北政所の動向
次に、小早川秀秋が西軍を離脱した8月17日前後から、
関ヶ原の戦いの9月15日前後までの北政所の動向を、資料を元に追っていく。
資料としては、豊臣家に縁の深い三人の日記が中心となる。
ひとつめは、醍醐寺座主である義演が記した「義演准后日記」
義演は、豊臣秀吉に関白を譲った二条昭実の弟で、
豊臣家の援助を受けて醍醐寺三宝院を再興している。
秀吉の死後も豊臣家との親交は厚かった。
ふたつめは、豊国神社別当の神龍院梵舜が記した「舜旧記」
梵舜は、吉田兼行の弟で北政所との関係も深かった。
みっつめは、西洞院時慶が記した「時慶記」
時慶は、孝蔵主を通じて北政所と親交があった。
8月16日、八条宮智仁親王が豊国神社へ社参する。(以下、社参)
京極高次が社参する。
8月18日、北政所が社参する。(18日は秀吉の月命日)
烏丸光宣が社参する。
8月29日、北政所が、自分の居る京都新城の石垣や櫓を壊し、公家に下げ渡す。
9月 4日、大津城が騒然とし始める。
9月 7日、孝蔵主、木食応其(僧)による大津城講和交渉もならず。
9月 9日、前田玄以から義演へ、「9月16日」の大般若経伝読の依頼がくる。
北政所が社参する。
9月12日、京極高次が講和するとの連絡が届く。
9月13日、北政所が京都新城の南門を壊す。
9月14日、孝蔵主、木食応其、海津局(淀殿の使者)が使者となり、講和成立。
9月16日、義演、大阪城にて大般若経を転読する。
9月17日、義演、大阪からの帰路に京方(西軍)の大敗をきく。
9月18日、北政所が京都新城から観修寺晴子の屋敷に居を移す。
観修寺晴子は、後陽成天皇、八条宮智仁親王の母親。
北政所が社参する。
9月19日、小早川秀秋が北政所を見舞いに観修寺晴子の屋敷を訪れる。
これらの資料を元に、妄想歴史ロマンを組み立ててみよう。