ぐう畜! 大暗黒魔皇帝伝説 2章
二
翌日――。
昨日の憂鬱な天気が嘘のように、今朝は爽快な青空が広がった。男子は学ラン、女子はセーラー服で登下校する生徒たちの間では、このところの梅雨寒のためまだみんな冬服であることも手伝って、「今日は暑いくらいだね」との言葉が交わされていた。
しかし、ヤイバの心は天気とは無関係にあいかわらず暗かった。
(このところ、以前にも増して不当に畜生呼ばわりされるケースが増えている。いいや、年々その傾向が強まっている……。不安だなあ、おれの将来はどうなるんだろう。なにかの拍子に犯罪者呼ばわりされて捕まり、裁判では有罪が確定、冤罪で長期間の服役……とか?)
その日、ヤイバはいつものようにユキと一緒に登校し、ユキと一緒に校門をくぐり、ユキと一緒に下駄箱で上履きに履き替え、ユキと一緒に一年A組に入った。
兄妹なのに同級生? それには理由がある。ヤイバは小さいころ大病を患ったため、小学校に上がるのが普通の子より一年遅れた。それで、一歳年下のユキと同学年なのだ。
ちなみに一年A組では、ヤイバとユキは隣同士の席に配置されている。ヤイバの隣には誰も座りたがらないから、このような特別措置がとられている。
日直がいつもの「起立! 礼!」の号令をかけ、ホームルームとなった。
そして今日も、いつもと変わり映えのない一日が始まる……かと思いきや、そうではなかった。
「えー、今日はですね、転校生を紹介します。どうぞ、入ってください」
担任の内山教諭三十六歳が、いきなりそんなことを言い出したものだから教室はざわめきに包まれた。
「あ……!」
「ええっ!」
問題の転校生が入室すると、ざわめきはますます大きくなった。
(うわー! なんだあれはー!)
ヤイバも内心で大声をあげ、目を剥いてしまった。
さらさらの金髪。白く滑らかな肌。青く澄んだ大きな瞳。さらに胸も大きくて、腰はきゅっとくびれていて、そのくせ足は細いワガママボディ。ほかの女生徒と同じセーラー服姿なのに後光がさして見えるグラビアアイドル級の美少女様が、なんの変哲もない公立高校にいきなり降臨……!
「ええと、自己紹介をしていただけますか? あの、日本語……わかります?」
内山教諭がどう扱えばいいのかもてあまし気味の態度でたずねると、
「ルシール・アイラッテですぅ。えっとぉ、私のニホン語、これで通じてますかぁ?」
まさかまさかの、流暢な日本語。しかも声がまたいい。ちりんちりんと小さな鈴が鳴り響くような、愛らしくて耳ざわりの良い声だ。
ついにざわめきは、おおおおお、というどよめきに変化した。
「日本語、お上手ですね……」
内山教諭は目をぱちくりさせた。
「あ、通じているんですね。よかったぁ。でも、ルシールはべつに人間界の言葉にくわしいわけじゃないんですぅ。あれこれお膳立てをしてくださった魔界の預言者様が、人間界の言葉がわかる魔法をかけてくださったんですぅ」
そう言ってにっこり笑ったお顔の、華やかさといったら! どこか小さな女の子を思わせるたどたどしくておっとりとした話し方なのだけれど、そこがまた愛らしい。え? 人間界とか魔法とか電波を飛ばしているんじゃないかって? そんな気がしないでもないが、これだけかわいい子なら「乙女らしいメルヘンチックな子だなあ……」ですまされる。もしもヤイバが似たようなことを言ったら、国連総会で「我々はこのような国際社会の秩序を乱す異常者を決して許さない」と非難決議が出されることだろう。
「すっげえ! すっげえかわいい!」
「なんてこった。こんなサプライズがあるなんて」
「今日は大安か? 吉日か?」
「いやー、明日から学校来るのが楽しくなっちゃうな!」
「しかし何人なんだろう。北欧? アメリカ?」」
男子生徒一同はわくわくが止まらない。ここまで突き抜けた美少女だと同性としてもやっかみようがないのか、女生徒一同も「お友達になりたい……!」と憧れの眼差しをむけている。
けれど、ヤイバだけはそっと目を伏せた。
「おれがじっと見つめていたら、警察に通報される。そこまでゆかずとも、いやらしい目で見ないでくださいとか、そんな拒絶の言葉で手ひどく痛めつけられるに決まっている。きっとそうだ……そうなんだ……」
小声でつぶやき、なにをやっても悪い方へ悪い方へと誤解される星回りを呪う。
しかしヤイバは、本心では、こう思っていた。
(あんなかわいくて明るい子が彼女になってくれたら、どんなにかすてきな人生だろう。どんなにか幸せになれることだろう……)
その昔、偉い人が、男の修養は我慢にある、と言ったそうだ。けれど、ヤイバの人生なんて産まれてからこの方ずっと我慢しっぱなしだ。そろそろ何かいいことがあってもいいんじゃないか、そう思うたびに、状況はむしろ悪化するばかりだった人生――。
「えっとぉ、ところでぇ、このクラスに、クロバネヤイバ様はいますかぁ」
(うん?)
