第9話 兄と父
朝は遅く、昼は母に甘え、夕方は兄と一緒にいつつパソコンをいじり、夜は燐くんに勉強を教える。
これが、三歳の幼女こと私の生活習慣です。
……あのね、あのですね、前世じゃ三歳のとき何やってたかなんて覚えてないのですよ。だから三歳らしいことができない。たぶんずっと寝てたけど。食っちゃ寝してたけど!
そして普段の生活習慣に出てこない唯一の家族メンバー、父。
お医者さんだし、仕事忙しいらしいし、そもそも家に帰ってくるの夜遅いしで、会うことがほとんどない。いやまあ、会おうと思えば会えるけど、父が帰ってくる時間まで普通は起きてないでしょ、三歳は。
たまに遊びに連れていってくれるけど、そんなことよりちゃんと休んで疲れを取ってほしいというのが本音です。目の下の隈を消してからはっちゃけて……。
と、いつも思っています。ちゃんと休んでから遊びに連れていってほしいと。ぶっちゃけ私はインドア派なのでずっと家に居たいタイプ。贅沢を言うならネット使えればそれでいいです。
思ったんですけど、我が家裕福だし私ニートでも大丈夫なんじゃね……? 親の脛をかじって生きていけるんじゃーー
「気持ち悪いことになってるぞ、顔」
「ーーダメだ、この子の軽蔑しきった目が私を働かせる」
「意味が分からない」
兄である燐くんの瞳がっ。この瞳が私を軽蔑するように見ることに耐えられないっ。想像するだけで吐血しそう!
危ない危ない、この目がなかったら私はクズニートの道をまっしぐらだった。
……いいや、そもそも何故働かなくてはならない? 働かないで家でだらだらすることに、何故罪悪感を覚えなくてはならない? そういう風潮が存在しているからじゃないの?
あ、やめよう。これ考えても何も生み出さないやつだわ。ニートになるための言い訳に過ぎないわ。
「将来、いい上司に恵まれますようにっ」
「今からそんなこと言うのか……」
「いやいや、切実に。けっこう切実にこれ願ってる。ブラック企業にも勤めたくない。燐くんは? 社畜?」
「言い方を考えろ」
燐くんに勉強を教えるときは、大抵燐くんの部屋にお邪魔している。今日も例に漏れず。
寝るためにあると言っても過言ではない質素な部屋で、私は燐くんの隣に座って参考書を片手にーー片手で持てるほど軽くないので、比喩ですーー改めて勉強の内容を理解し直しつつ、色々考えたりしていた。
そう、ニートになってもいいんじゃね? とかを。ならないけど、なりたいな。
「働きたくない……」
「少なくともあと十二年は働けないけどな」
アルバイトも十五歳以上じゃないとダメなんだっけ? でもそうじゃない。一生働きたくない。
しかしそうも言っていられないのが人生……。常にハードモードでプレイしなきゃいけないつらさが、もう……。
「はぁぁ………」
「今から先のこと考えすぎだろ」
燐くんの呆れきった声。
ふむ、十年以上先のことを考えても疲れるだけだね。今を幸せに生きれればそれでいいじゃない! その時の幸せだけを求めよう! 適当に頑張れば、適当でも生きられるから!
「よし、じゃあ折角の土曜日を有意義に使うため……パソコンいじりたいです。使えないけど。今お母さんリビングにいるし」
「だから俺の部屋に来たんだろ」
「そーなんだよぉぉぉ……。あー小説読みたい……」
今持っているのは参考書。読みたいのはこれじゃない。
参考書を見ているのは、私自身勉強を忘れているところがあるため燐くんに教えるのに支障が出るからだ。見れば思い出せる程度なんだけど、教えるにはちゃんと理解していないとだから。
燐くんが手を止めたら「どうしたどうした」と呟きながらノートを覗き込み、優等生よろしく解説をしていく。
勉強を教えられる幼女とか、端から見ていたいな。何その賢い幼女。ロリコンじゃなくても惚れるよ? 私、惚れられるよ?
