懐かしい光景
「ここは俺の田舎か」
錯乱していた自分に言い聞かせる様に声に出して呟く。
なるほど。確かにこの風景には見覚えがあった。
自然ばかりの何もない田舎の町。まさにここは、自分が18年間住んでいた場所なのだ。
そう思うと、なにもかもが懐かしく感じられる。
シーズンを終え、雑草で荒れている畑。チョロチョロと水音を立てて流れる細い小川。
都会ではまず耳にできない風情のある虫の声。
全体的な景色こそ今の田舎とは違うが、自分が幼少の頃に見た景色はまさにこれだ。
「全くなんて夢だ」
もしかしたら、心のどこかで実家に帰りたいと願っていたのだろうか。
そう思った瞬間、一気に思考は現実に引き戻された。
『あなたとは、結婚できない』
目を見ようともせずに、突然言い放たれた言葉。
何が何でも、来週は優香を連れて帰らねばならない。
両親には電話でその旨は伝えてある。
久しぶりに帰ってくる息子を楽しみにしている様な事も言っていた為、今更延期にはできない。
だが、もしこのまま彼女が考え直さなければ、縁談は破談になったと報告しなければならないのだ。
今の所、現段階では後者に近い。なので、帰りたくないと思っていた事はあっても、帰りたいと思っていた事はないだろう。
だが、どんなに自分に言い訳をしても、目の前に広がっているのは懐かしい故郷だ。
余計な事は考えず、懐かしさに浸ろう。
そう考え直し、草むらを抜けると真っ直ぐ伸びた一本道の先を見た。
大きいとも小さいとも言えない建物が見える。
「行ってみるか」
所詮は夢。先ほどの女――若き頃の母がそれを証明してくれた。
不都合が起こった時は目覚めれば良い。そう開き直り、自分の家へと向かって歩き出した。
『ほらボールよ。ポーンして』
垣根から顔を出し、庭先を覗き込む。そこには縁側に座る母と、小さな男の子がボール遊びをしていた。
(ボールか。そういや昔、友也とこうして遊んだ覚えがあるな)
思わず懐かしい光景を思い出して目を細める。
友也とは、5歳年下の弟だ。今は拓摩と同じく東京に出てきており、つい最近広告代理店に就職が決まったばかりだ。
(どうしてんだろうなアイツ。新入社員はストレスが溜まりやすいからな)
同じ東京に住んでいながら、最近会ったのは去年の正月だ。故郷の懐かしさに触れ、久しぶりに連絡をしてみようか。そう思った時。
『上手よ、たくま。じゃあ次はお母さんに投げて頂戴』
(たくま?)
思わず、自分の耳を疑った。その名前は、自分が28年間呼ばれ続けてきたものだ。が、正直、母らしき人物が連れた子供が、自分ではないかとは薄々感じてはいた。
今抱いた疑問は、その事自体ではない。縁側に座っている子供はどう見ても1~2歳だ。
先程母が連れていた子供は、生後間もない赤ん坊ではなかっただろうか。
よく見ると、辺りの景色も変わっていた。青々と茂っていた草は枯れ、茶色く色づいている。明らかに秋の景色だ。
「時間が進んだのか」
一度受け入れられればなんてことはない。今度はあまり驚く事はなかった。
夢というものは、常識が通用しない。場面が目まぐるしく変わる。
それが『夢』というものなのだから。
「大きくなったな」
我が子を見る様な優しい視線を向ける。するとたくまは、こちらに気づいて手を伸ばしてきた。
『危ない。だめよ急に動いたら。怪我するでしょう』
バランスを崩しかけた体を抱き上げると、母は首を傾げて垣根に視線をやる。だがやはり、今回もこちらと視線が合う事はない。
『あっちに行きたいの?何かあるのかしら』
小さな我が子を腕に抱いたまま、母は拓摩の目の前にやってきた。
『すっかり紅葉が終わっちゃったわね。これから寒い季節になるわ……』
ぼやきながら母は遠くの山を眺めている。しかしたくまは、目の前の拓摩に釘付けだ。
「おかしな話だな。俺同士がこうやって見つめ合うなんて」
苦笑いを浮かべると、先程と同じように手を差し出す。が、今度はたくまが、その指をしっかりと握りしめた。
「……」
なんとも言えない感情が溢れてくる。小さく暖かな手。昔の俺は、掌で指1本掴むのがやっとな程小さかったのか。
「たくま」
そっと自分の名を呟く。
『おーい、良子。おれの靴下知らないか』
室内から父の声がし、母はくるりと振り向いた。
『箪笥の2番目の引き出しよ』
『そこは見たんだよ。ちょっと来てくれよ』
「全くもう』
引き返そうとしたその瞬間だった。たくまの手が拓摩の指を離れ、ブチッと枯れ草を引っこ抜いた。すると、その手をそのまま口の中に持っていってしまったのだ。
「おいっ……」
慌てて垣根を越えようと身を乗り出す。しかし服が枝に引っかかり、それに気を取られているうちに母はたくまを抱いたまま、室内に入って行ってしまった。
「あんなもん食ったら腹壊すぞ」
赤ん坊はなんでも口に入れるというのは聞いた事がある。だがまさか、自分もそんな事をしていたなんて。自分の行いが信じられず、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。