エルノーの約束
双子の弟のエルノーは、優秀な剣の腕を持つ。
彼にとって、岩は発泡スチロールに等しい。
エルノーは、発泡スチロールを知らないだろうが。
キルスティと同じくクセのある銀の髪を肩まで伸ばし、後ろでひとつにくくっている。目の色だけは父親似の青で、見た目だけなら剣を持ち上げることさえできなさそうな美人だ。
そんな彼がキルスティの妃教育について来るようになったのは、始まってから2年が経った頃だった。
「キルシーのことだからすぐに婚約破棄とかされると思ったのだけど、リヒャルト殿下はずいぶん変わった趣味をお持ちなのかな」
我が弟ながら、好き勝手言ってくれるものである。
そして、さすが一緒にお腹の中で栄養を分け合っていた仲というべきか、彼の勘はそれなりに当たっていた。
リヒャルト殿下は、そう遠からず、運命の恋に落ちる。
無理矢理キルスティについて来たエルノーは、妃教育の間、庭を散策させてもらっていた。
遊べることが羨ましい限りである。
勉強が終わった頃、ふとキルスティは首を傾げた。いつも終わった頃にやってくるリヒャルトが、今日は来ない。
別に待っているわけではないつもりだが、キルスティはいつも彼とお茶を飲んでから帰宅していた。
本から顔を上げたキルスティに、すかさずエマが言った。
「リヒャルト殿下なら、庭園でエルノー様とお喋りをなさっています」
優秀な侍女である。キルスティはバルコニーに出た。
そう遠くない場所で、リヒャルトとエルノーが花を摘んでいるのが見えた。
ずいぶん乙女な遊び方だが、2人の綺麗な容姿にはとても似合っているのが不思議だ。
手をかけたとき、リヒャルトがバルコニーに立つキルスティに気づいた。
2年の間に、キルスティの背はバルコニーの柵を越えていて、顔が見えてしまう。今はリヒャルトよりも頭ひとつ分大きかった。
リヒャルトは、キルスティに向けて両手をばってんにして、眉を険しく寄せた。
その手には可愛らしい菫の花が握られている2人が仲良くバルコニーの近くまで歩いてくる。
「キルスティ。飛び降りてはいけないよ」
「キルシーなら大丈夫ですよ。殿下」
「大丈夫とか、そういうことではないんだよ」
嗜めたリヒャルトは、「キルシー」とまた呼んだ。
キルスティは最近、なぜかこの声が、自分の愛称を呼ぶことに弱かった。
キルスティがこくんと素直に頷いて回れ右をしようとすると、エマがにやりと笑った。彼女がこういう笑顔をする時は、だいたいロクなことがない。
キルスティが少し普通のご令嬢方と違うせいで目立たないが、彼女は結構特別なのだ。
エマは「また、お嬢様ったら」とわざとらしく口にして、キルスティを軽々と片手で抱え上げた。
文句を言うよりも先に、体が宙を舞う。
いや、いくら大丈夫でも、それはないだろう。
くりんと体の向きを変えて、キルスティはバルコニーでまあとわざとらしく口を押さえているエマを睨んだ。
「キルシー!」
2年前と同じように、リヒャルトが手を広げた。それを拒むように、くりんと体を捻って、いつものように着地しようとする。
が、それは叶わなかった。
まるで最初から避けられるのを分かっていたかのように、キルスティの着地地点にリヒャルトが体を滑り込ませたのだ。
あ、やばい。キルスティは身をこわばらせた。
慌てたようなエルノーの「殿下」と言う声がする。
リヒャルトに怪我をさせてはいけないと、残る距離でなんとか体の向きを変えると、それさえ分かっていたかのように、リヒャルトの手がキルスティの腰をとらえた。
ぐいと思っていたよりも強く引き寄せられる。
驚くばかりのフロンツェル姉弟を置き去りにして、リヒャルトはキルスティの腰を掴んだまま後ろに倒れた。
草の匂いがする。自身が無傷で着地するより、痛い。
キルスティはすぐに上体を起こして、リヒャルトの無事を確かめようとした。
「キルスティ」
ソプラノなのに、なぜか低い声がした。
リヒャルトは笑顔だった。
笑顔で上に乗っかるキルスティの頬に手を当てた。
「淑女が男を押し倒すなんて、いけないね」
キルスティはリヒャルトの怪我の具合を確かめることも忘れて、がばりと立ち上がろうとした。
しかし、リヒャルトは地面に寝転がったまま、キルスティの首根っこをぐっと掴んで、さらににこにこと笑った。その笑顔が完璧に綺麗なことが、妙に恐ろしい。
「僕は、飛び降りてはいけないと言わなかったかな」
「いや、あの…足が滑ってしまいまして」
「なるほど。君は足が滑るとバルコニーから落ちるクセがあるようだ。キルスティを妃に迎える際は、地下室に君の部屋を作ろう」
