事件の始まり
キルスティ・アイリ・フロンツェルは、第3王子の剣である。
といっても、当然ながら、本当に剣というわけではない。
キルスティは、このアレリシオ王国において剣の一族と称されるフロンツェル侯爵家の次女であり、また16歳にして、戦神アーラの名において国一番の剣士を決めるアーラ祭18歳未満部門、3位入賞者である。
ちなみに、1位は2歳年上のフロンツェル家次男アレクシ・アッテ・フロンツェル、2位は双子の弟のエルノー・アッテ・フロンツェル。
まさに、戦の神アーラに愛された一族なのである。
キルスティが第3王子のリヒャルト・ユストゥス・アレリシオ殿下と初めてお会いしたのは、8歳の頃の茶会の席だった。
動くたびに揺れ動く色素の薄い金の髪に、光の加減でときおり虹色に光る空色の瞳の王子さまは、神様が細胞のひとつひとつまでこだわり抜いた至極の工芸品のようだった。
絵本に登場する王子さながらの美しさに、集められた令嬢たちは、皆一様にぽおっと頬を染めた。
神様の工芸品は、穏やかに笑みながら、3つ年上だという王子とよく似た姉姫のふんわりと広がったスカートに隠れるようにして立っていた。
姉姫は、そんな王子の頭を撫でて、テーブルの上のお菓子を指さした。
王子は恐る恐るといった様子で、やっとスカートから手を離し、テーブルに近寄る。
この茶会の目的は、王子の遊び相手、また婚約者候補を決めるというものだ。
第1王子の立太子はすでに決定されており、第2王子は隣国の王女に婿に入る予定。
まだ決定事項ではないが、第3王子は爵位を授かり臣下になり、兄王を支えるという未来がもっとも有力だろう。
集められた王子に年の近い令息や令嬢は、それぞれの両親から王子との繋ぎを得るように口を酸っぱくして言われていたのだ。
ちなみに、この時のキルスティは、若干8歳ながらにして、剣を片手で振り回す程度には鍛えていた。
そんな男勝りな彼女から見ても、王子はとても美しい。
些か強すぎる男兄弟に囲まれて生きてきたキルスティには、優しげな王子はとても魅力的で、とても儚い生き物に見えた。
他のご令嬢方と同じように王子に見惚れていたその時、キルスティはふと違和感を覚えた。
おかしいのだ。
この状況を、知っている気がする。
デジャブだ。
デジャブ…ってどこの言葉だっけ。
キルスティは首を傾げた。
おかしい。キルスティに、そのような知識はない。
でも、知っている。
リンゴが落ちるのは重力があるからだし、1年は365日だし、回っているのは太陽ではなくて地球だ。そして、地球は青い。
するりとキルスティの横を、城の衛兵がすり抜けた。
ここは茶会の場で、衛兵が扉付近から参加者に近づくことは、緊急事態以外にはあり得なかった。
そうだ、リヒャルト殿下の母、クリスティーナ妃殿下をリヒャルト王子をかばい、ここであの衛兵に斬られ絶命する。
その出来事がトラウマになり、リヒャルトは心を閉ざすのだ。
キルスティの反応は早かった。
丸く可愛らしい靴を脱ぎ捨てると、スカートを翻しながら、衛兵に突進する。
その時は、ふと近づいてくる衛兵に気付いた妃が、紅茶のカップから顔を上げた。
その眉が不安げにしかめられた時、衛兵が剣を抜いた。
貴婦人らしくなく慌てて立ちあがると、妃は隣に座っていたリヒャルトを守るように覆いかぶさった。
「母上?」
周りにいた女性たちが「きゃあ」と悲鳴をあげたが、遅い。
護衛騎士では間に合わない。
キルスティは地面を蹴ると、ひょいと椅子に乗り上げて足りない足の長さ分のリーチを稼いだ。
細い足が、正確に衛兵の首筋を捉える。
まさか、令嬢たちしかいない後ろから攻撃に合うなど思いつかなかっただろう衛兵の体が、横に傾いだ。
さすがに致命傷とはいかないが、時間くらいは稼げる。
ふらついた衛兵を、駆け付けた騎士が地面にねじ伏せた。
「お前たちのせいだ!お前たちが王宮にきたせいで、あんなことに…」
