10-12
「海里!」
もう一度名を叫んだ。でも、海里はもう何の反応もしなかった。ただ、こちらを見ていた。
泡の量に比例して喫水が高くなってゆく。やがて海面が縁を越え、甲板に押し寄せて来てもまだ、彼女は動かなかった。船と共に海中へと引きずり込まれてゆく。
最後に一瞬だけ、彼女は笑ったように見えた。
僕は構わず海へ飛び込んだ。もう一瞬足りとも迷わなかった。
サルガッソーの海は重く、冷たかった。以前、僕が体験したダイビングよりもはるかに息苦しい。水は羽毛布団の中身なんてもんじゃない。まるで砂利か鉄球で出来ているようだ。
一緒に沈んだ船は早々に砕けて破片となり、積んでいた寝椅子や内装の一部をまき散らしながら沈んでゆく。そこから吹き出す大量の気泡が僕の顔にぶつかってきた。
泡を浴びながら暗い海の底へと沈んでいくのは、真冬の夜に街灯の下で雪空を見上げているみたいだ。
泡と破片の合間に、海里の姿が見えた。ずっと下だ。僕は無我夢中で水を掻き、彼女を追った。
「海里!」
声は水中にぼんやり響いた。
底知れぬ水中へと沈んでゆくというのに、海里は少しもそれに抵抗していなかった。人形か死体のようになされるがままで、体に力が入っているようには見えない。解けて水中をさまよう髪と同じだ。海草のように無力だった。虚ろな表情で半開きにした眼はどこも見ていない。
死力を振り絞った僕は、とうとう手が届くところまで彼女に近付いた。ゆらゆら漂う彼女の白い手を掴もうとした瞬間だ。僕の指は何の抵抗もなく、海里の手をすり抜けてしまった。まるでそこにいる彼女が蜃気楼か幻影であるかのように。
そして僕は、彼女の内側を見た。幽霊の体の中を突き抜けた時と同じく、絶望の一端に触れたんだ。
人んちの家庭についてあれこれ言いたかないし、好きな人の親を中傷するなんてもってのほかだが、こればっかりははっきり言っておきたい。海里の父親は最低の男だ。あいつの体の中に詰まってるのは生ゴミだ。
彼は種をばらまいただけだった。愛人に海里を生ませはしたが、それっきりだった。認知もしなけりゃ養育費も払わず、「他人だから知ったこっちゃない」って態度を貫き通した。
父親を憎まざるをえない環境や、経済的に常にカツカツで進学を諦めなきゃならないのは辛かったと思う。でも彼女にとって本当に大変だったのは……身を切られるほど悲しく、痛かったのは、母親の中に存在する自分への憎しみだったんじゃないかな。