幕間~マアサの憂鬱~
王族のみが出席を許された晩餐会が終わるのを待って、マアサは主であるナタリア姫専用の控室に向かった。
簡単な化粧直しをして差し上げてから、再度王女を舞踏会に送り出さねばならない。
腰までの長い栗色の髪に今日試したのは、最近流行っているという新しいアレンジだ。両サイドを編み込み、小花を散らして頭に巻きつける。下ろした後ろの髪は、こてでふんわりと巻き、彼女の女性らしく丸みを帯びた肩にかかるようにセットした。
滅多に着飾らせてもらえないのが、残念だ。
聡明で落ち着いた物腰のナタリア姫に、マアサは初めて引き合わされたその日から、強く惹きつけられた。
王宮で働いていると様々な身分の貴婦人に遭遇するのだが、着飾った美しい容貌の下に隠された醜い競争心や強すぎる自尊心に、マアサはうんざりしていた。華の宮の主室に戻り、ナタリア姫と言葉を交わすだけで、それまで胸に蓄積したもやもやとした黒い塊はあっという間に霧散する。
誰よりも素晴らしい女性であられる、我らがナタリア王女殿下。
マアサは常々そんな方にお仕え出来る我が身の幸運を感謝していた。
その大切な主が浮かない顔をして戻ってきたのだから、平穏でいられるはずがない。マアサの胸は疑惑と憤怒で染められ、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
温和で人の持つ良い面だけを見ようとするナタリア姫は、性根の悪い人間の悪意の的にされてしまうことが度々(たびたび)あるのだ。
「姫様に誰が何をおっしゃったのですか。……ふふ、すぐさま、あらゆる手段を使って報復して差し上げますわ」
マアサがやると言えば、それは脅しでないことをナタリアは経験上よく知っている。
隣国・ラヴェンヌの第二王子であるクリストファーが、こっぴどくナタリアを袖にしてしばらく経ったある日。ケント王弟殿下の主催された離宮でのガーデンパーティでのことである。
招かれていた客の一人が、結婚に関する酷い当てこすりをナタリアに聞かせるかのように甲高い声で囀り始めたのだ。頬を恥ずかしさで真っ赤に染めたナタリアのすぐ後ろに控えていたマアサは、そのご婦人の足を巧妙にひっかけ、沢山のデザートが並ぶ長テーブルに突っ込ませた。
その結果、ドレスの裾はまくれ上がり、美しく編み上げられた髪には大量のクリームがこびりつき、目も当てられない事態になった。
「まあまあ、なんて不調法なのかしら! あやうく、姫様にもお茶がかかるところでしたわ! このような方が招かれていると予め分かっていれば、王妃様は出席をお許しにならなかったかもしれません。姫様、お怪我は?」
大仰に嘆くマアサの声で、ますます件のご婦人に注目が集まり、彼女はとうとう泣き出してしまった。
その時の騒ぎを思い出し、ナタリアは両腕を体に巻きつけた。
寒気がするのは、袖のないドレスのせいではない。
「違うの、何もない。本当よ? ――ああ、そんなことより、マアサにいい知らせがあるの」
ナタリアは気を取り直して、にっこりと微笑んだ。
「お母様にマアサのことを話したら、今夜の舞踏会に是非、出席して頂きなさいって。今日のパーティには国中の有力な貴族子息が勢揃いしているのよ。マアサのお眼鏡にかなう素敵な殿方が、いらっしゃるかもしれないわ!」
そうなったらどんなに素晴らしいだろう、とすべらかな頬を紅潮させ、ナタリアはうっとりと手を合わせた。
「私に勧めてくれたピンクのドレスがあったでしょう? あれに着替えればいいわ。サイズは同じくらいですものね。靴は履いてみなければ分からないけれど、合わなければリセアネに借りてもいいのだし。舞踏会まで、まだ充分時間はあるのだもの。首飾りはどれがマアサの肌に映えるかしらね……。あ、髪も私に任せて頂戴ね。これでも、リセアネの髪を結うのがとても上手だと、褒められていたんだから!」
肝心のマアサは、ぽかんと口を開けたまま硬直している。
男爵令嬢に過ぎないこのわたくしが、王妃様主催の王宮舞踏会に?
ないないないない。
小刻みに首を振り始めたマアサを暖かな眼差しで見つめ、ナタリアはきっぱりと宣言した。
「前からずっと心配だったの。侍女勤めをしているうちに、私の大切なマアサが婚期を逃すなんてことになったら、大変だもの。今王宮に奉公に上がっている貴族子女の中で、未婚なのはマアサだけなんだと、女官長に教えてもらえて本当に良かったわ。さあ、一度宮に戻りましょう!」
マアサは、厳しい顔つきの女官長の顔を思い浮かべ、心の中で盛大に呪った。
なんて余計なことを!!
