初めてのお忍び その1
ちくちくちく。
居室の大きな窓際に椅子を置いて腰かけた後、私は手元の刺繍枠に意識を集中させた。考えるのは図案の鳥の羽の色をどうしようかとか、もっとあちこちに蔓を縫い取ってみようか、ということだけ。
こうしているのが、今、一番楽だった。
余計な事を思い浮かべないで済む。
一羽の鳥が鮮やかに仕上がったので、酷使した目を休める為に顔を上げる。隣で同じように刺繍しているマアサの方をふとみると、彼女はものすごいスピードで針を動かしていた。鬼気迫る顔付きで一点を見つめるマアサの目の下には、うっすらと隈が出来ている。
「少し休憩しない? マアサ」
明るい声で気をひきたたせるように声をかけると、パタリ、と手を止めマアサもこちらに向き直った。
「やっとそう言って下さいましたわね。姫様があまり熱心に取り組んでおられるので、私からは言い出せませんでしたわ」
ほっとしたような柔らかな笑みに、自分もまた心配をかけていたのだと分かって、決まりが悪くなった。
「では、お茶にしましょうか。ベルを鳴らして、モリーを呼ぶわ」
王宮に仕えて長いモリーの手際の良さといったらない。それに他の使用人のように、マアサと私が一緒のテーブルにつくことに眉をひそめることもなかったので、気が楽だった。立ち上がって壁際に垂れ下がった呼び鈴の紐を引こうとすると、マアサがそれを止めさせた。
「私が行って参りますわ。朝からずっと同じ体勢でおりましたので、体が強張っておりますの」
う~んと腰を伸ばし、肩をばきばきと回すマアサのユーモラスな動きに、思わず笑ってしまう。
「ふふ。ごめんなさいね。ではお願いするわ」
普段は流れるような所作が美しい淑女然としたマアサなのだが、私の前でだけ時々こうやって素を見せてくれる。それをとても嬉しく思うたび、マアサはただの侍女ではなく、大切なお友達だと感じるのだった。
「はい。しばらくお待ちくださいね、姫様」
たおやかな曲線を描く女性らしい後姿を見送る。
一人残された大きな居室は、急によそよそしく感じられた。
マアサから、フィンとの話を聞いたのは10日前のことだった。
てっきり他の貴族令嬢方と同じく、結婚前に箔をつけさせる目的で、マアサは親が王宮に寄越したのだと思っていた。フィンを追ってきたなんて初耳だったので、私は非常に驚いた。
もっと早くに打ち明けてくれたなら何か手助けが出来たかもしれないのに……と私が言えば、マアサは辛そうにぎゅうっと眉根を寄せた。
『もしかしたら、私のことを思い出してパッシモ様から声をかけて下さるかも、と待ち続けて4年ですわ。でも。――でも、あの方は、何も覚えていらっしゃらなかった。11歳の男の子にとって、数回会っただけの小娘との口約束なんて、その場限りの戯言だったのだと、今ならようく分かりますのに。……私、大馬鹿ものですわね』
『私が夜会に出ろと強引に勧めたりしなければ良かったのだわ。ああ、マアサ、なんて言って詫びればいいの。……本当に、ごめんなさい』
パーティへ参加したせいで、彼女は僅かに残った希望すら絶たれてしまったのだ、と青ざめた私を慮って、マアサは健気に声を張った。
『姫様のせいではありません!素晴らしい雰囲気を味わわせて頂きましたし、あんな高価で美しいドレスを着たのも初めてでしたもの!――パッシモ様とのことは遅かれ早かれ、はっきりすることでしたわ』
真っ赤に泣きはらした目で、なんとか微笑もうとする彼女に手を伸ばす。
そっと両手を取ると、我慢できなくなったのか、パタリ、と一粒の涙が毛足の長い絨毯に落ちた。
『フィンがそんな残酷なことをするなんて……。よく我慢したわね、マアサ』
フィンを呼びつけ、不実を責めることは簡単だ。
責任を取らせることですら、この私になら出来るだろう。
でもそんなことをすれば、マアサの心はもっと傷ついてしまう。
私には、分かる。
――想う相手に見向きもされない辛さだけは。
結局、ただ黙って大丈夫だ、というように震える彼女の手を握りしめることしか出来なかった。
その日の夜から、私は夢をみるようになった。
リセアネがやって来て、幸せそうにこう告げる。
『エドワルドと結婚することになったのよ、姉様』
隣にエドワルドが現れる。
愛しくてたまらない、というようにリセアネを見つめて冷たい美貌を和ませる。
『ずっと彼女を愛してきたんだ』
――やめて。
それ以上、言わないで。
汗が背中を伝って下りる。
何か言わなくては、と思うのに、金縛りにあったように私はまばたき一つ出来ない。
『姉様、祝福して下さるわね』
『ナタリア王女殿下、どうかお許しを』
そして彼らは、私に背を向け仲よく寄り添いながら遠ざかっていく。
待って。
……お願い、待って!
