第12話 ネネという名の少女 解放
オルグレン領の南西、アゼルレーン領との領境に都市アフシャールはある。その名の通りアフシャール伯爵が治める都市だ。
ネネがアフシャール伯爵の養女となって2年。ネネの生活は一変していた。
「ネネ様、お食事をお持ちしました。本日はピタカタと玉子のスープです」
小間使いのイヴが食事をトレーに載せてネネの部屋を訪れた。
「ありがとう、良い匂い」
イヴはネネに一礼すると静かに入口に控える。小間使いであるイヴは主人のネネと共に食事を取る事はない。
一緒に食べる人がいない食卓に寂しさを感じながら、ネネは用意されていたスプーンを使ってピタカタを口に運んだ。
ピタカタは香辛料の効いたピラフに近い米料理である。ピリッとした辛さと程よい塩気に、加えた鶏ガラのスープがコクを与えていてとても美味しかった。
兄さんたちにも食べさせてあげたい。
義兄のラフマンとラウーフは優しかったが、脳裏に思い起こされるのは実の兄ハマドとアルサバだった。
「とても美味しかったです。料理人にも美味しかったと伝えてください」
「畏まりました。調理したタルマも喜ぶでしょう。本日は午後に魔法の修練が予定されております」
「わかりました。準備しておきます」
ネネはイヴが苦手だった。イヴは20台前半の美女でスタイルも良く小間使いとして優秀なのだが、無口・無表情で話しかけ難い雰囲気を持っていた。
「それでは失礼致します」
事務的な会話の後、イヴはトレーを持って下がって行った。これで午後の修練まではひとりきり。当初は寂しさのあまりイスムを思って泣いて過ごしていたが、それにも慣れてしまった。
ネネは椅子から立つと藤で作られたテーブルを回り込んで窓に向かった。埃が舞うのを避けるために下げてあった簾を上げ部屋に風を通す。
アフシャール市はネネが育ったカナンガ山中のマッカ村と異なり一年を通じて高温である。
雨季と乾期が明確に別れ、雨季は大地が一面の緑に覆われる一方、乾期は草が枯れ赤茶けた地面が至る所に表れる。
主食となるのは雨季に栽培される米だった。米と言っても日本で食べられているようなジャポニカ米ではなく、タイ米などで知られるインディカ米に近い品種だが。
「はぁ・・・」
窓枠に肘を突いて外を眺めていたネネの口から思わずといった溜め息が洩れる。
アフシャール家での生活は1日の大半がほぼひとりきりだった。イヴが近くに控えているものの会話もなく、ネネにとってはいないも同然である。
しかし、アフシャール家の人々が殊更ネネに冷たく当たったわけではない。廊下で会えば挨拶を交わすし、義母のラーニアや義姉のシヴィリはしばしばお茶会に誘ってくれた。
ただネネにとっての家族とは言いたい事を言い合う相手であり、力強い手で頭を撫でてくれる頼れる存在であり、悲しい時に静かに抱き締めてくれる存在の事だった。
アフシャール家では使用人が主人の行動を妨げるなど厳禁であったし、それぞれが公務で出払い家族が数日顔を合わせないことも普通の事だったが、そんな事はネネにはわからない。自分が疎まれていると勘違いしても仕方がなかった。
ネネは必死に礼儀作法や魔法論を覚えアフシャール家に溶け込もうと努力したが、変わらぬ家族関係にひとり孤独感を深めていた。
屋敷の南にある練兵場の一画。向かい合う女性騎士とネネの間に絡み合う2つの水の塊がある。
「お見事です!既に私が教えられる事はありません。私は魔法師ですので魔法の基礎をお教えするのが精いっぱいです。これ以上の技術を身に付けるなら、王立魔法学園エルサディーンにご入学なさるのが良いでしょう」
ネネの繊細な魔力制御を見た女性騎士ハティ・イデは手放しで褒め称えた。
ハティは魔法学園の卒業生でその才能がアフシャール伯爵の目に止まり騎士に抜擢された才媛である。
「ありがとうございます、先生。私も魔法学園に入学出来るでしょうか?」
「まず間違いないでしょう。伯爵様に推薦状を頂かずとも実力で入学出来ます」
王立魔法学園エルサディーンは10歳から15歳までの才能ある子女を集め育成する5年制の学園だ。修習内容は魔法学に留まらず礼儀作法から護身術まで多岐に渡る。
ネネは入学条件を満たす10歳の誕生日を機に学園への入学を希望していた。
悪意に晒された経験から人と接することに恐怖がないわけではなかったが、学園で友達を作りたい。それがネネのささやかな願いだった。
数日後、ネネは執務室を訪れていた。執務室の中には主であるアフシャール伯爵タラールと義母ラーニア。執事のゴートンがいた。
「そうか、魔法学園にな。アフシャール家は魔法の才を持つものが少ない。今は長男のラフマンだけだからな。お前には是非ともアフシャールの名を知らしめて貰いたいものだ。勿論、入学を許すとも」
タラールは笑みを浮かべてネネの願いを許した。もとより魔法関連に弱いアフシャール家を補う意味でネネを呼び寄せたのだ。養女という破格の待遇を与えたのもアフシャール家への帰属意識を高める目的があった。
「ありがとうございます。アフシャール家の名に泥を塗らないよう頑張ります」
「入学式は2ヶ月後だが王都は遠い。馬車で行けば一ヶ月半は掛かろう。護衛の人選もせねばな。ゴートン、早速に手配せよ」
「畏まりました。明後日までには準備致します」
執事のゴートンはある程度予想していたのか落ち着いて応えを返した。
「貴方様、急過ぎる話ではありませんか?義理とは言え娘が王都のような遠い所へ行くなど・・・イヴを同行させるわけにはいかないのかしら?」
ラーニアは中々心を開いてくれないネネを気に掛けていた。いつも張り詰めた表情で努力を重ね全く我儘を言わない。幼い胸の内でどれほど多くの無理をしていることか・・・
「お前も知っているだろう?学園は全寮制だ。寮には専属のものがいる。道中は・・・そうだな、ハティを護衛として同行させよう。ハティは同じ女だ。魔法の基礎を教えていて面識もあるしな」
タラールはやんわりとラーニアの意見を退ける。そんなことで学園行きを躊躇されては困るのだ。
ラーニアは情の深い女だからネネの境遇に思うところがあるのだろう。しかし、ネネには召喚師として大成して貰わねばならん。幸い容姿も人並み以上だ。召喚師となればどの家でも欲しがるに違いない。いや、ラフマンと娶せるという選択肢もあるか。
タラールにとってアフシャール市の平穏と発展こそが優先事項であって家族は二の次であった。
「?!」
その頃ネネはラーニアの言葉に驚いていた。ずっと疎まれていると思っていた義母が、実は自分の事を気にかけている事に。
恐々とラーニアを見上げると気遣う視線と視線がぶつかる。
「義母様・・・」
ネネはラーニアの袖口を握った。まだ抱き付くのは怖い。ネネは口を引き結んだままラーニアを見つめ続ける。
そんな様子を見たラーニアは、身を屈めて目線を合わせると優しくネネを抱き締める。ラーニアもまた、自分の何が足りなかったのか理解した瞬間だった。
この後ネネは出発の日までの短い間、義母や義兄姉とたくさん話し大いに甘えたのだった。初めてと言って良い家族の触れ合いを得て、ネネは明るく王都に出発したのだった。
ネネのお話が一段落しました。
次回からは学園編です。久しぶりにトト登場予定。