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新生月器ポスリア  作者: TOBE
日常編
10/88

ポスト魚釣り

「ねぇ、何話してるの?」

「よう、ビッちゃん。明日みんなで釣りに行こうって話してたんだ」

「ええ~!もっとカラオケとか若者らしい遊びにしようよ」

「今の釣りは爺くさいやつばかりじゃないんだ。例えばこういうのもある」


 本屋が言うと、猿がエア釣り竿をシュッと振って見せる。そして盛んにトゥイッチを入れながらジャークする。


「ふむ、ここはスピナーベイトがいいらしいな」


 そして再び投入すると、糸子ブラックバスが食いついた。


「ブラー!」

「なかなかの大物!」


 ドラマティカルなやりとりのあと、無事にランディングを終えた猿はしばし糸子ブラックバスと見つめあい。


「またな」


 と言って湖へ帰してやるのだった。


「どうだ、ビッちゃん」

「そういうカッコいいのだったらやってみたいかも」

「まぁ、明日やるのはこういうのじゃないんだけどな」


 寸劇その2。


「どうだ糸子よ。アタリがあるか?」

「全然だよ猿の字。そっちは結構あがってるみたいだけどエサ何つかってんだい?」

「ああ~俺は砂ムシと一緒に青ムシもやってんのよ。食いが悪い時はこいつで一発よ」

「おお~、さすが猿の字!」


 猿の字のおかげで糸子もたくさん釣れましたとさ。


「と、まぁ、こういうやつだ」

「爺くさいやつじゃないの!」


 でもやっぱり仲間外れは嫌なのでついていくことにしたビッちゃんであった。




 明くる朝。

 海にほど近い喫茶店にビッちゃんが到着すると、本屋、猿、糸子は既にテーブルで飲み物を飲んでいた。


「お、来た来た。それじゃ行きますか」


 言いながら本屋が立ち上がる。


「えっ、この4人だけ?」

「一応LINEは流してあるけど、今のところはこれだけだ」

「そっか、メガネは来ないのか」

「なんで他にもいるのにメガネだけ出てきたのかな?」


 本屋がニヤニヤしながらきくと、ビッちゃんは慌ててブンブン手を振る。


「ととと特に意味なんてないってば。ほ、ほら、私あいつと仲悪いじゃん?いないなら平和でいいなぁって」


 タハハハハと笑っていると。


「ビッちゃん」

「な、なに?糸子」

「あいつはそんなに悪いやつじゃないぞ」


 糸目がまっすぐに見てくるので、ビッちゃんはたじろぎながら、こう答えるしかなかった。


「そ、そうだね…」


 微妙に空いてしまった()、そこへ「ところで」と猿の声が割り込む。


「お前はなんでスカートなんだ?」


 かく言う彼はライフジャケットまで装備して、完璧な釣り人スタイルである。


「私そんな服持ってないし」

「ならせめて動きやすい服にしろよ。学校のジャージとかさ」

「はぁ?そんなかっこで出歩けないし」

「おい、こんなこと言ってるぜ本屋」

「まぁいいじゃないか。あわよくば釣り針がスカートに引っ掛かってマイッチング見られるかもしれないし」

「俺はお前が本気でキモイ時がある」


 そんなやり取りを聞きながら、糸子は考え込んでいた。


(出歩けない格好なのか?学校のジャージって)


 彼女の胸元には「1-2 香月花梨」の字がしっかり書かれてあった。




 海沿いには案外行き止まりになっている道路が多い。そこからガードレールを隔てて釣り糸を投入できる場所が今日の釣り場であった。こういう場所は殆ど釣りが禁じられているが、ここは唯一許可されている穴場なのだ。

 釣り禁止の場所での釣行は危険性を伴う、又は迷惑行為となるので、皆様もよく確認して釣りを楽しんで欲しい。

 話を戻して、4人は仕掛け作りに入る。女子二人は初めてということなので、本屋と猿にそれぞれ竿を一本ずつ借り受けた。


「へ~面白~い。これがリールってやつね。そっちの赤いのは何?」

「これは天秤と言って投げ釣りをする際に使うオモリだ。こっちはハリス。まぁ、まだ本シーズンじゃないから2本針な。釣り針は返しがついてるから服に刺さると抜けなくなる。十分注意しろよ」