はっと気が付くと、見慣れた天蓋のビロウドが目に入る。
恐る恐る手を伸ばして、自分の頬に手をやるとそこは冷たく濡れていた。
ただの夢なのに、と固く目をつぶっても、仲睦まじげに寄り添って踊っていたあの日の2人が脳裏から消えてくれない。私がエドワルドからダンスを申し込まれたことは、ただの一度もない。
今はまだそんな話は出ていないようだけれど、数年もすれば、彼も美しい花嫁を娶るのだろう。その時、まっすぐ立って笑っていられるのだろうか。
早く余所に嫁いでしまいたい。
私には、耐えられそうにない。
トントン。
ノックの音に、我にかえった。
軽く首を振って、気持ちを切り替える。
「お入りなさい」
声をかけて入口に向き直ると、仏頂面のマアサを従えたフィンがそこに現れた。 胸に手をあて軽くお辞儀をし、あっけに取られたままの私に挨拶を述べる。
「こんにちは、王女殿下。本日もご機嫌麗しゅう」
「フィン」
「ご尊顔を拝する光栄を頂き、大変嬉しく」
「フィンったら!」
放っておいたらいつまでも続きそうな口上を、無理やり止めさせる。
「酷いな、姫様。他の騎士とは随分扱いが違うじゃないか」
仕えるべき主に対して、もちろんこんな喋り方は許されないと彼も知っている。私があんまり淋しがるので、他に目のないところでだけ昔のように気安く振る舞ってくれているだけだ。
でも今日は、その軽口に苛立ちが募った。
「よく私の前に顔が出せたものね! マアサは、確かに私の侍女かもしれないけれど、大切なお友達でもあるのよ。――出て行って、フィン。しばらく彼女をそっとしといてあげて」
「それは出来ないな。なにせ、彼女に求婚中の身だから」
しれっと口にして、フィンはにっこりほほ笑んだ。
「今日は、主であるナタリア姫にお許しを頂きに参上したのさ。彼女をデートに誘ってるんだけど、毎回仕事が忙しいからって、取りつく島もないんだぜ。でも姫様がいいって言ってくれたら、一緒に外出してくれるそうだから」
驚いて、険しい表情のままのマアサを見遣る。
「そうなの? マアサ。困っているのなら、助けになるわよ」
私の言葉にマアサは優美な眉を上げ、自身の隣に立つ長身のフィンを睨み上げた。
「一度ご一緒するまで、諦める気はないそうですわ。パッシモ様は、本当に領民思いの方でいらっしゃるので、私の持参金からトレッサが外れるまでは、こうして気があるふりをなさるのでしょうし」
「トレッサはもちろん欲しいさ。……でも君のことは、もっと欲しいんだ」
フィンがここまであけすけな物言いをするなんて、長い付き合いの中で初めてだ。私が驚きのあまりまじまじと彼を見つめると、フィンは照れたように視線をそらす。マアサは真っ赤になった後、怒りを抑えきれない、というように大きく右手を上げた。
「なんてことを! 恥を知りなさい!」
パン、と乾いた高い音が辺りに響き渡る。
ぶたれたフィンより、手を振り下ろしたマアサの方が驚きに目を見開いていた。
「どうして……」
エドワルドと肩を並べるほど武勇に優れている彼が、マアサの手を止めることは容易いはず。それなのに、彼はあえて避けなかったのだ。
「君のことを思い出せないのは事実だからね。一発はもらっておいてあげる」
初めて人をぶったのだろう、マアサは極度の興奮でぶるぶる震えている。フィンは赤くなった左頬をおさえ、悪戯っぽい瞳でマアサを見下ろした。
「今日は無理みたいだから、次の非番の日にまた誘いにくるよ。――お茶の邪魔してごめんね、姫様」
優しい声でそう告げると、フィンはそのまま出て行ってしまった。
「どうしてですの。絶対に避けると思っていましたのに……」
彼の姿が消えると、マアサは寄る辺のない子供のようなか細い声でそう呟いた。
私は、何も言えなかった。あんなフィンは初めて見たし、彼が未婚の令嬢にあそこまではっきり言うということは、結婚を決意しているということなのだ。
そして昔からフィンは、一度決めたことは必ずやり遂げる人だった。