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彼女を津田さんと呼ぶべきか、海里と呼ぶべきか? そう言えばこれまで一度も名を口にした事がなかった。船の上では二人切りだったから、その必要がなかったんだ。
僕だって女性をいきなり名前で呼べるほど図々しくはない。津田にしておこう。
「津田さーん。おーい」
間の抜けた声を今一度張り上げてみたが、返事はなかった。反応して動くものの気配もない。
霧をかき分け、先に進む。
僕らのヨットと違って居間、寝室、キッチンなどがすべて別々の部屋にある。ヨットがワンルームマンションならこっちはベニスの豪邸というところだ。
しかしどれも長いあいだ使われた形跡がない。板張りで統一したおしゃれな感じのバーがあり、ビリヤード台が並んでいたが、ラシャには雪のように埃が積もっていた。かつてはこの船にも持ち主がいたのだろうか?
バーを出、溜め息をついて頭を掻く。山ほどの疑問は横に除けておいて、今は海里を見つける事に専念しよう。
やがて突き当たりにぶつかった。そこからは通路が左右に伸びるT字路になっている。歩きながら、どっちに行ったものかと考えかけた瞬間だ。
その時、僕は確かに見た。通路に鬱蒼と漂う霧が、何らかの動きによって渦を巻くのを。つまり、動くものの気配を敏感に察知し、それが巻き起こした風圧で形を変えたんだ。
今のは?
僕の足は凍り付いたように動きを止めた。ライトの光は何も捕らえていない。しばらく瞬きすら忘れてその場に立ち竦む。
僕は頻繁に振り返っていたから、その隙に誰かがあのT字路を横切ったのだろうか。霧の動きはその余韻か? だがいくら後ろが気になって仕方ないと言ったって、ほんの数秒で通り抜けられるものだろうか。走っていたなら足音で気付く筈だし……
今のが海里だと期待する反面、海里じゃない「何か」だったらと思うと、僕は一歩も動けなくなってしまった。
勘弁してくれよ。僕は……僕はただの……ただの、何だろう? 海里にとって何だ? 僕にとって、僕とは何だ?
そんな疑問は今はどうでもいいと冷静な自分が言っている。だがこの先に進む為に、僕には勇気が必要だった。心の支えとなり、恐怖に凍り付いた足腰に力を注入してくれる源が。




