隣人
身支度を整えた拓磨は、スーツに着替えていつもの様に玄関のドアを開けた。と同時に、いつもの赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
マンションの廊下に出ると、隣室のドアの前に赤ん坊を抱いた女が立っていた。
その表情は、酷く疲れ切っているように見えた。拓磨は一瞬躊躇したが、思い切って声をかける。
「おはようございます」
それが、偶然にも赤ん坊が息継ぎをしたタイミングと重なり、母親はビクリと反応して振り向く。拓磨を見た母親の目に、あからさまな怯えの色と、僅かな驚愕が見えた。
「お、おはようございます」
夜泣きの酷い赤ん坊にクレームを繰り返していたため、隣人夫婦との関係は最悪だった。
偶然廊下やマンション玄関口で会っても、話し掛ける事は勿論、挨拶すら交わした事はない。
拓磨はそのまま施錠をし、母親の前を通り過ぎようとした。が、しかし。
「あの……毎日毎日、本当に申し訳ありません」
またいつ怒鳴り込まれるのだろうかと怯えながらも、母親が声をかける。
拓磨は足を止めると、ぐずる程度にまで落ち着いた赤ん坊と母親に視線をやる。
今までは、泣き声は疎か、姿を見るだけでも不愉快な気持ちになっていた。
子供など、我が儘ですぐに癇癪を起こす、厄介な者としか思っていなかった。
だが今は、まるで嫌悪感など忘れてしまったかのような気分だった。
「いえ……」
僅かに口ごもりながら、言葉を返す。
怯えた目をした母親を見ていると、今まで自分は何て恥ずべき言動をしてきたのかという背徳心を抱いた。
「こちらこそ、いつも申し訳ありませんでした」
僅かに笑みを浮かべながら言うと、母親の表情があからさまに変わった。
「私も昔は、この子以上によく泣く子供でしたから――」
それだけ言うと、会釈をして足早に立ち去る。
いつの間にか子供は泣き止んでおり、外からは鳥の囀りが聞こえていた。
何も変わっていないのに、こんなにも清々しい朝は久しぶりだった。
拓磨は無意識に笑みを浮かべ、駅へ向かう。
会社についたら、すぐに優香と話をしよう。
今なら、彼女が結婚を拒んだ理由が理解できるような気がした。