宇宙の終わり
宇宙、神、そして人類。
その意味については、世界の様々な民族が、神話として、様々な物語を創造しました。
宇宙とは何か。神とは何か。人類とは。
我々は何処から来たのか。
我々は何者なのか。
我々は何処に行くのか。
このような物語もあっていいのでは、と思います。
「宇宙の終わり」
1
現在の人類が理解できる言葉で記述すれば「宇宙とは神が知的生命体を誕生させ、その進化の過程と結果を観察するための実験の場であった」ということになる。
が、この文章にはいくつかの注釈が必要である。
宇宙の創造者イコール神というのは、お馴染みの、言い古されたとも言える概念である。
しかし、宇宙の創造者を神と表現してしまうと、様々な宗教における神、一神教的神、偶像として表現することの許されない神、多神教的神、多くの物語をもった神、といった多様なイメージが付随してしまう。
人類がその存在に遭遇した時、人類はその存在を「神」と呼ぶことはなかった。かといって別の名称で呼ぶこともなかった。そのときの人類には、その存在に名前を付ける必要はなかったからである。
だが、現時点において物語るためにはその存在に仮の名前を付ける必要がある。
アーサー・C・クラークの小説「幼年期の終わり」に登場するオーバーマインドには、作者の知る限り、「超神」「上霊」のふたつの訳語があった。作者は、仮の名前として後者を使用させていただく。
上霊は、現在の人類が想像する人格的属性をもった存在ではない。
あえて言えば「超高次の思考の流れ」ということになる。だが、ここで言う「思考」もまた、現在の人類が想像できるような思考ではない。
宇宙は、時間と空間によって構成される。現時点における最新の科学では、百三十八億年の時間と、百三十八億光年の空間をもつ世界である。
(最新の科学では、観測可能な宇宙の果てまでの距離は、半径四百六十四億光年なのだそうです。)
現在の人類が思考する場合、その思考は、「時間」と「空間」の存在を前提とする。時間的空間的認識を離れて思考することはできない。
上霊は、宇宙の創造者、すなわち時空の創造者である。上霊は実験の場として、時間と空間という要素から構成される世界を創造した。
上霊は、その創造した世界、宇宙の中を元素によって満たしたが、その元素の組み合わせから「生命」を誕生させた。
宇宙という場をもった実験のテーマは「時間と空間という閉じられた世界の内的存在である生命が、やがて知的生命体となり、その知的生命体が進化の果てに、宇宙の意味を認識し、宇宙の創造者に遭遇するに至る、その過程の観察」であったからである。
上霊は、知的生命体の誕生の場として、それしかありえないという環境をもたらすように宇宙内における位置を決め、知的生命体が誕生する当該惑星、同一系の恒星、衛星間の距離、大きさ、質量を設定した。
そして、そこが宇宙における特別な場所であることの証として、当該惑星からの、恒星、衛星の見かけの大きさを同一とし、日食、月食という現象が起こるようにした。
では、その実験は、何を目的とするものであったのかだが、これについては、現在の人類に理解できるように表現することは、不可能である。
どうしてもとなれば「意味はない」「上霊が行った単なるゲーム」とでも表現するしかない。
人類が、宇宙の意味を認識し、宇宙の創造者と遭遇するまで百三十八億年プラスアルファの時間を必要とした。
人類の思考においては、永遠にも等しい膨大な時間である。
そしてそのとき、ビッグ・バン以降、光速で膨張し続けた宇宙は、百三十八億光年プラスアルファの空間をもっていた。
人類の思考においては、無限にも等しい膨大な空間である。
だが、その時間と空間の創造者であり、時空を超えた存在である上霊にとっては、永遠の時間も無限の空間も、すべて、その存在に内在するものである。
それがどういう意味であるかといえば、上霊は、百三十八億年プラスアルファの時間と、百三十八億光年プラスアルファの空間の、そのどこにでも存在する、ということである。もちろんその内に存在するのではなく、その世界を超えたところにである。
さらにいえば、上霊が創造したもの、その属性は、宇宙に限られるわけではない。