衛兵は気が動転しているのか、訳の分からないことを口走っている。
騎士に連行される間も、彼は声を張り上げてクリスティーナ妃を睨みつけていた。
衛兵が出て行ったところで、キルスティは王子を庇った状態のまま固まるクリスティーナ妃殿下に向き直った。
「お怪我はございませんでしたでしょうか」
「まあ・・・あなた・・・アリエルのところの・・・」
一連の出来事についていけなかったのか、妃は夢の中にいるようにぼうっと危うげにつぶやいた。
アリエルとは、キルスティの母の名前だ。
それから、キルスティの足元を見て、はっとした。
「誰か、医師を呼んで!あと、靴をもっていらして」
先ほど衛兵を蹴り上げたとき、キルスティは足に切り傷を負っていた。
剣先がかすめたのだ。
だらりと血が出ている。
縫合する必要があるだろうから、令嬢としてはかなり不利な傷痕が残ってしまうかもしれない。
青ざめた妃殿下を見て、キルスティは首を横に振った。
「ご心配には及びません」
「いいえ。ご令嬢に傷をつけてしまうなんて。それもアリエルの…」
妃殿下と母のアリエルは、貴族の通う学園では親友同士だったと聞いたことがある。
それ故に、親友の子どもに傷をつけてしまったことを気にしているのだろう。
「キルシー!」
事件の中心にいる娘に驚いた母のアリエルが、人混みを掻き分けるようにして走り寄ってくる。
辺りを見回すと、キルスティの無事を確かめてから、妃殿下に礼をした。
「お怪我はございませんでしたでしょうか。妃殿下、王子殿下」
「私達は大丈夫です。ただ…」
「娘の怪我はご心配には及びません。ただ、手当てのため、本日は下がらせていただきます」
「部屋を用意させるわ。そこで手当てを」
妃殿下は騎士に案内を命じる。
「失礼します。お嬢様」
騎士の一人がキルスティを横抱きして抱えた。
お姫様抱っこというやつだ。
歩けないほどではないのにとは思うものの、キルスティに反抗の意思はない。
靴を回収しなければ、くらいの軽い気持ちでぐるりと辺りを見回すと、ふと王子と目があった。
震える姉姫に、抱きしめられながら、彼は白い顔をさらに青白くさせて、キルスティを見つめていた。
礼くらいは取るべきなのだろうが、今は騎士の腕の中だ。
上から見下ろす形になるのがいささか不敬な気もするが、動揺を隠せない様子の王子を安心させるように微笑んだ。
王子が目を見開く。
この時のキルスティには、事態の大きさを正確に掴むことができなかった。
それに気づいたのは、翌日のこと。
王家が、第三王子リヒャルト殿下とキルスティの婚約を打診してきた時だった。
「ついてないわね」
「まあ、お嬢様。まだ歩いてはいけませんよ」
部屋に入ってきたメイドのエマが、ベランダに出ているキルスティを嗜めた。
足な怪我は思ったより深く、右足の膝のあたりからくるぶしまで、大きく裂けてしまっていた。
医者の話では、きっちり痕が残るらしい。
せめて足の内側なら見えにくかっただろうが、外側だ。
基本的に令嬢が足を見せることはないが、15歳から通う貴族の学園の制服のスカート丈は、くるぶしより少し上だ。
ここ数日で、キルスティは前世と言えるような記憶をところどころ思い出していた。
キルスティの前世は、日本の高校生。
記憶が曖昧で、いつ亡くなったのかは覚えていないが、長く入院してたことは覚えているので、多分病気で儚くなったのだろう。
そして、キルスティは、キルスティを知っている。
前世で最もハマった乙女ゲーム「貴方の最愛」の中で、キルスティはいわゆる悪役令嬢だった。
ある子爵家の愛人の子どもである主人公は、母親の死をきっかけに子爵に引き取られ、学園に入学する。
もちろん彼女は、あらゆる貴族男性を虜にする。
そして、第三王子ルートでの最大の悪役は、キルスティ・アイリ・フロンツェル侯爵令嬢。
フロンツェル侯爵令嬢は、幼い頃よりリヒャルト王子に恋をしているが、彼から想いを返されることはない。