ヤイバは耳を疑った。
「クロバネヤイバ様、いませんかぁ?」
再びルシールの声がしたので、ヤイバはおずおずと顔を上げた。級友たちは、いったいぜんたい何事かと、謎の転校生ルシールとヤイバに視線を行き来させている。
「おれが、そのヤイバだけど」
ヤイバは輝くようなルシールの美しきご尊顔を真正面から見つめる勇気がなくて、盗み見るような、どこか卑屈な眼差しで見やった。
「あっ! あなたがヤイバ様なのですね! 会えて良かった、初めまして! ルシール・アイラッテですぅ。親しみをこめて、ルシ子と呼んでくださいね!」
「え……。君って、おれの知り合い? 覚えがないんだけど。ユキの知り合いか?」
「え? ううん、ぜんぜん知らない人だよ。夢の中でさえ、会ったことがないよ」
ユキもきょとんとしている。
「ルシ子とヤイバ様は初対面の間柄ですぅ。でもでも、ルシ子がこうして人間界にやってきたのは、ヤイバ様に会うためなのですぅ。えっとぉ、早速ですがお話ししたいことがあるんで、お時間いただけますぅ?」
ルシ子は小首をかしげて上目づかいでたずねてきた。これがまた小悪魔的というか、じつに蠱惑的な眼差しで、ヤイバはくらくらした。
「時間と言われても……今はホームルームで、これから授業だけど……」
「あう。人間界は、いろいろとめんどくさいんですね。でも、うーん……時間も迫っているし……。いいや。ルシ子としては、ほんとは二人きりの方がいいのですが、もうこの場で用件を言っちゃうのですぅ」
「用件? おれに何か用があるってこと?」
「そうですぅ」
ルシ子はかばんを教卓に載せてがさごそと中身をかき回し、一枚の紙きれをとりだした。
紙といっても二十一世紀の日本人にとってなじみのある工業紙とはちがう。しわしわなのを無理に伸ばした感じで、少し黄色っぽい。中世のヨーロッパなどで使われていた羊皮紙だ。
「えっとですね……」
ルシ子は羊皮紙とペンケースを手に教卓のそばを離れ、ヤイバのところへやってきた。すると金色の髪からあま~い香りがふわりと広がり、ヤイバの鼻先をかすめた。
「ヤイバ様、ルシ子と結婚してくださいまし。お嫁さんにしてくれたら、ルシ子は一生つくしちゃうんですぅ。きゃっ、言っちゃいました!」
え?
は?
ハアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア?