 ビッちゃんに丁寧な説明をする本屋。普段はともかく本当に危険が伴う場合、彼は人一倍真面目である。


「ところでなんて魚を釣るの?」

「キスだよ。6月に入ってボチボチ釣れ始めているらしい。初めてやるには丁度いいんじゃないかな」

「へ~、キスだなんてロマンチックな名前だね。あ、そっちの袋に入ってるのは何?エサ?」

「エサだけど、これビッちゃんは無理じゃないかな」


 そう言いながら本屋は袋から透明なパックを取り出す。既に苦笑いを浮かべながらパカリと蓋を開けると、そこには無数のウネウネ生物がひしめいていた。


「100%無理」


 完全に表情が抜け落ち、白目になったビッちゃん。だろうなと呟きながら蓋を閉め、本屋は代わりに長方形のパッケージを差し出した。


「って、これ同じじゃん。ミミズじゃん!!」


 ビッちゃんは悲鳴をあげてパッケージを投げ捨てると、数メートル後ずさる。

 本屋は拾いつつ。


「ミミズじゃなくてゴカイな。これは疑似餌って言って、ゴカイを模倣して人工的に作られたエサなんだ。見た目は気持ち悪いかもしれないけど動かないし、手も汚れにくいよ」


 しかもブルーベリーの香りなどと言うので、ビッちゃんは恐る恐るパッケージを開けてみる。


「な、なるほど。これならちょっと我慢すれば大丈夫かも」


 少しつついてみて、納得したように頷く。


「ビッちゃんはそれを使ってくれ。糸子はゴカイだいじょうぶ……」


 振り返った本屋が見たものは、しゃがみこんでゴカイパックに話しかける不思議糸目ちゃんであった。


「よしよし、ゴカ男は元気がいいな。ゴカ美はもう少し頑張ろう」

「エサに名前をつけるんじゃないっ!」




 さて、いよいよ投入である。流石に初心者がいきなり投げるのは難しいので、最初は男子が代行することにした。

 リールのリングを返し、釣り糸を指に掛けると本屋は大きく振りかぶる。竿をしならせ真一文字に振り下ろし、45度の角度に竿が来た瞬間で指を離す。ギュオ、と竿の奏でる独特の音から僅かに遅れ、オモリは遥か遠くの海にポチャリと着水した。


「すっご~い。カッコいい!」

「へぇ、やるじゃん」


 ビッちゃんは初めての光景に感動し、猿は玄人目線で褒めそやす。


「へへ、まぁ小さいころからやってるしね。じゃあはいこれ、ビッちゃんに」


 本屋が竿を渡すと、ビッちゃんは受け取りながらもテンパった声をあげる。


「こっ、これ、持ってればいいの?」

「ビッちゃんのは疑似餌だから、巻いて動きを演出しなきゃ。そこのツマミをグルグルやってみて」

「こう?」

「そうそう。で、しばらく巻いたらまた止める。それを繰り返すんだ」

「こんな感じ?結構かんた…うわっ」

「おっと」


 いきなり竿にブルブルという振動が伝わってきて、危うく落としそうになった所を本屋が支える。


「いきなり来たか。幸先いいな」

「これ来てるの?釣れてるの!?」

「ああ、釣れてるよ。あとは巻き取って取り込むだけだ。焦らずに一定の速さで巻くんだぞ」


 本屋の指示通りに巻いていくと、度々グググっと引っ張るような振動がビッちゃんの竿を襲う。その度に「ひっ」とか「うひゃ」とか言いつつも、なんとかかんとか岸まで寄せてきた。


「さぁ、ちょっと巻くスピード緩めて。竿をゆっくりあげるんだ。いよいよご対面だぞ」


 猿に糸子、そして何よりビッちゃん本人がごくりと唾を飲み込み見守るなか、白く透き通った魚体が水面から姿を現す。最後にパシャリと身じろぎ一つ、海水のしぶきをキラキラとまとったそれは……。


