夢か現実か
それから、どの位の時間が経過したのだろうか。
軽い頭痛と共に意識を取り戻したが、敢えて目は開けなかった。
感覚的に、まだ数時間と経っていない筈だ。
拓摩の部屋は、東向きだった。頭上の窓からは、太陽の光が容赦なく入り込み、カーテンを閉めて瞼を閉じていてもその眩しさは耐えられないものだった。
いっそ遮光カーテンにしようかと悩んだ事もあったが、最近では自然の目覚ましだと割り切る様になった。
軽く眼球だけ動かして見ても、瞼の明るさは感じられない。恐らくまだ夜中か、そうでなければ朝方だろうと思った。
幸い今日は早出をする日ではない。もう少し寝ていられるだろうと思っていると、ふと、生暖かい感覚に眉を寄せた。
そよそよと髪を靡かせ、全身に感じる風。
窓を開けていた覚えはない。クーラーや扇風機もつけていない。
ならばこの風は一体なんだろうか。そう考えた瞬間、ハッと目を開けた。
「……」
言葉を失った。視界に飛び込んで来たのは、先ほどの感覚では有り得ない、眩しいばかりの太陽の光。そして、真っ青な空と白く流れる雲。
それは、屋内のベッドで寝ていた人間が、目覚めて一番最初には見るはずがない風景だった。
絶句。まさにその表現しかない。
明らかに屋内で寝ていたにもかかわらず、起きたら屋外だったのだ。この状況を冷静に受け入れられる人間は、恐らくいないだろう。
「なんでこんな場所に」
拉致されたのか。時代の流れで、そう思ってしまう。
しかし周りの風景は、そんな殺伐とした状態ではまずありえないものばかりだ。
鳥の囀り。広がる畑。照り付ける太陽。田舎の青春の一頁にならばもってこいだろう。
しかも自分が寝ていた場所は、大きな木の真下。周りに人影はない。
「なんだこれは?夢か……!?」
呟きながら、自分の格好を見てギョッとした。寝たままの姿。つまり、白いランニングシャツとトランクス姿という情けない格好だ。
「な、何がっ……」
上手く口が回らない。理解するには、あまりにも奇怪すぎる。この状況を受け入れられる程、頭は柔らかくない。
いくら夏とは言え、この格好でウロついていれば、間違いなく不審者もしくは変質者として警察沙汰になるだろう。取りあえず木陰に隠れ、今の状況を整理する。
昨夜、いつもの様に寝床に入った。酒は飲んでいたが、飲まれる程ではなかった。
窓を開けていた可能性も、玄関の鍵をかけ忘れた可能性も無い。よって外から何者かが侵入した可能性も少ない。
何より、こんな田舎まで連れて来られるまで目覚めない等、ありえない。
ならばこれは――。
「夢、だな」
そう思うのが無難だ。色彩もあり、感触もある夢。もしかすると、TVの見過ぎかもしれない。
だが、科学的に解釈すると、少しはマシになった。
自分は今、とてもリアルな夢を見ている。ならば、何も焦る必要はない。
そう、自分に言い聞かせて立ち上がると、木に触れる。
これだけの大木だ。樹齢は相当だろう。青々とした若葉が、元気の良さを物語っている。
「何の木だ?」
ざらざらとした幹を撫でる。その瞬間、違和感を抱いた。何も無い事への違和感を。
なぜかこの木の、まさに自分が手を触れているこの部分に傷がなければいけない気がした。
(この手触りはおかしい)
理由のわからない違和感に眉を寄せていると、ふいにどこからか子供の泣き声が聞こえてきた。
『オギャーッ、オギャーッ』
声は段々近付き、無意識にイライラしながら、物陰から顔を覗かせる。
『よしよし、そんなに泣かないで』
真っ直ぐ伸びた道から、1人の若い女が赤ん坊を連れてやって来くるのが見えた。
「まずい。こっちに来る」
夢だとはわかっている。だが、僅かな可能性も捨て切れない。不可抗力で変質者とされたらたまったものじゃない。慌てて木の影に隠れ、その場をやり過ごそうと決めた。
『オギャーッ!オギャーッッ』
(うるさいな。また隣りのガキか)
夢にまで現れる程だ。相当酷く泣いているのだろう。若い女――母親らしき女性は、懸命にあやしているが、一向に泣きやむ気配はない。
(早く、通り過ぎろ)
母親がちょうど木の前にやってきた時、赤ん坊が泣きやみ、木に向かって手を伸ばした。
『そっちに行きたいの?はいはい』
虫だらけの夏の草むらには、普通ならば入ろうとは思わないだろう。しかし、やっと泣きやんだ子供が求めているのだからと、迷わずにこちらへ向かって来た。
(マズイ。このままだと……)
これが万が一現実ならば、間違いなく悲鳴を上げられる。それを知ってか知らずか、更に赤ん坊は拓摩に向かって手を伸ばした。
『はいはい。どうしたのかしら一体』
(あぁ、ダメだ)
母親が自分の目の前に現れた。悲鳴をあげられるのを覚悟に目をつぶる。
しかし、いつまで経っても、女は声を上げない。
恐る恐る目を開くと、赤ん坊は自分に向かって必死に手を伸ばしていた。
当然母親も、子供が見ている方に視線を向けている。
だが、彼女には拓摩が見えていない様だ。見ているのはこちらだが、視線が合っていない。
「見えないのか?」
どうやら母親に関してはそうらしい。だが赤ん坊は……。
「お前、俺が見えるのか?」
ゆっくり手を伸ばすと、赤ん坊も拓摩に手を伸ばす。しかし、その手が触れ合う事はなかった。
『随分その木が好きなのね。秋になったら、また連れて来てあげるからね』
そう言い、女は赤ん坊を抱き直す。その瞬間、女の顔を見た拓摩は、思わず声を漏らしそうになった。
肌には皺はない。髪も黒く艶やかだ。
だが彼女は間違いなく――。
「母さん」
田舎に住んでいる母親だ。
ゆっくりと遠ざかる後ろ姿を見ながら呟く。
風が拭き、懐かしい匂いが鼻をかすめた。
その瞬間、ここが実家の近くにある栗の大木の真下だと気付いた。