なんだなんだ、どうしたどうした! 頬を桃色に染めて、てれってれのルシ子。どよめきがおさまらないクラスメートと内山教諭三十六歳。唖然としてものも言えないユキ――。
「きっ、君、正気?」
ヤイバはそれだけ言うのがやっとだった。
「ルシ子は正気ですぅ。なぜかというと、お酒は飲んでいないんですぅ」
「なんで? どうして?」
「正確に言うと、飲めないんですぅ。お酒、よわよわなんですぅ」
「いや、お酒の話じゃなくて。なんでおれと、け、結婚っ? というより、そもそも初対面なのに、なんでおれのこと知ってるの?」
「えっとですねぇ、ルシ子はウィッチなんですぅ。いわゆるひとつの、魔女ってやつなんですぅ。まあ、ウィッチといっても色々といて、ルシ子はだめな方なんですけどぉ……」
「ウィッチ?」
「そうですぅ。じつはですね、今、ルシ子たちの世界――魔界はたいへんなことになっているんですぅ。魔界を平定して治めておられた魔王様が、どういうわけか突然行方知れずになってしまって、それからというもの、ひと時も争いが絶えないんですぅ……。力ある者ばかりがやたらと幅をきかせる世の中になってしまって、ルシ子みたいな弱っちい魔族は、とっても肩身が狭いんですぅ……」
魔界。魔王。魔族ときた。もはや、電波ですね、ではすまされない。医者と病院がダース単位で必要な案件だ。
「ルシ子はそんな世の中にたまりかねて、なんとかなりませんかねぇって、アドン山の偉大な預言者様のところへ相談に行ったんですぅ。あ、アドン山っていうのは、魔界にあるとっても高い山で、預言者様はその中腹に住んでおられるのですぅ」
「そっ、そう」
「そしたら預言者様は、ルシ子が今日ここへ来るのもわかっていたと前置きして、こうおっしゃったんですぅ。ルシ子はとても小さな歯車にすぎないけれど、運命の大車輪を動かす最初のきっかけになる、と……。預言者様は占いの力で、先代魔王様のご子息が、人間界でクロバネヤイバという名で暮らしていることを突き止めており、その方を魔界へお連れするのがルシ子の使命であり運命なんだそうですぅ。そしてそして、魔界に降臨したヤイバ様は、必ずやその強大なお力で魔界全土を平定するんだそうですぅ」
「先代魔王? おれがその……子どもっ? おれ、あの、母子家庭で、母さんいわく、父さんとはおれが小さいころに離婚したと聞かされていたけど――」
「ルシ子は詳しいこと知らないのですぅ。でも預言者様によるとぉ、ヤイバ様のお父上は先代の魔王様、お母上は魔族ではなく人間なんだそうですぅ。つまりヤイバ様は半分人間、半分魔族なのですぅ」
半分、魔族。
突然、ヤイバは謎が解けた気がした。
「なんてこった。衝撃の事実だ。普通だったら信じられない。でもおれはすなおに信じられる。おれってさ、何をやっても悪い方へ悪い方へと誤解される星回りの人生を送ってきたんだ。いくらなんでも不自然で、なにか原因があるんじゃないかって思ってた。半分魔族、それが原因なんじゃないのか?」
ヤイバは興奮してまくしたてた。
「星回り……? とにかくですね、ヤイバ様は先代魔王様の血を引く、とてつもなく強大な魔族なのですぅ。すっごい魔法とか、そういうのを使えちゃうんですぅ」
「え。おれ、そんなの使えるの?」
「今は使えないんですぅ。預言者様によるとですね、ヤイバ様の力を恐れた何者かが、ヤイバ様がまだ幼いころに封印を施してしまったのですぅ。その封印は強大なのですが、でも、ヤイバ様が成長し力を増したため、かなり弱まっているんだそうですぅ。今はもう、魔界へお連れすれば、ことさら封印を解く魔法や儀式を施さずとも、魔界に満ちている魔力の影響で封印は砕け散ってしまうんだとか……」
「ふ、ふうん」
「でも、いいですか。ここからが、かんじんなところですぅ」
ルシ子は身を乗り出してヤイバの瞳をまっすぐに見つめてきた。青く澄んだ泉の美しさに、ヤイバは改めて息を呑んだ。
「ルシ子たち……ウィッチは、種族固有の魔法である、契約の術を使えるんですぅ。えっとですね、お互いに契約書にもとづいて、これとこれを交換しましょうね、っていう取引をする魔法なんですぅ。例えばぁ、金銀財宝をあげるかわりに寿命をもらっちゃうとかぁ、知識や秘密を教えてあげるかわりに健康を奪うとかぁ、そういうのですぅ。とにかく、なにかを得て、なにかを渡す、魔法を介した取引がウィッチの本領なのですぅ」
「うわっ。なんだその物騒なのは。悪魔との契約ってやつか?」