「きれーい」

「だろ、こいつがキスだ」


 本命の釣り物である。人生一投目で出会えたビッちゃんは、なかなかに釣りの神様の寵愛を受けているようだ。

 陸に上げられたキスはすぐさま針を外され、海水の満たされたバケツに入れられる。


「なかなかいい型じゃん」


 猿が覗き込み、頷いている。

 キスという魚は基本的に20センチ前後。25を超えれば十分キープサイズだ。


「なんか可愛いから気が引けるんだけど、この魚って美味しいの?」

「なんだ、ビッちゃんはキスの天ぷらを知らないのか。美味いぞ~」

「天ぷらかぁ、いいな~」

「調理器具も持って来てるから、お昼には食べられるぞ。たくさん食べられるようどんどん釣ろう」


 と、いうわけで4人はいそいそと仕掛けを投入するのだった。




 キスという魚は条件が揃えば数釣れる釣り物である。

 初夏という少し早い時期には珍しく、この時は入れ食いとなった。


「おお~、見てくれ。ダブルだぞ、ダブル」

「あっ、またきた。私ってけっこう上手かも」


 女子二人も順調に釣果を上げ、昼にはみんなで天ぷらを堪能するに十分な数が揃った。

 リュックから鍋や携帯コンロ、包丁やミニまな板まで取り出すと、本屋は下拵えに入る。手早くキスの内臓を取り出して身を捌く手つきはなかなかのものだ。


「案外本屋も料理できるのな。俺は釣るの専門だから尊敬するわ」

「アウトドア系の簡単なやつだけだよ。ラーメンが作るような凝ったのは無理」

「ほんと、本屋君って中身だけイケメンだよね」

「一言多いぞ、ビッちゃん」


 などと駄弁りながら調理を進めると、割とあっという間に山盛りのキス天が出来上がった。

 釣り場から道路を挟んで反対側は上の遊歩道を支える陸橋がそびえており、そちらに寄れば涼しい影にありつける。車は全く来ないので、4人は道路に座り込んで昼食をとることにした。

 それぞれ配膳された紙皿の上で、キス天と本屋手製塩おむすびが実に美味そうに並んでいる。


「それじゃあ冷めないうちに。いただきます」


 本屋が音頭をとって、皆いそいそと割箸を手にとる。

 ビッちゃんは早速とばかりにキス天に箸を伸ばした。天つゆと塩。二つの味付けが用意されたが、まずは塩を選んでみる。紙皿の端っこで二、三度身を翻したキス天がビッちゃんの口元に運ばれてゆく。

 サクり。

 噛んだ瞬間に衣が弾け、中からきつすぎない上品な魚の香りと旨味が溢れてくる。身は舌の上で勝手にほぐれていくほどの柔らかさで、いつの間にか消えてしまう。


「外はカリカリ、中はふんわり。うんま~い!」


 気付けば思わず叫んでいた。


「だろ?スーパーじゃあんまり並ばないし、あっても結構な値段するからこの美味さを知らない人が多いんだよ」

「ねぇ、これちょっと感動的な美味しさじゃない?糸子」


 ビッちゃんが訊くのも気付かず、糸子は一心不乱にキス天を天つゆにくぐらせ、口に運ぶを繰り返していた。どうやら訊くまでもないようである。

 猿はニヒ、と笑うと、いたずらっぽくこういう質問を投げてみた。


「おぅい糸子。一番好きな食い物ってなんだ?」


 糸子は口の物をコックンすると真剣な顔つきで答える。


「キス天」


 波音の中に、3人の爆笑が混じるのであった。




 潮の香りを嗅ぎながら、シュワシュワコーラが喉元を過ぎてゆく。

 まったりと心地よい食休みを4人は堪能していた。

 そこへキキッ、と自転車のブレーキ音が二つ。スタンドを立ててこちらへ歩いてくる二人のうち、一人は腰に竹刀を提げており、ついでにかなりご立腹のようだ。


「なんでなんでなんで」


 ドスドスと踏み鳴らされる足音が、このい~い雰囲気をぶち壊し、皆の顔を「うわ」と引きつらせる。


「なんでこういう面白そうなイベントに私を呼ばないのだ、薄情者どもめ!」


 アスファルトをぶち抜くのではないかという京子の地団駄を、後ろのつっこが呆れて眺めている。


「いや、LINEは流したぞ。京子もグループ入ってるだろ?」

「この人LINEの見方が分からないんだよ。だから私が電話して連れてきたわけ」


 本屋の問いにつっこが答えると、ああ京子ってステレオな部分あるよなと、皆は残念な納得をするのだった。


「ところでどうなの、釣れてるの?」

「すっごい一杯釣れたよ!天ぷらにして食べたんだけど美味しかったなぁ~」


 先程の味を思い出し、つっこにウットリとした表情を見せるビッちゃん。


「天ぷら……」


 それを聞いたらもう、京子は我慢の限界である。


「つっこ、私達もやるぞ!おい本屋、竿を貸せ!」


 というわけで、午後からは男子二人が新たなお客さんの為に奔走することになる。

 京子のやる気は本物のようで、猿の手本を数回見ただけで投げ方を修得すると、一人黙々とやり始めた。


「あのねー、ここをこうして、こうやって、えいっ」


 つっこはさっき覚えたばかりだというビッちゃんに習う。ビッちゃんの放った仕掛けは妙な方向に飛びはしないものの、ヒョロヒョロと大して距離が出ない。


「あんな近くで大丈夫なの?」

「それが意外と岸に近いところで釣れるんだよ。ほら、糸子だって軽~く」


 確かに二人の目の前で竿を振りかぶった糸子は、のほほんとした顔でゆっくり振り下ろす。しかしそんな映像とは不釣り合いなギュワオという音がすると、仕掛けは恐るべきスピードでぶっ飛んでいった。