アレリシオ王国は、女性も騎士として徴用している。
クリスティーナ妃の命を散らしたお茶会に参加していたキルスティは、その後心を閉ざした彼を守るために、女騎士として修行を重ね、双子の弟とともに王子の側近と呼ばれるようになる。
そこに、学園に入学してきた主人公が現れる。
次第に惹かれあっていく二人を見て、キルスティは主人公に嫌がらせを始める。
憧れのリヒャルト王子が、平民育ちの子爵の愛人の娘に惹かれるのが耐えられなかったのだ。
だがそんなものは物ともせず、というより、それでさらに二人の結束は強まり、リヒャルト王子は主人公と結ばれる。
キルスティは騎士精神、また騎士精神に相応しくない嫌がらせを行ったとして、実家から勘当され、アレリシオ王国を去ることになる。
というのが、第三王子ルートの大まかなあらすじだ。
だが、すでにルートは狂いだしていた。
「1週間後には、王子との顔合わせのために王宮に向かうことになっていますからね。早く治るよう、しっかりベットに横になっていてくださいね。傷口が開いたら大変です」
10歳年上のエマは、3年ほど前からキルスティ付きの侍女として支えてくれている。
彼女は主の性格をよく分かっていて、ここ最近は、逃走しようとするキルスティを何度もベットに押し込めた。
「ねぇ、殿下との結婚なんて、私には分不相応だと思わない?」
「まあ。お嬢様は公爵家のご令嬢ですよ。文不相応なんてことはございません。なにより、お嬢様はとても美しくご成長されるでしょう」
エマはふふふと声に出して笑った。
キルスティは、可愛いというよりは美しく、どこか他人を寄せ付けない印象を持つ。
すその方がくりくりとした波打つ銀の髪は珍しく、紫色の瞳が印象的な目は、大きく切れ長だ。
ゲームのまま成長すれば、背は普通のご令嬢方が見上げなければならないほど高くなり、騎士服で男装するせいもあり、女性から告白されることも多くなる。
第三王子リヒャルトは、心の傷を癒してくれる、穏やかで心優しい主人公のようなタイプが好きなのであり、キルスティは完全に彼の好みの範疇からは外れている。
それが、この間クリスティーナ妃を庇った際におった怪我を理由に、王家はキルスティをリヒャルト王子と婚約させることに決めた。
傷モノにしてしまったご令嬢を、王家で引き取ろうとということだろう。
確かに傷のついたキルスティには、もう良い縁談はこないだろう。
しかし、あの茶会でときめいた乙女心は、すっかり凪いでしまっていた。
当たり前だ。
キルスティは、前世では18歳くらいだったのだ。
途中から病気で高校に行けなくなったが、心はそれなりに成熟していた。
いま、8歳の王子を見て、恋愛対象と思うことなど出来なかった。
しかも、成長した彼が、この先キルスティを好きになることはない。
そんなわけで、キルスティは心に決めていた。
キルスティ・アイリ・フロンツェルは、剣に生きる、と。
顔合わせの日は、憂鬱な気持ちを嘲笑うかのように、すぐにやってきた。
赤い恒星なんて意味深な2つ名を持つ燃えるように赤い髪のフロンツェル公爵は、小さな娘を伴い、王城に参上した。
キルスティは北の小国出身の母親似で、隣国から留学中に一目ぼれした母を溺愛している父親は、唯一の娘であるキルスティのこともまた、目に入れても痛くないと可愛がっていた。
キルスティが赤子の頃、本当に小さな指を目に入れたことがあり、母からきつく叱られたことがある逸話を持つほどだ。
「キルシー。嫌なら、お嫁になんて行かなくても良いんだからね」
「あなた」
謁見の間の前でもお嬢際の悪い夫に、アリエルが静かな抗議の声を出す。
10人の男性を一度になぎ倒すことが出来ると噂の屈強な父は、母のこの声に弱い。
「うぅ…俺のキルシーが…」
涙するフロンツェル侯爵の覚悟が決まるのを待たずして、謁見の間の扉は開かれた。