「それでぇ、預言者様いわく、ヤイバ様はすっごく孤独なお方で、とても悲しくて寂しい思いをしているそうなんですぅ。あってますぅ?」
「身も蓋もないが……まあ……あってるよ、うん」
「預言者様は、こうおっしゃいましたぁ。ルシ子はおっぱい大きくて腰も細いナイスバディでさらに美顔でお肌もつるつるなのなのでぇ、お嫁さんになってあげると取引をもちかければ、メンクイのヤイバ様は必ずや乗ってくるはず! と」
「なんだその預言者ってのは。おれの知らないところで、言いたい放題に言いやがって。もっとも、そういうのは今に始まった話じゃないんだが」
「ともあれ、ヤイバ様。ルシ子と契約してくださいませ。魔界へ帰還して、魔界平定に力をつくすと……。そしたらルシ子は、ヤイバ様のお嫁さんになってあげちゃうのですぅ! 一生、ヤイバ様につくして、真心をこめて、孤独を癒やしてさしあげるのですぅ!」
「その……非常に魅力的な申し出なんだけど……。魔界の平定? そんなこと、おれにできるのか? おれにそんな力があるのか? ちょっとその、考える時間をもらってもいいかな」
「あう……。それが、そういうわけにもいかないんですぅ。今すぐでなくちゃだめなんですぅ」
「えっ。今すぐに決めろっていうの?」
「はいですぅ。預言者様が占いで突き止めた空間の揺らぎが迫っているんですぅ。ルシ子のようなちっちゃい魔族はともかく、ヤイバ様のような大きな力を持つ魔族は、人間界と魔界の境目に大きな揺らぎが生じた時でないと、移動できないんですぅ。もうじき揺らぎの大波が来るので、その前に契約して欲しいんですぅ。契約が完了したら、波が来た時に、預言者様が魔界側から召喚魔法を使って次元を越える通路をつなげてくださるんですぅ」
「――――」
「この書類の……ここです。ここにお名前をかいてくだされば、契約が完了して、ルシ子とヤイバ様は絶対に破れない魔法の契約により固く結ばれるのですぅ。心配いりません、ルシ子はがんばって、ヤイバ様に気に入ってもらえる、いいお嫁さんになるんですぅ! それにヤイバ様は先代魔王様の息子、その力をもってすれば魔界を平定するのはかんたん……なはずですぅ。あ、ルシ子の名前は、ほら、ここにもうかいてあるんですよぉ」
そこまで話すと、ルシ子はいったん口を閉ざした。
「契約……。これに名前をサイン……?」
ジェットコースター並にめちゃくちゃな急展開にもかかわらず、ヤイバは自分が妙に納得しているのを意識しながら羊皮紙を手にとった。
(……って、魔界とか魔王とか色々とブッ飛んだ話なのに、この契約書ときたら保険の書類みたいに日本語でかかれているな)
しかも契約条項らしきものは美しくかっちりとした字体なのに、名前を記す空欄には『るしーる、あいらつて』と小学一年生みたいなたどたどしいひらがながかかれている……。『る』のかきかたがいい加減で『ろ』に近く、『つ』も小さな『っ』になっていない。契約書を作成したのはルシ子ではなく預言者とやらなのだろうか?
ひそ……ひそ……。
「ねえ、あの子っておかしいよね? どう考えても」
「うん……。かわいそうに……」
「でも、ヤイバが魔王の子どもだあ? なんか納得だな」
「ああ。できすぎた話で気味が悪いぜ」
クラスメートたちがひそひそ話す中、ルシ子は再び身を乗り出してヤイバの瞳をのぞきこんだ。
「あの……ヤイバ様。運命の時間が迫っているんですぅ。どうかルシ子に、魔界平定を約してくださいまし。そしたら、ルシ子は一生、ヤイバ様につくすと約束いたしますぅ……。魔界は、とっても強い誰かが平定しなければ、中途半端な力を持つ魔族たちの群雄割拠がいつまでも続いて、荒れ放題なのですぅ……。ヤイバ様は、私のような弱っちい魔族にとっての、希望の星なのですぅ……」
ルシ子は次第に涙声になり、目尻にきらりんと大粒の涙を光らせた。
ヤイバはその涙に、真摯な態度に、魅せられてしまった。
静かに、ルシ子が机に置いたペンケースを開ける。ペンケース自体はそのへんの文房具店で売られているものと大差なかったが、中身は剣のように鋭い穂先の万年筆だった。
「これは?」
「えっとぉ、その先っちょで指か手のひらを突いて、血で……ルシ子の名前の隣に、お名前を、フルネームでかくんですぅ。あ、ルシ子はよくできたお嫁さんの最初の仕事として、消毒薬とバンドエイドも用意しておきましたよ?」
「ここに名前を……か」
ヤイバはペンを握ると、鋭い穂先を左手の親指に近づけた。
「待って! アニー、ちょっと待って! なにか変じゃない? 冗談に思えないよ!」