「まぁ……この子は例外ということで」

「たいして筋肉無さそうなのにどこにそのパワーが」


 糸子七不思議の一つ、謎の馬鹿力であった。




「そうそう、ゆっくりあげて」

「こ、こう?あ、なんかいる!」


 今日の海は本当に機嫌がいいらしい。

 始めて数投にてつっこに取り込みのチャンスがやってきた。あげる途中でポチャリなどと詰まらないオチもなく、無事ひき上げに成功する。


「お~、本当にキスじゃん。キスって釣れるんだ」

「つっこはキス知ってたんだ」

「前に魚屋さんで偶然ね。食べたこともあるよ」


 キスの味を知る女、つっこである。

 などと下らないことをほざいている間にも、京子はひたすら投げては巻き、投げては巻きを繰り返していた。本気で釣りたい人はなかなか釣れないの法則通り、彼女の竿先は未だ曲がらない。


「お客さんもうちょいゆっくり巻きなよ」

「馬鹿言え、魚も動きのいいエサの方が魅力的だろう」

「お前みたいにガムシャラなタイプばかりじゃないんだよ、魚は」


 猿の忠告を聞こうとしないのが釣れない要因の一つかもしれない。

 他の女子がキャイキャイ楽しそうに釣果を上げる中、京子の竿にはアタリすらなく、徒に時間だけが過ぎてゆくのだった。

 そして。


「おぅい、そろそろ帰る時間だぞ」


 本屋によってタイムアップが告げられる。


「最初は馬鹿にしてたけど釣りって面白かったね」

「そうだね、また来よう」

「天ぷら、美味かった」


 などと釣れた組の女子がニコニコ顔で本屋に納竿を任せる他所に、京子は未練たらたらで糸を垂らし続けていた。


「おい京子。帰るぞ」


 猿が言っても聞こえないのか、聞こえないふりをしているのか、京子は動かない。


「おい」


 少し強めに猿が呼びかけた時、京子の頬につうっと一筋の涙が流れた。


「お、おい、何も泣くこと」

「グスッ……わだじも、わだじもづりだい……」

「京子…」


 天性の負けず嫌い。そして面白そうなことに対する情熱、真剣さ。それを馬鹿にすることなど出来ず、どうにかなんねぇかと考えるもこればかりはどうしようもなく。後頭部を掻いて、猿は途方に暮れる。

 ――その時だった。


「なっ」


 京子の竿がグニャリと曲がる。そのまま引ったくるような引きが竿を襲い、危うくバランスを崩しそうになった京子の身体を猿が支える。


「な、なんだこれ」


 女子に後ろから抱き着く体勢にもかかわらず、猿が顔を赤くする様子はない。そんな余裕すら生まれない迫力ある光景が、目の前に展開されていた。


「おぅい、どうしたどうした」


 異変を察知した本屋と、その後ろからつっこ達もやってくる。


「うわ、すごい竿が曲がってる。何これマグロ?」

「こんなところでマグロが掛かるかよ。こいつは…」


 素人丸出しのビッちゃんの発言を即座に否定すると、本屋は緊張の面持ちでその先を言おうとする。

 しかし京子の身体越しに引きを感じていた猿は、自分こそ言う権利があるのだとばかりに言葉を継いだ。


「こいつぁヒラメだ」


 ヒラメ。言わずと知れた高級魚である。


「お寿司!」

「薄造り!」

「煮つけ!」


 観戦しながら歓声をあげる女子達に本屋が頷く。


「そのヒラメだ。キスを釣ってると極稀に掛かる時があるんだ。しかもこいつはかなりの大物だぞ」


 大物の予想に相応しく、額に汗を浮かせ苦しそうに歯を食いしばる京子に、猿からアドバイスが飛ぶ。

 