パーティは王陛下の乾杯の合図で始まった。
「我が妃トリシアに、これからも神の加護があるように」
高い壇上に座した陛下と王妃の姿が、豆粒のように小さく見える。
マアサは両手に握りしめた華奢なグラスを、周りに合わせてそっと掲げ、恐る恐る口に運んだ。僅かなアルコールしか含まれていないと聞いて受け取ったのだが、初めて味わうその芳醇な香りと刺激に思わず咽てしまった。
けほけほ、と喉を鳴らすと、隣にいた年配のご婦人が心配そうにマアサを覗き込んだ。
「大丈夫? もしかして、お一人なのかしら」
きょろきょろと辺りを見回す様は愛らしく、重ねた年齢を感じさせない女性だった。マアサは、気さくに声をかけてきたご婦人の身なりを一瞥し、どうやらかなり身分が高い貴婦人ようだ、と判断した。
「ご配慮に感謝いたします、奥様。このような盛大な夜会は初めてなものですから、お目汚しをいたしました。今日は主のいいつけで参っただけですの。特に連れなどはいませんわ」
丁寧に膝を折ると、彼女は柔らかな笑みを浮かべマアサに向かって手を振った。
「私はフランチェスカよ、可愛い方。そんなに固くならないで。お若いレディにそんな風にうやうやしくされてしまうと、300歳のお婆さんになった気分になるわ」
そう言って大きな茶色の瞳をぐるりと回し、おおげさに肩をすくめる仕草に、マアサはつい可笑しくなって、クスリと笑った。
「そうそう。怖い顔して立っていたら、もったいないわ。せっかく綺麗なお顔立ちをしてらっしゃるのだから、今のように笑顔でいなさいな」
「ありがとうございます。私はマアサと申します。フランチェスカ様は、お連れの方はいらっしゃらないのですか?」
「主人と来たのだけれど、挨拶しなくてはいけない方がいるといって、私を残していってしまったの。息子も参加しているはずなのに、姿が見えないし。こうなったら、美味しいものをうんと食べて帰るつもりよ」
「凝ったお料理が沢山並んでいますものね。この日に合わせて、南国から珍しい果物なども取り寄せたと伺っていますわ。……よければ、見繕って参りましょうか?」
気持ちのいいご婦人に、マアサは何かしてあげたくなってしまった。
そう申し出ると、不思議そうに彼女は小首を傾げた。
「随分詳しいのね。もしかして、こちらにお勤めなのかしら?」
「はい。恐れ多くも、ナタリア王女殿下の侍女をさせて頂いております」
「まあ! やっぱりね! 姫様付きの方に、ここで給仕の真似事なんてさせられないわ。一緒にテーブルまで参りましょうよ。未婚でいらっしゃるのなら、付添人が必要ではなくって?」
マアサの細い薬指に指輪がないのを見て取ると、フランチェスカは悪戯っぽく目元を和ませる。
「でも、よろしいのでしょうか。私のような者に、そんなに親切にして下さるなんて、なんだか恐れ多くて」
尻込みしたのだが、フランチェスカは強引に彼女の腕を取って、会場の端からマアサを連れ出してしまった。
小さなテーブルで果物を取った後、2人で甘酸っぱいそれを味わっていると、見知らぬ若い男性がマアサに声を掛けてきた。
「失礼ですが、どちらの令嬢なのでしょうか。私は、ヘンリー・フィッツラルドと申します。先ほどから、あまりの貴女の美しさに目が吸い寄せられてしまうのを止められないでいるのです。どうか、お名前を教えていただけませんか」
「あの、私……」
16歳で社交界にデビューしてすぐ王宮に上がったマアサは、身分の高い方に仕える術は学んだものの、こんな時にどう振る舞えばいいのかは分からない。姫様はああ言ったが、マアサに恋人を作る気はさらさらなかったので、余計に困惑してしまう。
男なんて信用に値しない生き物だと、身を以て知っているのだから。
マアサが口ごもっていると、フランチェスカが見かねて助け舟を出してくれた。小声でそっと耳打ちしてくる。
「こちらはフィッツラルド子爵のご子息であられるわ。大丈夫、真面目でしっかりした方だという評判よ」
だとすれば、黙ったままなのは失礼にあたるだろう。
マアサは浮かない気持ちのまま軽く会釈をし、「私、マアサ・リカルドと申します」と名前を告げた。
途端、隣に立っていたフランチェスカの態度が一変した。