いきなりユキが大声をあげたので、ヤイバもふくめてみんなびくっとした。
「あう……。あ、あの、ヤイバ様。こちらはどなたですか……?」
「おれの妹のユキだ」
「えっ。ヤイバ様には妹さんがいらっしゃったのですか! 預言者様、そんなこと言ってなかったので、知りませんでしたぁ。あ! ヤイバ様と結婚したら、もしやルシ子はユキ様のお姉さん? わあ、ルシ子は一人っこなので、姉妹ができるのは嬉しいですぅ!」
およそ邪気のかけらもない態度でにこにこと笑うルシ子に探るような目をむけ、ユキは「……アニー。なんか、嫌な予感がする。そのペンを手放して」とうながした。
ヤイバはためらった。なにしろユキはよくできた妹だ。常人離れした悪い星回りを持つ兄をいたわり、慰め、愛想をつかすことなく一緒にいてくれるかけがえのない存在だ。
だが。
だが――。
ヤイバはペンを手にしたまま、ガタッと音を立てて立ち上がり、クラスの面々を見渡した。
「なあ、みんな。おれは幸か不幸か地獄耳でさ……。だから、知っているんだ。みんなが、おれのことを悪く言っているのを。聞こえないふりを続けていたけど……なにもかも知っていたんだ……」
すると大きな恐怖を感じたようにクラスメートたちはいっせいに目を伏せた。内山教諭三十六歳もそうだった。
「いつも、なぜなんだと自問していたよ。おれは自分のこと、ことさら善人だと言い張る気はない。けれど、悪いやつじゃないんだ。それだけは自信をもって言える。なのに、なぜだ? なぜおれはみんなに陰口をたたかれるんだ? なにをやっても悪い方へ悪い方へと誤解されるんだ? そしてまた、お前らはおれを悪し様にののしる自分のことこそ、悪いやつだと感じたことはないか? 一度もないか? どうだ?」
教室はしいんと静まりかえって、咳ひとつない。
「おれが、魔界に君臨していた魔王の息子? それがほんとうなら、なにをやっても誤解される星回りにもいちおうは納得だが……。だけど、おれは証明したい。おれは悪いやつじゃないんだ、って。ぐう畜……ぐうの音も出ないほどの畜生と呼ばれるような、ひどいやつじゃないんだ、って。混乱した魔界に平和をもたらす、か。いいな、それ。もしそれを成し遂げたら、もう誰も……おれをぐう畜呼ばわりしなくなるんじゃないかな……」
最後に見慣れた教室の風景をひと渡り眺めると、ヤイバはペンの穂先を左手の親指に近づけた。
「待ってアニー! サインする気なの?」
「ああっ、契約してくださるのですね、ヤイバ様!」
ユキの制止とルシ子の歓喜が交錯する中、ヤイバは一気に穂先を突き刺して血の赤で染めると、羊皮紙の上にかがみこみ、『黒羽 刃』とすばやく記した。
『刃』の文字の最後のひと筆を記した刹那――。
カッ! と羊皮紙に記されたすべての文字が、マグネシウムを焚いたようなまばゆい光を放った。と同時に、凄まじい気流が生じて、教室に悲鳴が巻き起こった。
「なっ、なんだ、これ!」
ノートやシャーペンや消しゴムが唸りをあげて宙を飛び交う嵐! いや、まるで竜巻の内側にいるような、高速で旋回する風の大渦!
「ああっ、契約の魔法は完了ですぅ! 預言者様ー! ルシ子はやったですぅ! 魔界への入り口を開いてくださぁーい!」
ルシ子の呼びかけに応えるように、教室の天井に紫色に輝く魔法陣らしきものが生じた。魔法陣の中央部はゆっくりと回転する六芒星だったが、じきにそれは消えて、どこへ通じるとも知れない穴がぽっかりと開いた。
「よくぞやった! さあ、クロバネヤイバ様、故郷へご帰還ください!」
穴から、どこの誰のものとも知れない、野太くて深みのある大きな声が発せられた。
「さあ、手を! ヤイバ様、いざ魔界へ!」
ルシ子が伸ばす手を、ヤイバは意を決して強く握った。
「アニー!」
ユキが、ヤイバを止めようと腰に抱きつく。
教室の天井に開いた穴は、さながら掃除機のように、轟音を立てて吸引を開始した。といっても不思議なことにその吸引力は、ルシ子とヤイバ、そのヤイバをかたく抱きしめたユキの三人だけを吸い上げてゆく――。
(なんてこった。じつのところ半信半疑でサインしたのに! ほんとうなのか? おれはほんとうに半分魔族で半分人間、魔王の息子だっていうのか?)
ヤイバはあせり、ちらりと後悔の念をよぎらせたが、今となってはもうすべてが遅い。
謎の空間に飲みこまれる。四方八方、いずれも宇宙開闢以前の無のごとき光でも闇でもない混沌。
そして、どこかへ高速で移動する感覚がよぎった。