本末転倒だと私は思うけどね」
「へっ、貧乏定食屋が知ったような口を」
「確かに苦労の割にゃ稼ぎは少ないさ。だけど毎日食いに来てくれる客や、定期的に遠くから足を運んでくれる客もいる。金持ちじゃないけどあたしは毎日充実しているよ」
そう言うとバァさんはポケットからタバコを取りだし、火をつける。
一口吸い込み、紫煙が吐き出された。
「なぁ、あたしの目から見ると、あんた達は本当に人生の分岐点に立ってるよ。汚ない手段で楽に金を稼ぐことを覚えたら、それ以外のまっとうな仕事は馬鹿らしくてやってられなくなる。そのうちやましい心も無くなって、麻痺しちまうんだな。それはそれで楽でいいのかもしれないけど、そんな人生あたしはとても勝ち組だとは思えないね」
ま、貧乏定食屋が言えるのはこのくらいさね、後は自分で考えな。とバァさんは付け加え、タバコを灰皿に押し付けて火を消した。
宝蔵槍子は戸口の向こうでじっとその話を聞いていたので、彼らがどんな顔をし、どんなことを思って店を出ていったのかは知らない。
ただその気配が店を去る際に「また来る」の声だけはっきりと聞こえたのだった。
いくら正義があろうと、貫き方を間違えると、人を幸せに導くことは出来ない。
「それをあの時初めて私は知ったんだよ。それで、教師を目指した」
「ふむふむ、暴力じゃ何も解決しない、か。あれっ、でも先生」
ラーメンはともかく、本屋と猿はしょっちゅうアイアンクローのお世話になっていると気付く。
「あれは愛の教育的指導だが何か?」
「いえ、何も」
愛を追加されてはたまらないので、彼らは余計なことは言わない。ある意味社会の渡りかたをしっかりと教え込まれている少年達であった。
「しかし、そう考えるとバァさんは先生の先生だったってことなんですね」
「よくも悪くもな。お陰で言葉遣いもこんなんになっちまったよ」
暗に自分の女性的な慎ましさの欠如はそのせいだと言いたいらしいが、その言い分には反論する者があった。
店の引き戸がカラカラと開き、そして閉まる。
「あんたの口の悪さは元からだろ?あたしのせいにするんじゃないよ」
バァさんが、いる。
シン、と冬のような静けさが、空っぽの店内に一層の寒々しさを運ぶ。
「おい、見えてるか」
「ああ」
目を開きっぱなしの本屋の呟きに、猿とラーメンも視線を固定したままで頷いている。
カッカッカッとつっかけをコンクリート床に響かせて近づいてくるバァさんに、宝蔵槍子が悲しそうな声をあげた。
「自分じゃ分かってないんだな、バァさん。あんたはもうこの世の人間じゃ」
そこまで言って、彼女の口から「ぐぎゃ」と悲鳴が出る。
普段拳骨を放つ人間が拳骨を喰らう、レアなシーンだ。
「あたしが幽霊だってんならその痛みはなんだい?」
バァさんはそのまま置いてある写真に近づくと、供え物の温くなった缶ビールをごくごくと飲み干した。
「ガキ共も担任だからってこんな女の悪ふざけに乗る必要ないよ。ったく、縁起でもない。あたしの写真を遺影風に飾るなっていつも言ってるだろ」
手に提げていた篭に写真をさっさとしまい、ポケットからタバコを取り出す。猿をシッシ、と手で追っ払うと、空いた椅子にどっかりと座り、火をつけた。その動作のどこにも、物をバァさんの手がすり抜けたりなんて怪奇現象はなく。
「なんだバァさん、生きてたんだな」
殴られたところをさすりながらの宝蔵槍子の呟きに、バァさんは「いくつになってもクソガキが」と返す。
「あたしがご近所に挨拶してる間、大人しく留守番しとけって言っただろ」
「大人しくしてただろ。このくらいの暇潰しは許してくれよ。あ、そうだ、生前葬ってやつだよ、生前葬」
「生前葬ねぇ。そんな心にも無いこと言ってる暇があったら、店に労いの言葉の一つもかけておくれよ」
労いの言葉、か。
一同はバァさんと一緒に店内を見渡してみる。
改装工事だから、店自体が無くなるわけじゃないが、壁のシミとか、張り紙あととか、空気だとか。やはり元とまったく同じとはいかないだろう。
何より、顔を知らない少年達にその雰囲気でもって伝えていた元店主の息づかいは、数日後には感じられなくなってしまうかもしれないのだ。
それはとても淋しいこと。
だけど手を合わせるとかさよならは相応しくない気がする。
最近常連になった学生も、昔馴染みの女教師も、店主を引き継ぎ、ずっと店を守ってきた妻も。
この時胸の中に浮かんだのは、ありがとうの言葉であった。
そして、数日後の開店前。
「へぇ~、だいぶ綺麗になったなぁ」
本屋が店内を見渡して感心し、猿とラーメンも頷いている。
「だろう?これなら修行に出てた息子も気持ちを新たに引き継げるってもんさ」
「だけどやっぱり寂しくないかい?別の店になっちまったみたいで」
「まぁ、そりゃあ全然平気ってわけにはいかないけどね。でもこの店をずっと続けようと思ったらどこかで改装は必要さ。それに料理屋にとって、ジィさんにとって一番大事なものはちゃんと残してある」
「はい、唐揚げの大盛お待ち!」
会話の途中、エプロン姿の宝蔵槍子が威勢よくやってくると「意外と似合ってますね、先生」とのラーメンの言葉にニヤリと笑い、大皿をテーブルに置く。
「一日と言わずにずっとここで働けばいいんじゃねーの」
猿が茶化すと。
「馬鹿いえ、お前らクソガキの面倒は誰がみるんだよ」
相変わらず口の悪い店員ぶりを発揮していた。
熱いうちに食べな。宝蔵槍子の言に従い、三人はテーブルに乗った大皿から自分の取り皿に唐揚げをよそう。
「いただきます」
食材と、作ってくれた者に感謝を示し、がぶりとかぶり付いた。 瞬間、広がったのはバァさんの味、つまりジィさんの味。そしてこれからは……。
「なるほど」
料理屋にとって一番大事なものを噛み締めた三人は、厨房に向かって親指を立てる。
職人らしい気の強さと人情深さを若い顔に醸し始めた兄ちゃんが、ニカッと白い歯を見せるのが見えた。