「あまり糸にテンションを掛けるな。向こうが強く引く時は糸を出して泳がせてやれ」

「そんなことしたら遠くに行ってしまう!」

「こういうのは持久戦だぜ?相手が疲れるのを待つんだ。たまには焦らずじっくりやろうや、京子」


 猿の優しい声がようやく届いたのだろう。京子は「うん」と素直に言うと、リールのリングを返して糸を放出した。しばらくの間糸はギュンギュン出ていくも、段々とそのスピードが鈍る。


「ほらそこだ!リールを戻して巻くんだ!」

「おう!」


 落着きを取り戻した京子は猿の指示通りのタイミングで巻く。少し巻くことに成功したと思ったらまた竿ごと持っていきそうな引き。

 そうか、お前も必死なんだなと、京子は抵抗することなく今度は自らの意思で糸を放出した。

 一体岸に近づいているのか、遠ざかっているのか。一進一退の攻防を幾度も繰り返す。

 それでも京子の注いだ努力は着実に実を結んでいたらしく。


「よーし、よし。もうすぐだぞ」


 京子を抱きかかえながら猿が見つめる先、足元の海面からまっすぐ糸が伸びている。

 あとはあげるだけなのだが……。


「く、くそ。重い」


 既に相手は海中に白い腹をさらけ出している。しかし、そこから上がらない。

 海面から出ようとする瞬間、その重みは倍になったように京子の腕を苦しめる。


「タモ(網)なんて用意してなかったからなぁ」


 本屋はやるせない気持ちでその台詞を吐いた。


「へ?嘘だろ、どういう意味だ?」


 京子の問いに、本屋は無言で首を振る。彼はこの状態を何度か経験し、結末を知っている。

 どうにかなりそうでどうしようもなく、泣く泣く糸を切るという結末を。


「そこまで、そこまで来てるんだ。ほらあそこ、見えるだろう?」

「でもタモがなきゃ、あのサイズをぶっこぬきは無理だよ」

「そんな。初めて釣ったのに諦めろっていうのか」


 ザザーンと波の音。

 美しい夕日が、静まり返った場の空気をますます虚しい物へと演出している。

 だから。そんな静けさの中だから、か細い希望を探す京子にはよく聞こえたのかもしれない。

 それはなんということもない、さりげない声色で。


「んじゃ、ちょっと待ってろ」


 京子の背中から離れた猿は素早く上半身の服を脱ぎ捨てる。


「お、おい、何をする!ここは結構深い」


 本屋が止める間もなく猿はガードレールを飛び越え。

 ドボンという音と共に皆の視界から消えた。


 帰りは一人欠けてました、なんてことはなく。海沿いの道を夕日に浮かんだシルエット達が並んで歩く。

 そのうち一つが。


「ぶぇぇっくしょん」


 と、大きなくしゃみをした。


「ったく、魚一匹に無茶をしおって」

「なんだよ、諦めろっつったらお前、半泣きだったじゃねーか」

「う、うるさい!」


 憤ってみせた後、京子はすぐにシュンと項垂れる。それはあまり彼女が見せない、弱々しい姿だった。


「……なぁ、私って我儘なんだろうか」

「なんだよ、急に。別にいいんじゃないか?俺は嫌いじゃないぜ」

「我儘なところがか?」

「一生懸命なところが、だよ」

「……」


 夕日に紛れたせいで、彼女が赤くなったかどうか、誰も知る由はない。ただポツリと呟かれた「ありがとう」の言葉だけが、潮風の中に溶けていくのだった。




 糸男が買い物から帰ると、居間には既に先客がいた。自分の家なのに先客とはこれ如何に。


「おお、お帰り糸男。先にやってるぞ」


 ジュース片手にワイワイ騒ぐ集団の中、本屋が糸男の存在に気付く。ノリは飲み会に遅れてやってきた同僚を迎えるがごとし。


「おい本屋、こいつは一体」

「京子がでかいヒラメを釣り上げたんでな。ラーメンを呼んで色々作って貰ったんだ」


 見ればちゃぶ台の上には随分と豪勢なヒラメ料理の数々。後ろの方でビッちゃんが。


「あっ、ママ?今日は夕飯、友達の家で食べるから。ヒラメよヒラメ。すごくない?」


 などと電話しており、糸男はこの集まりの目的を理解した。ヒラメが食えるなら俺も行く、とばかりにメガネまで駆けつけていて、つっこ軍団ここに集結といった具合だ。


「ったく、お前ら…」


 もはや怒ることもなく、呆れを通り越し苦笑いの糸男はふと横を見る。


「また壁紙変えてるし」


 そして、再び斜めのロゴ入りである。


「なになに、Nice Fishing?」





 











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