本編の前に
「7月17日、細川忠興の妻 玉、大阪城への入城命令を拒否し、自害する」
前作『金吾殿』では、入城命令が「北政所」ではなく、
「石田三成」で行われたため、北政所の大名妻女への監督権限を犯したと述べた。
細川幽玄が生き残ったのは、北政所が朝廷を動かしたからだと述べた。
前田玄以が関ヶ原の戦いの前日に謹慎したり、京極高次の籠城のせいで兵が遅参したのも、
全て北政所、ひいては小早川秀秋の策略だと述べた。
全ては、ウィキを見ながら思い付いた妄想歴史だったのだが、
関ヶ原当時の関係者の一次資料を時系列で纏めたサイトを見ていたら、
「案外的外れでもないかも」と思い始めてきた。
「清正行状記」によると、
入城命令は長束正家、増田長盛らが「秀頼」の名で行ったとされている。
「北政所」の名ではなく、監督権限を犯したのにかわりはないのだ。
「舜旧記」によると、
細川幽玄が田辺城で籠城している最中の8月18日、後に勅使となる「烏丸光広」の父である
烏丸光宣は豊国社へ社参し、北政所とあっている。
このように、それっぽい資料がのこっているのだ。
そこで、更に一歩進めた妄想歴史を、元にした資料と共に書いていこうと思う。