しかし、ではどれだけの創造をなし、どれだけの属性があるのか、については、元々数的把握により想像できる概念ではないし、無限の創造、無限の属性といったところで正しい概念ではない。
繰り返すが、現在の人類に理解できるような概念、言葉によって記述できるような概念ではないのだ。
人類が進化の果てに宇宙の意味を知り、宇宙の創造者と遭遇するにいたるまでの過程は、むろん人類にとっては、壮大なドラマであった。
光速の壁、次元認識、生命の意味、生命の階梯把握、イデア、真善美とそれに対する偽悪醜等、解決しなければいけない多くの課題があった。
それらの課題を解決し、宇宙全体に展開していた人類は、ついに宇宙の第一原因をつきとめた。「これしかない」という結論に達したのである。
(偽悪醜さらに不幸は、現在の人類にとっては神の存在に疑問をもつ、大きな理由となっていたが、真と偽。善と悪。美と醜。幸と不幸は、その高次価値の認識にいたった人類にとっては、その高次価値に昇華し、包含される概念となったのである。その高次価値を、現在の人類に説明することは不可能だが、仮に「和」と名付ける。)
そのとき、人類は上霊に遭遇したのである。
さて、それからの人類はどうなったであろうか。
人類はあらたな上霊になったのである。
しかし、上霊そのものではない。人類としての個別属性も保持した上霊となったのである。
人類は、上霊と遭遇する以前にもっていた特性を、遭遇後も愛し続けたのである。
手に入れた無限の能力を、元々の特性が得ることのできる最大限の歓喜と美に合一させることを望んだのである。
人類誕生以来、進化の果てに至るまで、多くの個体としての人間が誕生し、死した。
上霊に遭遇した時点で宇宙に存在した人間だけでなく、かつて宇宙に存在し、生命を終えたすべての人間もまた上霊となった。
永別したはずのすべての人間が高次世界で再遭遇した。
そして、時間と空間を超える存在となった人間は、たったひとつの時系列、たったひとつの空間にのみ存在するわけではない。
個別のすべての人間は、望むままに、あらゆる時空間のそのどこにでも存在することができる。
また、思考、想像の高次認識に至った人類は、かつて実体としてあった実世界以外に、想像の世界も自由自在に実体化させる能力をもつにいたったのである。
2
小川治平は、千九百五十年代後半に誕生し、二十一世紀半ばまで生きた人間である。人類が上霊に遭遇し、復活してのちは、現在の人類からみれば、無限の能力、無限の人生を手にいれた。
彼は、その無限に把握する多重人生のその基調に、おのれの幼年時代を選択した。
彼の家には、三十歳になったばかりの父母と十歳になったばかりの姉がいた。
両親はともに幼少時代にその父と死別していたが、選択、創造した人生においては、若くしてなくなったそのふたりの祖父も、六十歳にはまだなっていない姿で生命をもち、自分の家の近所に祖母とともに住んだ。父の兄弟の家も、母の兄弟の家も近所にある。
家のある町は、地方の山間部で、町の中心に川が流れていた。かつての人生の友人たちも近所に配した。
かつての人生においては、二十歳を過ぎてから出逢った妻も幼馴染になった。
時は穏やかに流れる。まわりはすべて、常に微笑みを浮かべたこころ穏やかで静かな人々である。
治平は、誰とも死別することなく、五歳から三十歳までの人生を永遠に繰り返す。
かつては結ばれることがなかった恋もすべて思いがかなう。傷つくひとは誰もいない。
そしてその人生の周りには、治平の多くの別の人生があり、治平以外のひとびとの無限の人生があった。
了
2018.12.19 加筆
宗教とは物語であり、SF ではないかと思うことがあります。
ひとは、自分の望みを物語にして、世界を意味付けた。
それが宗教。
私自身が望み、最も心の救いになる物語は、と考えたとき、
1 亡くなった人とまた会える。
2 親しい人とずっと一緒に生きていく
3 少年時代から青年時代までをずっとずっと繰り返す
4 望むままに世界が実体化する
そんな願望から作った物語です。
もし、私が宗教を創造するなら、ここに書いてあるようなことを断定して言い切り、教義にしたでしょうね。
もちろん実行しません。
2020年12月16日記
尚、最新の科学によれば、ビッグバンは、138億年前ですが、観測可能な、宇宙の果てまでの距離は、半径464億光年なのだそうです。