「ねー燐くんって夢ないの? 将来の夢。私は神様の羽根をむしり取って最高級クッションを作ることだけど……」
「死後なそれ」
死後でも将来って言うことできません? 死後は死後ですか? さいですか。
「燐くんは?」
こてんと首を傾げて訊いてみる。普通に気になっているのだ、この子の将来の夢。頭いいし、何にでもなれるんじゃないかな、努力を怠らなければ。身内の贔屓目も入ってると思うけど。
すると燐くんは眉間に皺を寄せて、訝しげに私をじろじろと見つめた。
「お前、知らないの?」
「へ?」
「俺は、父親の跡を継がされる」
「……え?」
「あの人、病院の院長やってるんだよ」
「………あ、あはは……」
無意識に、乾いた笑いが漏れた。
マジか。マジですか。雇われ側じゃなくて雇う側の人間だったのか。やだ怖い。
て言うことは、医者になるんだ、燐くん。うわぁ、めちゃくちゃ頑張らなきゃじゃん。医学部の偏差値なんて、思い出すだけで吐き気がしちゃう。
全体の何パーセントが医学部入れる偏差値持ってるんだったっけ……。大学によって変わるけど、高いことには違いないから……。
「わ、私は医者になんてならないからね!?」
「好きにすれば」
「り、燐くんが私に手伝ってほしいとか言ってくれちゃうなら、考えてあげないこともないんだからね!」
「どっちだよ!?」
すみません、医者にはなりたくないです。でも人に助けを求められると応えたくなる性格してるから、励ましてくれれば頑張る可能性高いよ!
褒めて伸ばそうとしてくれないと、怒られても私は拗ねて終わるタイプなので。褒めて褒めて! いっぱい褒めて!
私が犬だったら尻尾をぶんぶん振りまくっているだろう気持ちで兄を振り向いたが、問題を解くのに集中していて気づいてもらえなかった。寂しい。
しかしまあ、そっか。なんかハイスペックだね今世の家族。私だけ凡人なまま終わったら悲しいな。やっぱりニートはやめておいた方がいいのか。
ハイスペックな遺伝子を受け継いで、記憶力とか発想力のいい脳みそでありますように。
どこに向かって祈るわけでもなく、手を合わせて拝んでおくことにする。
さてさて、お勉強に集中すると致しましょうかね。人に教えるためと思った方が、自分のためと思うよりやる気が出るんです。なので自分が学生になったら勉強しない可能性が高い。
今のうちに復習と思って……。
「なぁ、この問題ーー」
ーードゴッ
『ぅぐっ』
「……」
「……」
「……この問題なんだけど」
何事もなかったかのように質問を続ける燐くん。
あれ……? さっきの『ドゴッ』とかいう音は空耳だったのかな……。私ももう歳……違う、まだピチピチの三歳児だから、むしろまだ成長しきってない方だ、耳が。
でもなぁ……確かに下の階で何か重いものが、しかも呻き声つきで落ちた気がするんだけどなぁ……。あ、ちなみに燐くんの部屋、二階です。
ま、いっか。なんか下でバタバタしてる音が若干聞こえないでもないけど、燐くんが無視したがっているなら仕方なーー
『燐! 巳稀!』
「「……」」
ドアの向こうで私達を呼ぶ声。はい、間違いなく父です。
夜中に帰ってきていたんだろうね。家にいるって知らなかったもん。
「なに?」
不機嫌な声で燐くんが返事すると、少し怯んだように父の声は小さくなった。
『その、今日、休みなんだが……』
行きたいところとかあれば……、と言い淀んでいる。
健気かっ。
これは予想だけど、昨日夜中に帰ってきて『明日は休みだから普段構ってやれない子供達を遊びに連れていってやろう』なんてことを優しい気持ちで考えながら眠ったのはいいけど、日頃の疲れが祟って起きたのがこの時間……もう夕方ですね、はい。
気にしなくていいのに……。少なくとも私は、遊ぶよりもしっかり休んでほしいと思っている。
その気持ちだけでもありがたく受け取って、今日は父に甘えることに致しますかね。自分で言うのもアレだけど、私ってば可愛い可愛い愛娘だからね。中身こんなだけどね。見た目可愛い幼女がなつけば元気にもなるでしょう。私も幼女になつかれたい。
燐くんはどうするんだろう、と思って顔を見上げてみると、なんだか形容できない変な顔をしていた。
嫌がっているような、呆れているような、怒っているような、悲しんでいるような……とにかく色々混ざりすぎていて、その表情浮かべるだけで疲れそうだ。
やっぱりこの子が実の親である父にも遠慮がちな理由、気になる。後で訊くか、それとも……。
私はドアの向こう側にいる父を思った。
甘えるついでに、頑張って聞き出そうかしら。