冗談に聞こえない。
キルスティは助けを求めるようにエルノーを見たが、弟は薄情にもそっと目をそらした。援軍は期待できないようだ。
「…申し訳ございませんでした」
「次にどこかから飛び降りることがあったら、下には必ず僕がいると思ってね」
キルスティは絶句した。そんなの、怪我をさせるのが怖くて絶対飛び降りられない。
返事をしないキルスティに、リヒャルトの目元が鋭く尖っていく。
「キルシー」
「…はい。努力致します」
「それは良かった」
柔らかさを取り戻したリヒャルトに、安全を確保したエルノーが近づいてきた。
ひょいとキルスティを片手で立ち上がらせると、リヒャルトに手を差し出す。
「お怪我はございませんか」
リヒャルトは首を振って、自身で立ち上がった。
気を取り直すように、エルノーは、「そうだ。キルシー」と菫の花を差し出した。
「花を摘んだんだ。あげるよ」
「許可は取ったの?」
「当たり前じゃないか。薔薇ばかりの庭園の中で、菫なんて珍しいと思ってね。リヒャルト様がお好きなお花なんだって」
「そう。ありがとう」
数本の紫色の菫は、手の中で控えめに咲いている。自然と頬がゆるむ。
「僕より先に花を渡すとは、いい度胸だね、エルノー。といっても、僕の花は地面に落ちてしまったけれどね」
苦々しく笑ったリヒャルトに、双子は目をそらした。言い訳の仕様がない。
キルスティは地面に落ちてしまった菫の花を拾って、そっと砂を払った。
「もしかして、私のために摘んでくださったのですか」
「君に似合うと思ってね」
リヒャルトはキルスティの手から菫を取り上げると、少し背伸びをして、彼女のゆるくハーフアップに編み込んだ銀の髪にさした。
「可愛い」とリヒャルトは笑ってくれたが、可愛いのはどう考えてもおませさんなリヒャルトの方だった。
帰りの馬車の中で、エルノーは盛大に噴き出した。
「なんだ。エマがキルシーをバルコニーから落としたのか。僕はっててっきり、いつものキルシーのせっかちのせいかと」
「お二人の仲がさらに深まるかと思いまして」
優秀な侍女は、すました顔で口にした。キルスティはため息をつく。
「深まってないわ。むしろ苛立ちを与えてしまったみたい」
「そうでしょうか。…とてもお似合いでいらっしゃいますよ。お嬢様の髪色と瞳の色に似合っておいでです」
「そうかしら」
キルスティの目は、いただいた菫と同じ深い紫色だった。
確かに色味でいえば似合わないわけではないが、年々吊り気味になっていく目元とあまり笑わないことが邪魔をして、花が似合いそうな容姿に成長していない自覚はある。
「ねえ、王子というのは、侍従も連れずに、あんなにも自由に動くものなの」
エルノーが問いには、エマが答えた。
「いえ。通常ではありえないかと思われますが…リヒャルト殿下は、あまり人を連れて歩くのを好まないようですので…」
リヒャルトには騎士の護衛がついているのだが、なぜかいつも撒いてしまうのだ。
衛兵に襲われたことが、少なからずトラウマになっているのかもしれない。
また、いま王城は荒れていた。
1年前、病弱な第1王子が静養のために西の宮に移動し、その半年後には第1王子の付き添いのためクリスティーナ妃殿下も西の宮に居を移された。
アロイス殿下派の動きもさらに加速していた。
「ふむ」となにやら考えるように頷いたエルノーは、「僕が殿下に付き従おう」と言った。
「殿下は遊び相手をいらないと仰ったらしいじゃないか。僕なら、遊び相手兼護衛になれるよ。さっそく、家に帰ったら父上に話してみるよ。父上から、王様に打診してもらう」
確かにエルノーが側に控えているとすれば、騎士3人分くらいの働きはしてくれそうだ。
「…いいと思うけれど、エルノーが殿下に粗相をしないか心配だわ」
「しないよ。菫の花に誓うよ。キルシーを悲しませることはしない」
なぜ菫に誓うのかは分からなかったが、とりあえずのところリヒャルトの邪魔をすることもなさそうだ。
「ところで、キルシー。君は、殿下を愛称で呼ばないそうだね。どうして?」
「どうしたの、急に」
「気にしないで。…まあ、調査だよ」
何の調査だろうか。キルスティは胡乱げにエルノーを見やったあと、考え込むように目を伏せた。
将来この国から出たら、騎士になりたい。
そして、自分の身の丈に合った優しい人と巡り会って、ゆくゆくは結婚や出産を経験してみたい。
だって、どれだけ願ったとしても。
「あの方は、一生、私のものになることのない人だからよ」